2011年4月16日土曜日

夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(5の1) 「庸人と相互する以上は下つて庸猫と化せざるぺからず。庸猫たらんとすれば鼠を捕らざるぺからず。」   

夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(5の1) 「ホトトギス」明治38年7月号掲載
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ある夜、苦沙弥宅に泥棒が入る。
細君の帯、羽織などの他に、細君の枕元に大事そうに置いてあった多々良三平の帰省土産である山の芋一箱が盗まれる。
丁度そこへその多々良三平がやって来る。
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登場人物⑭:多々良三平(たたら三平)
かつての苦沙弥氏の書生、今はかの鈴木藤十郎の後進生(後輩)
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ここで多々良によって苦沙弥氏の実業家に対する観方が語られる。
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「先生泥棒に逢ひなさつたさうですな。なんちゆ愚(ぐ)な事です」と(多々良は苦沙弥氏に対して)劈頭一番に遣り込める。
「這入る奴が愚なんだ」
「這入る方も愚だばつてんが、取られた方もあまり賢こくはなかごたる」
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「先生教師抔(など)をして居つたちや到底あかんですばい。ちよつと泥棒に逢つても、すぐ困る ー 一丁今から考を換へて実業家にでもなんなさらんか」
「先生は実業家は嫌だから、そんな事を言つたつて駄目よ」と細君が傍から多々良君に返事をする。
細君は無論実業家になつて貰ひたいのである。
「先生学校を卒業して何年になんなさるか」
「今年で九年目でせう」と細君は主人を顧みる。・・・
「九年立つても月給は上がらず。
いくら勉強しても人は褒めちやくれず、郎君独寂寞(ろうくんひとりせきばく)ですたい」
「教師は無論嫌だが、実業家は猶嫌ひだ」と主人・・・。
「先生は何でも嫌なんだから・・・」
「嫌でないのは奥さん丈ですか」と多々良君柄に似合はぬ冗談を云ふ。
「一番嫌だ」(と主人)
「生きて入らつしやるのも御嫌なんでせう」と(細君は)充分主人を凹(へこ)ました積で云ふ。
「余り好いては居らん」と(主人)。
是では手のつけ様がない。

「先生ちつと活潑に散歩でもしなさらんと、からだを壊して仕舞ますばい。- さうして実業家になんなさい。金なんか儲けるのは、ほんに造作もない事で御座ります」
「少しも儲けもせん癖に」
「まだあなた、去年やつと会社へ這入つた許りですもの。それでも先生より貯蓄があります」
「どの位貯蓄したの?」と細君・・・。
「もう五十円になります」
「一体あなたの月給はどの位なの」是も細君・・・。
「三十円ですたい。其内を毎月五円宛会社の方で預つて積んで置いて、いざと云ふ時に遣ります。
- 奥さん小遣銭で外濠線の株を少し買ひなさらんか、今から三四個月すると倍になります。ほんに少し金さへあれば、すぐ二倍にでも三倍にでもなります」
「そんな御金があれば泥棒に逢つたつて困りやしないわ」

「それだから実業家に限ると云ふんです。先生も法科でも遣つて会社か銀行へでも出なされば、今頃は月に三四百円の収入はありますのに、惜しい事で御座んしたな。 - 先生あの鈴木藤十郎と云ふ工学士を知ってなさるか」
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「・・・先生あの男がいくら貰つてると思ひなさる」
「知らん」
「月給が二百五十円で盆暮に配当がつきますから、何でも平均四五百円になりますばい。あげな男が、よかしこ取つて居るのに、先生はリーダー専門で十年一狐裘(こきう)ぢや馬鹿気て居りますなあ」
「実際馬鹿気て居るな」と、

主人の様な超然主義の人でも金銭の観念は普通の人間と異なる所はない。
否困窮する丈に人一倍金が欲しいのかも知れない。
多々良君は充分実業家の利益を吹聴してもう云ふ事が無くなつた・・・・
そして二人は散歩に出る。
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実は、この多々良氏、吾輩のことを「休養以外に何等の能もない贅物(ぜいぶつ)の如くに罵つ」て、しかも猫鍋を好む人士でもある。
先の細君との会話の前半には、このような会話もあったのだ。

「・・・此猫が犬ならよかつたに - 惜しい事をしたなあ。奥さん犬の大(ふと)か奴(やつ)を是非一丁飼ひなさい。- 猫は駄目ですばい、飯を食ふ許りで - ちつとは鼠でも捕りますか」(と多々良氏)
「一匹もとつた事はありません。本当に横着な図々(づう)図々敷(し)い猫ですよ」(と細君)
「いやそりや、どうもかうもならん。早々棄てなさい。私が貰つて行つて煮て食ほうか知らん」
「あら、多々艮さんは猫を食べるの」
「食ひました。猫は旨(うま)う御座ります」
・・・・・・

(吾輩の感慨)
「人を見たら猫食ひと思へとは吾輩も多々良君の御蔭によつて始めて感得した真理である。
世に住めば事を知る、事を知るは嬉しいが日に日に危険が多くで、日に日に油断がならなくなる。
狡猾(かうくわつ)になるのも卑劣になるのも表裏二枚合せの護身服を着けるのも皆事を知るの結果であつて、事を知るのは年を取るの罪である。
老人に碌なものが居ないのは此理だな、・・・」
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(そして、吾輩は敢然、鼠を捕る決意をする)
「・・・然し一歩退いて考へて見ると、かく迄に彼等が吾輩を軽蔑するのも、あながち無理ではない。
大声は俚耳(りじ)に入らず、陽春白雪の詩には和するもの少なしの喩(たとへ)も古い昔からある事だ。
形体以外の活動を見る能はざる者に向つて己霊(これい)の光輝を見よと強ふるは、坊主に髪を結(い)へと逼(せま)るが如く、鮪(まぐろ)に演説をして見ろと云ふが如く、電鉄に脱線を要求するが如く、主人に辞職を勧告する如く、三平に金の事を考へるなと云ふが如きものである。
必竟無理な注文に過ぎん。
然しながら猫と雖(いへど)も社会的動物である。社会的動物である以上は如何に高く自ら標置(へうち)するとも、或る程度迄は社会と調和して行かねはならん
主人や細君や乃至(ないし)御(お)さん、三平連(づれ)が吾輩を吾輩相当に評価して呉れんのほ残念ながら致し方がないとして、不明の結果皮を剥いで三味線屋に売り飛ばし、肉を刻んで多々良君の膳に上す様な無分別をやられては由々敷(ゆゝしき)大事である。
吾輩は頭を以て活動すべき天命を受けて此娑婆(しやば)に出現した程の古今来の猫であれば、非常に大事な身体である。
千金の子(こ)は堂陲(だうすゐ)に坐せずとの諺(ことわざ)もあることなれば、好んで超邁(てうまい)を宗(そう)として、徒(いたづ)らに吾身の危険を求むるのは単に自己の災(わざはひ)なるのみならず、又大いに天意に背く訳である。
猛虎も動物園に入れば糞豚(ふんとん)の隣りに居を占め、鴻雁(こうかん)も鳥屋に生擒(いけど)らるれば雛鶏(すうけい)と俎(まないた)を同(おなじ)うす。
庸人と相互する以上は下つて庸猫(ようべう)と化せざるぺからず。庸猫たらんとすれば鼠を捕らざるぺからず。 - 吾輩はとうとう鼠をとる事に極めた。」

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その(五の二)に続く
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