2011年3月7日月曜日

樋口一葉日記抄 明治27年(1894)3月(22歳) 「中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。」(樋口一葉「いはでもの記」)

明治27年(1894)3月1日
三月一日 『文学界』十四号来る。・・・
*
「花ごもり」其1~其4が「文学界」第14号に掲載されている。
*
*
3月2日
二日 曇り。かしらなやましくて終日(ヒネモス)打ふす。夕刻、号外来る。衆議員当撰者の報(シラセ)なり。
*
3月1日の衆議院議員臨時総選挙の開票速報が号外で出る。
*
*
3月9日
九日 雨。今日は銀こんの大典也。都市府県をしなべて、こゝろごゝろの祝意を表するに狂するが如しとか聞しが、折あしき雨にて、さのみはにぎはしからぬやにきく。・・・此夕べ、樋口くら来る。
*
明治天皇の結婚25年の祝典があったようだ。
樋口くらは、父則義の弟喜作の次女。
長男幸作を丸茂文良の経営する下谷区上野桜木町の丸茂病院に入院させるため、相談に上京していた。
*
*
3月12日
十二日 ・・・禿木子及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。「不平不平」のことばを開く。うれしき人也。
*
平田禿木に連れられて馬場孤蝶(25)が初めて来訪
「うれしき人也」と好意的。
また、別のところでも、「こゝろうつくしきかな」と孤蝶を評している。
一葉は、「文学界」同人の中で、孤蝶を心を許すことのできる相手と見たようだ。
*
□馬場孤蝶:
本名勝弥。旧土佐藩士馬場來八の4男。自由民権運動家馬場辰猪(米国で客死)の弟。
明治11年、父母と共に上京、本郷龍岡町に住む。長兄以下を失い「家」を背負う状況に陥る。
神田淡路町の共立学校で平田禿木や幸田成友と同級。
明治学院では島崎藤村や戸川秋骨と同級。
卒業後、郷里の高知の共立中学校に英語の教師として赴任するが、藤村がその下宿先を訪ね孤蝶を「文学界」同人に引き入れる。
上京して、明治26年(1893)9月に日本中学に転職。
長編の新体詩「酒匂川」や「流水日記」などを発表。
この日、平田禿木に連れられて、初めて下谷龍泉寺町の一葉を訪ねる。
その後、明治28年9月彦根中学に赴任するまで頻繁に丸山福山町(龍泉寺町の次の転居先)を訪ねる。
*
*
3月13日
十三日 晴れ。真砂丁に久佐賀を訪ふ。日没帰宅。おくらいまだ帰らず。
*
*
3月14日
十四日 田中君を訪ふ。かずよみせんとて也。夕べはがきを出したれど、行ちがひてかれよりも文を出したるよし。
「今日は小石川師君と共に鍋島家に参賀の事あり」とて、支度中也。
例之(レイノ)龍子(三宅花圃)ぬしがー条、いよいよ二十五日発会と発表に成ぬ。されは右披露をかねて、鍋島家の恩顧をあほがん為、今日の結構はある也けり。
田中ぬし出でさられし後、一人残りて暫時かずよみす。題は三十題成し。
醜聞紛々。田中君の内情みゆる。
*
田中みの子を訪問すると、あれほど批判していた花圃の歌塾発会の披露準備のため鍋島邸に行く仕度中であった(鍋島直大の夫人と娘は中島歌子の門下生)。
みの子が出かけた後、弟子たちに暫く歌の数詠みの指導をする。
みの子についての醜聞をあれこれと聞いて、内情が見えるようであった。
*
*
○「いはでもの記」」(表書きに「二十七年三月」とある感想文)
中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし
人になさけなければ黄金なくして世にふるたづきなし。
すめる家は追はれなんとす。
食とぼしければこゝろつかれて、筆はもてども夢にいる日のみなり。
かくていかさまにならんとすらん
死せるかばねは犬のゑじきに成りて、あがらぬ名をば野外にさらしつ。
千年の後万年の春秋、何をしるしに此世にとゞむべき。
岡辺のまつの風にうらむは同じたぐひの人の末か
*
したいと思うことはなかなか捨てきれるものではないが、我が身は力なく弱い者だから、捨ててしまうより他はない。
世間の人には同情心もないし、私にはお金もないので、この世に生きる手段は何もない。
今住んでいる家も追われようとしている。
食事もろくに取れないので、精神は疲れはて、筆を執って物を書こうとしてもいつの間にか眠ってしまう日が多い。
こんな調子では一体どうなるのだろうか。
のたれ死にの果ては犬の餌食となってしまい、空しい名前を野にさらすことになるのだろう。
千年の後、万年の後のために、私がこの世に生きていたしるしとして何を残すことが出来ると言えるのだろうか。
岡辺の松風の音が恨むように悲しく聞こえてくるのは、私と同じ悲しみを持った人のなれの果ての声なのだろうか。
*
行き詰った一葉の疲れ果てた心の内が見える。
この頃、他にも日記ではない感想文を残しているので、次回にご紹介する。
*
「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
*
*

0 件のコメント: