2011年3月22日火曜日

昭和16年(1941)3月24日 「本国は北賊排虎(ヒトラ)の為に滅され、印度洋上の領土は倭寇の襲ふところとならんとす。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

昭和16年3月の永井荷風「断腸亭日録」より・・・
(適宜改行を施しています)
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昭和16年3月21日
三月廿一日。春分。午後淺草邊の墓石をさぐる。稲荷町市電停留場のほとりに北斎の墓あれば、尋見るに路傍に東京市指定の杭立ちたり。誓教寺といふ寺なり・・・
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3月22日
・三月廿二日。日本詩人協會とか稱する處より会費三圓請求の郵便小為替用紙を封入して参加を迫り來れり。會員人名を見るに蒲原土井野口あたりの古きところより佐藤春夫西条八十などの若手も交りたり。

趣意書の文中には肇国(てうこく)の精神だの国語の浄化だの云ふ文字多く散見せり。
抑(そもそも)この會は詩人協會と稱しながら和歌俳諧及漢詩朗詠等の作者に対して交渉せざるが如く、唯新体詩口語詩等の作者だけの集合を旨となせるが如し。
今日彼らの詩と稱するものは近代西洋韻文体の和譯若しくは其摸倣にあらずや。近代西洋の詩歌なければ生れ出でざりしものならずや。
その發生よりして直接に肇国の精神とは関係なきもの、又却て国語を濁化するに力ありしものならずや
藤村の詩にはわが脣を汝が口にやはか合さで措くべきやなど言ひしもありき。
佐藤春夫の詩が國語を浄化する力ありとは滑稽至極といふべし
これ等の人々自らおのれを詩人なりと思へるは自惚の絶頂といふべし。木下杢太郎も亦この會員中に其名を連ねたり。
彼等は今後十年を出でずして日本の文章は横にかき左からよむやうになるべき形勢今既に顕著なるを知らざるにや。
今更国語の整理だの浄化だのと言ひはじむるは泥棒の去りたる後縄をよるが如し
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冷静でするどい指摘。
それにしても元の弟子、佐藤春夫は相当憎まれている。
佐藤春夫が菊池寛の文藝春秋社にすり寄ったのが気に食わなかったそうだ。
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3月24
三月廿四日。曇りて風冷なり。午後物買ひに出でたる歸途飯倉八幡前を過きたれば、神谷町なる光明寺の墓地に入る。・・・岡の頂上は垣を隔てゝ和蘭陀公使館なり。建物の窓開きたるもありて人住むが如し。
本国は北賊排虎(ヒトラ)の為に滅され、印度洋上の領土は倭寇の襲ふところとならんとす。
亡国の使臣は今猶この家にかくれ住むにや。哀むべきなり。・・・
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この時点では、まだ南進策が正式な方針にはなってなかった。

しかし、荷風は日本は南進すると思っていたようだ。
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3月26
三月廿六日。晴。午後庭に草花を蒔く。燈刻 六時過 午夢よりさめて銀座を歩み芝口の金兵衛に夕餉を喫す。沖電気社の歌川氏に逢ふ。春風暖なるに従って銀座通の人出日に増し甚しくなれり。

芝居活動小屋飲食店の繁昌亦従って盛なりと云ふ。
其原因はインフレ景気に依るのみにあらず、東京の人口去年あたりより一個月二三萬人ヅゝ増加するに係らず、米穀不足のため町に出でゝ物喰はむとするもの激増せしが為ならむと云。飯米は四月六日より男一人一日分二合半の割當にて切符制實施に及ぶと云。
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3月27
・三月廿七日。北風はげし。終日家に在り。  

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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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