2011年2月23日水曜日

昭和8年(1933)2月20日 小林多喜二の死(2) 「Nのその後」(松本克平)

先の記事(コチラ)でご紹介した映画「小林多喜二」(1974)のパンフレットの中で、
俳優の松本克平さん(故人)が「Nのその後」
という原稿を寄せておられる(実際は、別誌からの転載)。
で、その「N」というのは、小林多喜二の取り調べを指揮した中川成夫のことです。
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この記事によりますと、
中川は、その後、警視に昇進、板橋警察署長となる。戦後は、板橋区長になるも追放。
しかし、T(東映)映画製作会社の営業部次長に返り咲いた、といいます。
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中川といえば、江口渙がその「たたかいの作家同盟記」で、中川の小林多喜二殺害予告について記しています。
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以下引用。
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「一九三三年のたしか二月のはじめであったと思う。私は作家同盟の幹部ですでに未決囚として刑務所にぶちこまれている人びと、-中野重清や壷井繁治、窪川鶴次郎、村山知義などについて、面会と差し入れの許可をえるため警視庁特高第二課へ交渉に行った。そしてナップ係の例の中川成夫にあって交渉してみると中野たちがつかまってからもう一年近くにもなるので私の要求は案外かんたんに受け入れられた。
ところが用件を片付けた安心から私がさっさと帰ろうとすると、中川はにわかに言葉の調子をあらためて、
「江口君。ちょっと話があるから待ってくれ」と、ひどくすごんだ目つきで私をにらみつける。なんのことだか見当がつかないので、私も思わず中川の目を見つめる。
「江口君。きみは小林多喜二と始終連絡をとっているだろう」
「バカなことをいうもんじゃない。小林とのあいだに連絡なんか絶対にない」
私はほんとうのことをいうのだが相手は承知しない。
「小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。こんど連絡があったら、このことだけははっきり小林に伝えておいてくれ。Iいいか。われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。つまりは天皇陛下を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ。このことだけは、やつがつかまらない今のうちからはっきりいっておくからな。いいか、連絡であのやろうにあったら、忘れずに伝えてくれ!」
しゃべっているうちに、だんだん興奮してきた中川の顔には、隠しきれない怒りとにくしみがあふれてくる。その表情の動きから見てとうていたんなるおどかしとは考えられない.」
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くらせみきお「小林多喜二を売った男 スパイ三舩留吉と特高警察」という本があり、その中には中川成夫に関して、上記の松本克平さんより詳細な記述があります。
概要、下記です。
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中川成夫(しげお):警視庁特高課第二係長
明治27年(1894)9月5日、農家の三男として広島県に生まれる。
大正5年前後に上京。
不明ながら何かの職についた後、警視庁巡査となる。3ヶ月間の警察練習所(警察学校)を終了後、外勤係巡査となる。
巡査勤務の間、苦学して日本大学専門部の夜間部本科(法律学科)に学び、大正12年(1923)3月卒業。28歳。


大正の頃、警察官という職業に対する世間の風潮は、サラリーマンより低い評価であった。
同じ頃に警察官を志していた後の特高課長毛利基も、取締まりにあたった被疑者・華族の子弟の親から「不浄役人」と呼び捨てられたことを回顧している。
世間の人々の間では、上層階級を含め、あまり好ましく思われない別社会の人間の職業という偏見があったようである。
更に外勤巡査の身分は官僚機構の中では低い位置にあり、給与も低く、外勤係巡査の多くは、高等小学校卒業程度の者が多かったという。

 野心に燃えていた中川成夫は、苦学生として警察官が比較的多く通っていた日本大学夜間部に学んでいる。
当時の日大は夜に本科を設置していただけでなく、苦学生に対する配慮から科目制を実施しており、卒業までに規定の単位を取得しさえすればよく、当番勤務のために毎日の通学が困難な状況にあった外勤巡査にとっては都合が良かった。
更に、日大をはじめとする私立大学夜間部(主に専門部。専門部卒は資格は取得できたが、大学の本科を卒業して得られる学士号の取得はできなかった)は昼間専門部に比して卒業しやすかった。

 昭和3年(1928)、東京市下谷区(現、台東区)上野警察署の特高係に勤務。
翌年、四・一六全国一斉検挙事件(339名起訴)に応援・関係したのを機に警視庁特高課に配属される。
山県為三警部とともに「昭和の新選組」「警視庁新選組七人衆」を自称し、その取調べ方は拷問を伴う荒っぽいものだった。
昭和7年頃は専らプロレタリア文化連盟などの左翼文化運動を担当し、主任警部として活躍する。
昭和7年、警察官の最高栄誉である功労記章を下付され、翌年12月末にも中川ら19名の特高警察官が功労記章と特別賞を受ける。

昭和12年5月、特高第一課第一係から同課第二係に転じ、その係長に昇進。43歳。
翌年、経済警察の創設に伴い、その経済第三課に転じ、同課長に就任。
昭和14年、警視庁警視に昇進、高輪署長に栄転。
昭和18年、築地署長に就任。
昭和18年7月1日、東京市制が東京都制へ移行に際し、都政施行によって都長官は官選となり、都内区長職も東京都書記官を充てることとなると、中川は警察を退職して東京都書記官へと転じる。

昭和19年6月30日、東京都滝野川区(現、北区)区長に就任、敗戦後の昭和21年3月30日までこれを務める。

昭和21年、公職追放となるが、同年、滝野川区のヒカリ座映画劇場の経営に参画。同劇場の常務取締役に就任。さらに、オリムピア興業(映画興業会社)に転じ、同社の専務取締役となる。

昭和27年10月、オリムピア興業の東映への吸収合併に伴い、幹部社員として東映に入社、のちには同社の取締役興業部長等を務める。

この間、自宅借地の寺院内に幼稚園を設立し妻がこれを経営(後に、同幼稚園は学校法人となる)。幼稚園の経営を背景に、昭和38年からは北区教育委員会委員を務め、昭和43年には同教育委員長となっている。
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松本克平さんは、大著「日本新劇史」「日本社会主義演劇史」を出版し読売文学賞を受賞されています。前者については、別のところで何度か引用させて戴きました。
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たたかいの作家同盟記〈上〉―わが文学半生記・後編 (1966年)
たたかいの作家同盟記〈上〉―わが文学半生記・後編 (1966年)

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小林多喜二を売った男―スパイ三舩留吉と特高警察
小林多喜二を売った男―スパイ三舩留吉と特高警察

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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

小林多喜二を虐殺した側について調べていて参考になりました。
戦前に、人民の人権のために命を賭けて戦った人たちを、弾圧した側が、戦後は復権して叙勲などを受けていますが、その類だと思われます。

原発事故後、日本のありようがなぜこのようになっているのか(なぜ子どもを福島から疎開させないのか、なぜ再稼動なのか、など)について、非常に疑問に持ち、日本の歴史から背景を調べないといけないと思い、調べ始めました。

戦前に、人権のために戦った人と、そういう人が今に至るまで叙勲されず、彼らを弾圧した側が叙勲されている事実が、「今の日本がこのようになっている」ことの説明だと思われます。

匿名 さんのコメント...

小林多喜二を虐殺した人物が
戦後、東京都の教育委員に?
どうりで都の教育委員会が右翼的な発想で
「君が代を歌わない教員」を弾圧するはずです。
ルーツは、ここ(N)なのですね。
特高の生き残りが、平然と公的機関に返り咲きとはね。