2011年2月14日月曜日

京都 四条大橋から三十三間堂へ(4) 秀吉の大仏殿石垣の碑 方広寺の「国家安康」の鐘

次に、豊国神社の隣にある方広寺
「隣にある」には違いないが、主格顛倒の語弊がややある。
元来、方広寺の寺域にあった場所に、後から豊国神社が建設されているのだ。
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方広寺
現在は本堂と鐘楼が残るだけであるが、かつては巨大な大仏殿を有する広大な寺院であった。
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天正14年(1588)、秀吉は東大寺大仏(高さ5丈3尺)に倣って大仏建立(高さ6丈3尺、約20m)を計画。
文禄4年(1595)、大仏(膠漆像)は完成し、各宗派の僧1千人が動員され「大仏千僧供養」の法会が行われる(日蓮宗の日奥は拒否)。
しかし、翌年の大地震で大仏は崩壊。
その後、信州善光寺の如来像を安置するが、厳暑のさなかに雪が降る珍事が起り、如来の祟りとされ善光寺に返還される。
次に、秀吉没後、秀頼が金銅仏の大仏を再建するが、これまた鋳造中の火災で焼失。
秀頼は三度目の大仏復興をめざし、慶長19年(1614)にこれを完成させる。
実は、家康は、秀頼に対し半ば強制的に方広寺大仏殿の再建工事を提案し、莫大な金銀を浪費させる戦略をとっている。
豊臣氏の経済力を弱体化させ、軍資金を削減させる戦略である。
また、家康は、淀殿にも様々な神社仏閣を秀頼の名での再建、寄進することを勧めている。
そして、秀頼が大仏開眼供養の準備をしているその時、家康は、梵鐘の銘文「国家安康君臣豊楽」の「国家安康」に豊臣家の反抗ありと云いがかりをつける。
但し、この頃、既に秀頼側も諸国の牢人を大坂に集め、来たるべき戦争には備えている状況にある。
そして、この鐘銘事件をトリガーにして、「大坂夏の陣」、「冬の陣」がおこる。
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その後も大仏と梵鐘だけは残るが、何度かの修造の後、寛政10年(1798)、落雷で炎上、大仏は灰燼に帰す。
天保14年(1843)には、尾張の有志が半身の木造大仏を寄進。
しかし、これも昭和48年(1973)の出火で焼失となる。
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▼大仏殿石垣
この石垣、とてつもなく大きい。
2m超はあるだろう。

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「国家安康君臣豊楽」の鐘




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