2011年4月21日木曜日

永禄3年(1560)5月20日~7月24日 松平元康(19歳)、13年ぶりに岡崎城に帰還  三好勢の河内攻め開始  [信長27歳]

永禄3年(1560)
5月20日
・信長、今川方部将の首実験。
部将の首500ほどが清須に集められ、翌20日、首実検。
信長方には今川方家臣を知る者が殆どなく、信長は、義元の同朋衆を1人生け捕り、その同朋衆を立ち会わせる。
首実検の後、信長はそれらの首を埋め、首塚を作らせる。
「清洲より甘町南須賀口、熱田へまいり候海道に、義元塚とて築かせられ、弔のためにとて千部経をよませ、大卒塔婆を立置き候らひし。」(『信長公記』)。
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□義元の首、駿河に送られる
今川軍は義元戦死により三河方面に逃げ帰るが、岡部元綱だけが、主君義元の首の返還を要求して鳴海城に踏み留まる。
残る遺骸も駿府に運ばれることになるが、そのまま駿府までは運べず、三河の牛久保(豊川市牛久保町)の大聖寺に埋葬することになる。現在の「義元の胴塚」。
葬儀は、6月5日、氏真によって営まれる。  
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□その後の今川氏
義元の子氏真が領国支配を担うが、三河では「三川錯乱」、遠江では「遠州忩劇(ソウゲキ)」となり、国人領主たちの離反が相つぐ。
そして遂に、永禄11年(1568)12月、東から甲斐の武田信玄が駿河に、西から三河の徳川家康が遠江に同時に攻め込み、翌年5月、最後の懸川城を開城し、戦国大名としての今川氏は滅亡。

その後、氏真は、妻早川殿の父北条氏康の保護を受け、一時、駿東郡の戸倉城に入り、のち小田原に移り、早川(氏真の妻の名早川殿の出身地)の辺に屋敷を与えられて住む。
氏康没後、家督をついだ氏政は「甲相駿三国同盟」締結の際に信玄の娘を娶っており、居心地の悪い氏真は、懸川開城のとき、家康から「武田を追い払った暁には駿河国をお返しする」との条件提示されたことに望みを託し、家康を頼って浜松に移る。

家康は、天正3年(1575)8月、武田方属城の遠江の諏訪原城を奪取、牧野城と名を変え氏真を城主とする。
しかし、2年後、氏真は、牧野城主をやめさせられ、家康の居城浜松城に引き揚げる。
その後は、家康から500石ほどの扶持を与えられ京都で暮らし、公家たちと交流を深める。慶長17年(1612)、京都から江戸に下り、翌々19年12月28日、77歳で江戸で没す。
氏真の嫡男範以(ノリモチ)は父に先立って没しており、範以の子直房が家督をつぎ、寛永13年(1636)、高家となって、江戸時代の高家今川氏が始まる。
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5月20日
・信長、今川方岡部元信守る鳴海城攻撃。
6月1日、岡部、退却。
「去て鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠候。降参申候間、一命助け遣はさる。大高城・沓懸城・池鯉鮒(ちりう)の城・五ケ所同事に退散なり」(「信長公記」首巻)。
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5月20日
・松平元康、大高城から退却、三河大樹寺に入る。
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5月20日
・長宗我部国親、土佐長浜で本山茂辰と戦う。
長宗我部元親、初陣(5月27日とも)。
28日、敗れた本山茂辰、朝倉城に立て篭る。
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5月23日
松平元康(19)、岡崎城駐留の今川軍が引き揚げた後、岡崎城に帰る(13年ぶりに生地三河岡崎に戻る)。程なく今川家から独立。
駿府に妻子3人(築山殿、信康ら)を置いたまま。翌々年、信長は元康と同盟、東を押さえさせ美濃攻略に専念。
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下旬
・信長、初めて州俣にで出城構築。佐々内蔵助600、土塁築くも斎藤勢に崩される。
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6月
・武田晴信、信濃川中島に海津城を築く。
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6月2日
・信長1,500美濃出兵。
斎藤勢3,000(宿老丸毛兵庫頭率いる)、大垣城長井甲斐守1,000加勢。
信長退却。8月にも再度侵入。
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6月5日
・フランス、リヨンでユグノーの虐殺。
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6月10日
・スコットランド、王母マリー(女王・仏王フランソワ2世妃メアリー・スチュワートの母マリー・ド・ギーズ)、没。異母兄のマレー伯ジェームズが摂政に。
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6月14日
・三条西公条(きんえだ)、正親町天皇に「伊勢物語」伝授を行う。
27日、古今伝授を行う。
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6月15日
・長宗我部国親(57)、没。長宗我部元親が家督を継ぐ。
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6月19日
・足利義輝、近衛新邸へ移徙。
日蓮宗(法華宗)寺院の妙覚寺(「本覚寺」)の仮御所から、勘解由小路室町に建てられた新御所「武衛陣」に落ち着く。
武衛陣址の碑はコチラ
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6月24日
・三好勢の河内攻め開始
三好実休(義賢出家)、大船団で尼崎着。
29日、阿波衆1万、河内に展開。長慶軍と合わせ2万。
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7月
・三好実休、河内金剛寺へ全3ヶ条の「禁制」下す(「金剛寺文書」)。
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7月1日
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ、3男ガルツィア(13)をフィレンツェ艦隊提督に任命。副将バッチオ・マルテッリ。
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7月3日
・三好勢、若江城攻撃、降伏。
7日、八尾、太田、若林進出。
19日、本陣を藤井寺剛琳寺に置く。高屋城救援の畠山高政勢・根来衆と交戦。畠山・根来退却。
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7月6日
・エディンバラ条約締結。英仏間で締結。
英仏両軍、スコットランドから撤退。
新教徒の摂政評議会の設置をイングランドに約束。
フランス、ギーズ一族のエルブッフ公をスコットランドに派遣、イングランド追い出しを図るが失敗。フランソワ2世と妻メアリ・スチュアートのイングランド王位の野望潰える。
10日、エディンバラで身分制議会、開会。
皇太后メアリー・ド・ギーズ没後、先王ジェームス5世庶子マリ伯が摂政としてフランスの庇護を受ける。
カルヴァン派プロテスタントのジョン・ノックスが反乱、フランスが武力介入。
ノックスらカルヴァン派は、英国に支援を求め、エリザベス1世が武力介入、フランス・マリ伯連合軍を破る。
この条約で、スコットランドは自主的に宗教を決定する権限を得て、スコットランドのカルヴァン派長老主義確立
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7月9日
・家康、三河法蔵寺へ全5ヶ条の「定」を下す(「法蔵寺文書」)。
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7月13日
・前田利家の父利昌、病没。兄利久が家督相続。利家は牢人のまま荒木城寄食。
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7月21日
・この日付六角承禎の宿老宛書状。
斎藤義龍との縁談(同盟)に反対(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書)。  
この年、浅井長政の自立阻止の為、承禎は北近江に侵攻、野良田合戦で敗北。
宿老衆は、承禎の長男義治(このとき四郎義弼)と斎藤義龍の娘との縁談をすすめ同盟。
承禎はこの縁談に反対。
六角氏は、天文・弘治年間、義晴・義輝父子を保護、斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を保護、北伊勢で北畠氏と抗争、弘治3年(1557)養女が本願寺に嫁ぎ(「厳助往年記」)本願寺との連携を強化。
同盟成立で、翌永禄4年、浅井長政の美濃侵攻の間隙を突いて佐和山城を攻略、浅井氏を屈服させる。
後顧の憂を断った六角氏は、河内畠山高政と三好包囲網を築き、京都奪還を目指す。
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7月24日
・三好勢松永久秀、大和郡山辰市城に井戸良弘を包囲。
筒井順政がこれを援けるが失敗。28日、陥落。    
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「★織田信長インデックス」をご参照下さい。
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