2011年5月8日日曜日

東京 江戸城の石垣の刻印 小石川後楽園 田安門

徳川幕府は江戸城を核とした江戸という都市の構築に際して、全国の大名にそれぞれ土木工事を負担させました。
それには各大名の経済力を減殺させるという目的もあります。
江戸城の濠や石垣構築に際しては、各藩はその担当範囲を示すためた、石垣に自分たちの藩の目印、マーキングをしたようで、これが今も残っています。
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これまで
①竹橋付近と清水門付近の石垣刻印
②北桔橋門付近の石垣刻印
をご紹介してきました。
(後世の、いたずら、落書きの類も混ざっているかも知れません。
但し、②は全く手の届かない場所ですので、その危惧はないと思います。)
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▼小石川後楽園に残る石垣刻印
後楽園はもともとは水戸徳川家のものでしたが、公園化する際に、江戸城の内濠にあった石垣を移築したとのことで、その石垣に刻印が残っています。
「山」は、備中成羽藩山崎家を表わしているとのこと。


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▼田安門の枡形の内側にも少しですが、刻印が残っています。
その意味は不詳です。


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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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その他、平川橋のぎぼし(擬宝珠)には、工事を担当した棟梁の名が彫られていて、それが現存しています。
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