2011年5月28日土曜日

明治7年(1874)6月 鹿児島に私学校創設 病死者続出の台湾遠征軍「・・・目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・・」[一葉2歳]

明治7年(1874)6月
この月
鹿児島に私学校創設。篠原国幹の銃隊学校・村田新八の砲隊学校附属。
236の分校。県政が全て指導。
*
・神奈川県令中島信行、石阪昌孝を県の権少属に抜擢。
第8区長を辞職し県庁の官員に任命された石阪昌孝、番組の戸長副による区長副の選挙を実施。区長に橋本政直、副に中溝昌弘を選出。

○中島信行:
神奈川県下の政治勢力結集のシンボル的な存在として、明治23(1890)年の国会開設の頃まで大きな影響力を持ち続ける。


○石阪昌孝:
第30戸籍区戸長(明治5年1月)、第8区長(明治6年4月、一時期第11区長を兼務)を経て、神奈川県権少属(明治7年5月)となる。第8大区・第10大区学区取締(明治10年12月)などに就くことにより県内の地域指導層との交流を深める。
*
・島本仲道(北洲)、大阪船場(北浜2丁目)で全国的に早い民権派代言人結社「北洲社」を設立。
多くの弁護士育成をはかり、先駆的な都市民権派として活躍。

○島本仲道:
天保4(1833)年生れ。土佐藩士。
若くして陽明学に傾注し、江戸に出て安井息軒に学ぴ久坂玄瑞らの尊攘運動に参加。古沢滋・河野敏鎌らと武市瑞山の土佐勤王党に血盟。
文久3年(1863)武市瑞山と共に投獄され、維新後に放免される。
十津川騒動の鎮撫に加わり、明治3(1870)年、大和五条県大参事、東京府権少参事(同4年)、司法大丞兼司法大検事・警保頭(同5年)を歴任、江藤新平の司法制度改革に協力する。
明治5~6年、海軍省所属運送船大阪丸と三菱会社汽船山城丸とが瀬戸内海で衝突し、大阪丸は沈没、死傷者が多数にのぼる事故発生。
江藤司法卿は、大阪裁判所長児島惟謙にこれを審按させる。
児島は、岩崎弥太郎を召喚するが、岩崎は病と称して応ぜず(花街に遊蕩)、児嶋は江藤に電報で指令を仰ぐ。
江藤は警保頭島本による同郷人岩崎の拘引を躊躇するが、島本はこれを拘引する。
明冶6(1873)年11月、島本は司法三等出仕・大検事・警保頭を辞任し、翌7年4月、土佐の立志社設立に参加、その法律研究所長となる。

北洲社には、
寺村富栄(奈良県を辞任して参加、のち大阪組合代言人会初代会長、府会議員)、
岩神昂(古沢滋の兄、大阪鎮台・京都裁判所をやめて参加、西南戦争時には、林有造・大江卓・陸奥宗光らと峰起を計画したといわれる)、
都志春暉(大阪裁判所を辞任し参加)、
岩成濤雄(奉頂宮勘定方をやめて参加)、
菊池侃二(のち府会議員、国会議員、大阪府知事)らも参加。

7月、島田組(高麗橋1丁目)の番頭田部密から2千円を借入れ、今橋1丁目5番地の平野屋(高木五兵衛)の家屋に北洲社を移す。
9月、小島忠里(18)らが入舎、明治13(1880)年5月解散まで民権派代言人育成と民衆権利擁護の戦いを続ける。
翌8年にかけて、東京(日本橋北鞘町5番地)、広島、堺(車之町、寺島槙蔵方)、博多(土屋町)などにも北洲舎を設立(後、新潟・名古屋・大津にも支舎設立)。
明治8、9年の頃最も好況を呈す。
*
・マルクスとエンゲルス、ドイツ社会民主党における「デューリング主義」の危険性をリープクネヒト、ブロスおよびヘプネルへの手紙で繰返し指摘。
*
6月1日
・台湾遠征軍1300、3方面から牡丹社の本拠を攻撃、これを降伏させる。~5日。
戦死12・負傷17・病死561(全軍3,658人中)
政府、13隻の汽船買入れ、三菱会社に貸し下げ軍事輸送にあたらせる。
5日、牡丹社より撤兵、根拠地に帰還。


台湾出兵による戦闘は3週間程度(西郷到着後してからは2週間)であるが、台湾滞在は半年に及ぶ。
現地ではマラリアが流行し戦闘可能状態ではない。
「・・・尚ほ出征の兵数は三千六百五十八人にして、下士官以上七百八十一人、軍人二千六百四十三人、軍属百七十二人、従僕六十二人、戦死者十二人、病死者五百六十一人、負傷者十七人、・・・」(徳富蘇峰「近世日本国民史」第90巻)。

「東京日日新聞」の岸田吟香は、日本最初の従軍記者として現地からの報道に活躍して評判をとるが、病気により7月に帰国。
25日の同紙上に体験談を載せる。

「予、頃日蕃地より帰りしに諸友人陸続として来たり訪う。
皆云う、台清のことは如何ありしぞ、東京にては評判はなはだ悪しかりし故に、君がために大いに心配せしなり、よく無難にて帰りたまいしよなど云う者多し。
・・・そのはなはだしきに至りてほ西郷都督も既に蕃人の手に死せり等、種々の浮説現下東京市中に紛々たりしことと知られたり」と、現地との熱気の落差にぼやく。

10月7日付け、谷参軍の大隈参議・山県陸軍卿宛て書簡:
「当地近来にいたりマラリア大流行、各舎ことごとく病院同様、去月最初よりは死者数多これあり、兵卒従者にいたるまで力役に勝る者ほとんど一人もこれなく、薪水の労みなこれを土人にあおぐ。
まことに意外の天災何とも申しようこれなく、医者もことごとく病み候ゆえ、諸事薬用も行き届かず、不養生より死者甚だ多く、実に愍然(ビンゼン)のいたり、目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・・」
と病魔による窮状を訴え、「此のごとき難儀に遇うこと未曾有未曾聞(モン)なり」と慨嘆。  
*
6月1日
・イギリス、東インド会社正式解散。  
*
6月2日
・神奈川県、区番組制を廃し、大区小区制へ移行。
*
6月4日
・清国総署雇人の英人ケーン、総署大臣恭親王の抗議照会を外務省に持参。  
*
6月7日
・西郷従道、参軍谷干城と陸軍少佐樺山資紀を東京派遣し、終了を報告。
併せて植民地化を建言。
「これより専ら地方のことに心を寄せ、永遠の基礎を開かんとす・・・すなわち優に将士を養い、漸く山野を墾(ヒラ)き以てその良報を得べし」
と、「蕃地」での移民拓殖の事業に着手すべきことを建言。
*
6月9日
中江兆民、2年4ヶ月間のフランス留学より帰国。この日、横浜に到着。
8月、仏学塾「開業願」を提出。
仏学塾の場所はコチラ
*
「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
*
    

0 件のコメント: