2011年8月31日水曜日

必見 ドイツZDF-Frontal21福島原発事故その後

二度見ましたが、やはりこれは多くの方が見たほうがいいと判断しました。

下記です。

http://www.youtube.com/watch?v=VpdrvozDJJo

取り敢えず

2011年8月30日火曜日

JRのサボのチャリティーオークションと報道写真展

JR東京駅の動輪の広場というんですか、北口の地下改札口を出たところに、下の写真のように、サボ(行先表示板)が展示されてます。
何回かに分けてオークションをやっているようです。

このサイトでも色んな情報があります(コチラ)

立ち止まってゆっくり観ている人、ケータイカメラでパチリとやっている人も多いです。




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▼併せて写真展もやってます。
でも、原発関係の写真は、事故状況も人々の避難状況も何もありません。
意図的としか考えられないほど全くのゼロです。

永井荷風年譜(17) 明治45年・大正元年(1912)満33歳 最初の結婚 浮気で留守中に父が昏倒(「償ひがたき吾一生の過」)

永井荷風年譜(17) 明治45年・大正元年(1912)満33歳 
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1月
戯曲『暴君(のち『煙』)を「中央公論」に、戯曲『わくら葉』を「三田文学」に発表。
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2月
『妾宅』を「朱欒(ザンボア)」(4回まで、以下は「三田文学」)に、『掛取り』を「三田文学」に掲載。
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2月9日
午後1時、三田文学会春季講演会を慶応義塾25番教室で開催。
小山内薫、馬場孤蝶、森田草平、生田長江らの講演。荷風は閉会の挨拶。
午後7時頃より三田東洋軒にて懇談。正親町正和、里見弴ら出席。
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この月から巴家八重次方で哥沢の稽古を始める。
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3月9日
午後7時半より有楽座にて東京仮装会の催し。荷風は発起人として名を連ね、中国服を着用、中国人に仮装して出席。
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4月
『風邪ごゝち』を「中央公論」に、『浅瀬』を「三田文学」に発表。
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5月
『昼すぎ』を「三田文学」に発表。
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5月28日
三田文学会座談会を歌舞伎座茶屋山本にて開催。
荷風、孤蝶、広瀬哲士らが出席。籾山庭後の発案で寄せ書きをする。
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6月
『名花』を「三田文学」に発表。
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6月17日
午後4時半頃より築地精養軒にて三田文学会晩餐会。
顧問森鴎外、石田幹事、荷風、孤蝶、哲士らが出席。
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この頃、痔を病み池田病院に入院。
身体不調と共に意気消沈しているが、三味線や哥沢には熱を入れる。
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7月
『松葉巴』を「三田文学」に発表。
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「残柳舎敗荷と改名致可くや」(7月8日付)と唖々宛書簡で述べ、敗荷と署名。
「敗荷」:「はいか」「やれはす」、枯れて破れた蓮をいう。
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9月
『五月闇』を「三田文学」に発表。
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9月3日
夜、三田文学会座談会を鴻ノ巣で開催。
荷風、久保田万太郎、松本泰、小沢愛圀、井川滋らが会合。
この日、荷風は戯画を揮毫する。
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9月28日
本郷湯島の材木商斎藤政吉の次女ヨネ(22歳)と結婚
赤坂星ケ岡茶寮で井上唖々の両親・井上順之助(=如苞)夫妻の媒酌により結婚式を行う。10月21日入籍。
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荷風の結婚観
「結婚とは、最初長くて三個月間の感興を生命に、一生涯の歓楽を犠牲にするものだ。毎日、毎夜、一生涯を同じ女の、次第に冷て行く同じ肉、同じ動作、同じ愛情、同じ衝突、同じ講和、同じ波瀾、一ツとして新しい範囲に突飛する事はない。良人たるべき単調に堪え得る人は、驚くべき意力の人だ」(『ふらんす物語』中の「放蕩(四)」〉
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式の直後に荷風が出した手紙。
「昨夜新しき親籍の家に行き大に哥沢をやり候。結婚当日の事は仔細に冷静に充分なる傍観的観察をとげ申候。形式美を好む小生には三々九度なぞの煩はしき虚礼も甚だ興味有之候」

「兎に角此頃は小生の思想も非常に変化致し居候には我乍ら驚かざるを得ず。凡ての事を世間並みに解釈して行くより致し方なし。あらゆる旧習を其の儘に受入るゝやうに心掛け居候。今日までは兎角に何物か新しき生命を生涯の中に見出さんと勉め、或る時は反抗し或時は絶望も致し候へど思へば益もなき事に御坐候。個人性の発揮は最早や小生の芸術にとつてさして尊きものにても無之候。此れよりは昔の町絵師や戯作者の如き態度にて人のよろこぶものを需めに応じてコツコツと念入りに親切に書いて行くつもりに候」(大正元年10月1日、籾山仁三郎宛)
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12月14日
夜、築地野田屋に森鴎外、石田新太郎、籾山仁三郎を招飲する。
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12月下旬
八重次と箱根塔之沢に遊んで29日夜には帰京。
しかし、30日は大雪のために帰宅せず。この夕方、父久一郎が脳溢血で卒倒。
31日、井上唖々の急報で帰宅。父は意識なく昏睡状態。
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この頃の「顛末」(大正15生1月2日の「日記」、13年後の父の命日)

「先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。
これも今は亡き人の数に入りし叔父大島氏訪ひ来られ、款語して立帰られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、其枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとて両の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり」

「予はこの時家に在らず。
数日別より狎妓八重次を伴ひ箱根塔之沢に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝帰宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、障子細目に引きあけてと云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて帰ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ」

「予その年の秋正妻を迎えたれば、心の中八重次にはすまぬと思ひゐたるを以て、歳暮学校の休暇を幸、八重次を慰めんとて予は一日先立って塔之沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり」

「予は家の凶変を夢にだも知らず、灯ともし頃に至りて雪いよく烈しく降りしきほどに、三十日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。
世には父子親友死別の境には虫の知らせと云ふこともありと聞きしに、平生不孝の身にはこの日虫の知らせだも無かりこそいよいよ罪深さ次第なれ」

「かくて夜のあくれば其の年の除日なれば、是非にも帰るべしと既にその仕度せし時、籾山庭後君の許より電話かゝり、昨日夕方より尊大人御急病なりとて、尊邸より頻に貴下の行衛を問合せ来るにより、内々にて烏渡お知らせ申すとの事なり。
余はこの電話を聞くと共に、胸轟き出して容易に止まず。心中窃に父上は既に事きれたるに相違なし。
予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと覚悟を極めて家に帰りぬ」

「母上わが姿を見、涙ながらに父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。
まだ帰らざるやと。
度々問ひたまひしぞやと告げられたり。
予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり」
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後年の八重次の回想によれば、八重次は荷風に箱根に連れて行って貰った事はないという。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照ください。
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2011年8月29日月曜日

東京 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 彼岸花(曼珠沙華)がもう咲いている 百日紅 オニユリ

今日(8月29日)昼休み、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行きました。
昨年は確か8月15日の前に行ったのですが、今年は暑かったのとか、何やかやとあったりして、気になったまま行かずにいました。
今日はまだ少し暑いけれど、まずまずお日和もよろしく、出かけました。

蝉しぐれが、病や飢えで亡くなった兵士たちの恨みや嘆きや、そして怒りのようです。

▼もう彼岸花が咲いていました。
蕾の群生もあり、あと1週間くらいするともっと咲いてくると思う。


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▼百日紅

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▼オニユリでしょうか?
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▼代官町通りの丁度、工芸館前あたりが緩慢な坂の最高地点になってますので、スカイツリーもよく見えます。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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「広島も昭和も遠く朝霧の秘めるセシウム牛たちの影」(宮城県 須郷柏) 「朝日歌壇」8月29日より

「朝日俳壇」8月29日より


悪者は核ではなくて人百日紅     (北九州市)河原 修三

今朝秋や被曝の家に帰るてふ     (香取市)朝野 空翠


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「朝日歌壇」8月29日より

広島も昭和も遠く朝霧の秘めるセシウム牛たちの影   (宮城県)須郷 柏

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夕顔が咲いた

待望の夕顔が、今日(8月28日)、ようやく咲いた。
今年にわかに流行った緑のカーテン
フーセンカズラと夕顔にしたのはいいが、夕顔はどんどん背丈は伸びるも、花が咲かず。
ようやく数日前から蕾が見え始め、今日の夕方やっと開花に至った。
まだたくさん蕾があるので、これからはどんどん咲いてくるだろう。


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▼フウセンカズラは快調に風船を付けてきている。

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「★四季のうつろいインデックス」 ご参照ください。
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永禄7年(1564)8月1日~12月31日 信長、犬山城攻略  [信長31歳]

永禄7年(1564)8月
この月
・信長(31)、美濃に出兵、井口城近辺に砦を築く。犬山・金山城陥落。同時期、伊勢にも出兵。

犬山城攻略
丹羽長秀、犬山の家老和田新介(黒田城)・中嶋豊後守(小口城)を調略、信長へ内通させる。
信長勢、両名の手引により犬山へ侵入、城下を焼き、鹿垣により城を重包囲。
攻囲は丹羽長秀が担当、まもなく落城。織田信清(信長の従兄弟)は城を脱出して甲斐へ亡命。
これにより信長の尾張統一がほぼ完成    
犬山攻めと並行して、東美濃の鵜沼城(各務原市)・猿啄城(坂祝町)への作戦進行。
木下秀吉が鵜沼城主大沢次郎左衛門を調略、降伏させる。
猿啄城へは織田軍が城攻め。
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・越前朝倉勢、加賀深く侵攻、能美郡一帯~石川郡境目までが戦線と化す。
本願寺は、豊後の門末にまで支援を要請して全国的規模の支援体制を講じる。
越前周辺の坊主衆・門徒衆には甲冑をつけて陣詰めして戦うよう、遠方の門徒衆には軍費を用立てて進上するよう命令。
小松口・本折口・鵜谷口・湊川・寺井口などで翌8年4月・8月と激戦が続く。
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・永禄の盟約。
独立性が強く、時には「合戦」に及ぶこともあった日蓮宗(法華宗)寺院が盟約を結ぶ。翌年6月の「十六本山会合」の成立に繋がる。
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8月1日
第5次川中島の合戦。上杉輝虎(35)、更科八幡宮に戦勝祈願。
3日、犀川渡河し川中島に進み武田軍と対峙。対陣60余日に及ぶが戦闘に至らず。
飯山城を修復し、桃井義孝・加地春綱に守らせ、10月1日、帰国の途につく。    

4日付け輝虎(謙信)の常陸の佐竹義昭宛て書状。
一戦を遂げるため川中島に出陣したが、「今に陣所を聞き得ず候」と、信玄の所在がつかめないと告げる。
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9月9日
・信長、上杉輝虎宿老直江景綱(「直江大和守」)へ書簡。
先月に美濃の稲葉山城下に攻め入り近辺に砦を築き、犬山・金山を落城させ、さらに伊勢にまで出兵しと報ずる。
年次には異説あり。
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9月11日
・将軍義輝、摂津有馬湯山に赴く。細川輝経・細川藤孝・一色藤長が随行。
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9月15日
・信長、美濃常在寺へ100貫文の領知を寄進。    
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9月27日
・越前朝倉氏、若狭に侵入、中山の付城(美浜町太田)を築城、これを拠点に山東郷・山西郷(美浜町)へ乱入、稲を刈り取り、大豆・野菜まで奪い取る(「若州国吉篭城記」)。
この日、若狭武田義統に反抗する被官粟屋勝久、250を率い夜襲、焼打ちして勝利。
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9月28日
宮中御倉職の立入宗継、正親町天皇の宮廷御料地回復、御所修理の密勅うけ尾張に下向
信長の声望が中央でも高まりつつあることを示す。
信長上洛⇒天下統一への名分としての意義をもつ。  
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月末
・信長、木下藤吉郎に稲葉城下侵入放火、城下南方加納占領、築砦、指示。
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10月
・カトリーヌ・ド・メディチ、シャルル9世、アンリ・ド・ナヴァール(後、アンリ4世)、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)を訪問。  
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10月1日
・信玄、帰国。関東へ出陣    
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10月18日
・スペイン、新大陸貿易のための定期護送船団制度確立。
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10月24日
・佐野昌綱、再び上杉輝虎に背き、輝虎(35)、沼田城に着陣。
27日、唐沢山城を攻略し再び佐野昌綱を破る。
11月21日、虎房丸と佐野の人質30余人を連れ色部勝長と共に帰国。(唐沢山城攻め)
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11月
・平戸の度島(たくしま)滞在のフロイス、迎えのアルメイダと共に出発、口之津~豊後など経由し、12月堺に上陸。  
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月初
・木下藤吉郎、稲葉山西方瑞龍寺山侵入。
下旬、稲葉城下攪乱。瑞龍寺山勢と合流。加納占領、砦築く。  
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11月1日
・落雷によって焼失した東寺の五重塔の再建のため、同寺は空海作と伝え彼の没後秘仏となっていた1尺5寸の大黒天像を開帳して奉加を募る(「言継卿記」同日条)。
当時の社寺は権力者の外護は殆ど期待できず、勧進によって一般の浄財を集中するのが造営の大きな財源。この時も上下の人士が殺到。
*
11月7日
・信長、上杉氏宿老直江景綱へ書簡。
上杉輝虎から信長の息子を輝虎の養子とすることを承諾されたことを謝す。
この養子の一件は、他の史料には見えない。交渉のみに終わり何らかの事情によって実現しなかった。信長は近隣諸国と結んで、美濃の攻略を押し進める作戦をとったと推測できる。
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11月21日
・スペイン王フェリペ2世命により、ミゲル・ロペス・ド・レガスピ司令官のフィリピン遠征隊、メキシコを出発。
フィリピンに到達後、セブ島で1ヶ所、ルソン島マニラで1ヶ所の植民地建設。1565年、メキシコに戻る。  
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11月23日
・朝廷、東寺再建のため諸国に勧進させ造営を開始させる(「言継卿記」)。
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12月
・13代将軍足利義輝より信長に天下統一の御内書到着。
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・アルメイダとフロイス、堺訪問。日比野了珪宅に滞在。日比野一族、入信。
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12月1日
・信玄、快川紹喜を、美濃崇福寺より恵林寺に再び迎える。  
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12月3日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝、34)、突然の失踪事件。65/2/2モスクワ帰還。
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12月20日
・信長、幕府内談衆大館晴光(左衛門佐)へ将軍御内書の請状を出す。
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12月26日
・大坂で火災。本願寺などが焼失。
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12月27日
・丹羽長秀、笠覆寺に寺領を安堵(笠覆寺文書)。
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「★織田信長インデックス」 をご参照下さい。
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2011年8月28日日曜日

「中国鉄道事故の捉え方 日本に笑う余裕はない」(「日経ビジネス」8月29日)

先日の「朝日新聞」8月25日の高橋源一郎さんの論壇時評(コチラ)の最後に、

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中国鉄道事故に関して、日本人の感受性の乏しさを論じた藤原帰一のコラムに触れたい。

日本では起こらない事故だという満足感は見られても、人命を軽視する高速鉄道による痛ましい事故を、自分に降りかかった災難と同じように悼む態度」がこの国ではほとんど見られない
と藤原は書く。

その底流には根深い中国(だけではない)への蔑視・敵視の感情がある。
ぼくたちの国の底で渦巻く禍々(まがまが)しいもの、それについてはいずれ触れたいと思っている。
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とあった。

しばらく、「禍々(まがまが)し」さって一体なんだろう、と考えてみたいと思う。

*

ある角度からの一つの提起があった。
「日経ビジネス」8月29日号の「海外支局リポート」(北京支局からのレポート)である。

これによると、「日本のメディアが鉄道事故を笑った」という捏造写真が広まり、一時は日本への感情的な批判・反発が続出したという。
明らかに捏造ということが立証され、今は静まっているそうだ。

記者は、二つのことを考えたという。

一つは、「中国内の不満を日本に振り向けようと考える勢力が相も変わらず存在する事実」。

もう一つは、「最近の日中関係をうまく突いていると思わせる点」。

最後に、記者は、中国はすぐに問題点を克服してくるだろう、
日本に「笑っている余裕などもちろんない」、
と指摘している。

*

中国の国内問題に立ち入る積りはないし、数多ある中国論なるものに立ち入る積りもさらさらない。
あくまで、我々の側にある「禍々(まがまが)し」さについて考える糸口にしたいと思うだけだ。

ここでは、記者の指摘する

「中国内の不満を日本に振り向けようと考える勢力が相も変わらず存在する事実」という箇所の、

「中国」部分と「日本」部分を入れ替えても、同じことが言えないか、について考えたい。

*

平気で日本の商品をコピーしてオリジナルだと主張する中国、

軍事力(特に海軍力)を増強する中国、

あらゆる地域で近隣諸国と領土紛争を起こす中国、

GNPで日本を抜いた中国、

日本の土地(特に北海道)を買いあさる中国、

民主化を弾圧する中国、

時折散発する農民暴動、

云々

*

中国に関するニュースには、「何故か?」、ネガティブなもの、日本の「国益?」からすると反対側に属するものが多い、と思えてならない。

何処かの誰かの(なんらかの「勢力」の)意思が働いているのか?

そこまで勘ぐらなくても、単純に国民に受けるニュースを並べたらこうなったのか?

もし、後者だとすれば、中国に関するネガティブなニュースは、実は、我々の心象風景の反射物ということになる。

他国の不幸に安堵したり笑ったりする、悲しい国民になってはいけない。

この問題、今後も、もう少し続けて考えてゆくことにする。

*
ご参考までに「日経ビジネス」の記事を下記にご紹介。
(この記事自体、後段では危ない淵の辺りに近づいているようだ)

**********(読み易くするため段落を施す)

「日経ビジネス」8月29日号 海外支局リポート(坂田亮太郎 北京支局)

「中国鉄道事故の捉え方 日本に笑う余裕はない」

7月23日に中国浙江省温州で起きた高速鉄道の事故。
多くの死傷者を出したにもかかわらず、鉄道省は事故車両を現場に埋めようとした。
こうした安全を無視した対応に対し て、マスメディアだけでなく微博(ウェイボー)(中国版ツイッター)などソーシャルメディアからも厳しい批判が浴びせられた。

その1つに私は目を疑った。
「日本のメディアが鉄道事故を笑った」との報道が中国で流れたのだ。
ネットに出たその“報道画面”は、確かにテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」の女性キャスターに見える。
死亡事故に対してあまりに不謹慎ではないかと中国の世論は当然、強く反発し、「イヌの陰険な一面が垣間見えた」とか「日本人は中国人を人として見ていない」などと感情的な書き込みが殺到した。


日本でガス抜きを画策?
実はこの画像は捏造されたものだった。女性キャスターが笑ったシーンに鉄道事故のテロップを重ね合わせた安直な手段だったため、ウソだとすぐにばれたのだ。
デマだと分かると批判は程なく落ち着いた。
しかし、私は2つのことを考えさせられた。

1つは中国内の不満を日本に振り向けようと考える勢力が相も変わらず存在する事実だ。
首謀者の意図は図りかねるが、これまでも中国内のガス抜きに日本がスケープゴートにされてきたことは少なくない。
今回のケースで、民衆の不満のはけ口として、日本や日本企業にいつでも災難が降りかかる恐れがあることを改めて実感した。


もう1つは、最近の日中関係をうまく突いていると思わせる点だ。
事故発生前、中国鉄道省は米国など世界5カ国・地域で高速鉄道車両に関する特許を出願していた。
これは日本には看過できない問題だ。
1998年に当時の小渕恵三首相が江沢民国家主席に「21世紀の日中友好のシンボルにしたい」として日本から中国に提供したのが高速鉄道技術だ。
それがいつの間にか中国の独自技術へと豹変し、米国などで計画されている高速鉄道計画で日本の競合として中国勢が台頭しようとしている。
恩を仇で返すような中国の行為に、特許を巡る係争は外交問題に発展しかけていた。

それだけに日本側がライバルである中国の失敗をほくそ笑んだと思わせる状況が外形的には整っていた。
そんな日本人がいるとは思いたくないが、中国の事故によって一種の安堵感が日本 国内で広がったのは事実ではないだろうか。
これで中国の鉄道輸出は急ブレーキがかかる、と。

本当にそうだろうか。一連の事故は確かに汚点に違いないが、中国政府は人心を一新してこの間題を克服してくるに違いない。
母国に巨大な鉄道整備計画があるという競争優位性は揺らぎなく、安価でかつ安全性を高めた鉄道車両の提供を着実に目指してくるだろう。
その時、厳しい状況に追い込まれるのは日本の方だ。

日本は立て直しのチャンス
そもそも中国が知的財産権に対する意識が希薄なのは今に始まったことではない。
そうした相手と合弁会社を設立し、曲がりなりにも利益を上げてきたのが日本の自動車産業だ。
鉄道で「マネされたから勝てません」などと簡単にねを上げていたら、それこそ日本国内からも嘲笑の声が上がるだろう。

もちろん個人で購入するクルマと公共事業に絡む鉄道は単純に比べることはできない。
しかし新幹線をはじめとする日本の鉄道技術は世界最高レベルにあると喧伝されてきた。
にもかかわらず世界市場でその優位性が生かせてこなかった原因をきちんと突き詰める必要がある。
中国が事故対応に追われている間は日本が体制を立て直すチャンスでもある。
相手側で起きたトラブルを奇貨と捉えるべきであり、笑っている余裕などもちろんないのだ。 

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*
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2011年8月27日土曜日

東京 北の丸公園 夏の名残の入道雲 色づくコムラサキ 韓流強し

昨日(8月26日)は、晴れのち豪雨。
東京も横浜も今年一番の豪雨だった。

▼昼間の北の丸公園
入道雲が出ているが、気温は30℃前後。

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▼コムラサキが色づき始める
花の時はこんな感じです(コチラ)
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▼これは一昨日(8月25日)の武道館
「キューブ・ナントカ」なんで、てっきりルービックキューブの世界大会か?・・・と思ったが、
調べてみると「韓流」のポップスであった。
韓流強し。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照ください。
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明治36年(1903)2月1日~28日 石川啄木(17)、失意の帰郷

明治36年(1903)2月
この月
・朝鮮、龍岩里事件。ロシア「東亜木材会社」挺身隊、鴨緑江口韓国領龍岩里に進出。
京城のロシア公使館通訳朴享俊を龍岩里に派遣し、土地買収を始める。
その後、ロシア兵が送り込まれる。
*
・韓国皇帝、中立承認を各国に打診。
*
・東京市で最初の直営小学校(細民地区の子女の為の特殊小学校)である万年尋常小学校、開校。
230人が入学。進度の遅れた児童の為の特別学級や昼間働いている児童の為の夜学部が設置される。

前年、直営小学校5校の設立を計画するが、貧窮のため就学免除・猶予を得た児童数は、市教育課が掌握していただけでも、本所3千、深川2千はじめ全市で1万3千を越える。
しかし、実際には更に多数であると推測され、「五箇の学校は実に一時の急を救ふに過ぎずして将来少くも十余校の増設をなすに非ざれは満足に貧家の子弟を収容すること能はざるぺし」と予測されている。
*
・この月初め、ペスト予防のための捕鼠数が186,668頭と発表される。
*
・小杉天外(38)「魔風恋風」(「読売新聞」)連載。
前年、尾崎紅葉が「読売」から「二六新報」に移ったため、その穴埋め。
硯友社系統ではない。

「純粋な文学を求めて、四年間病と貧とに負けずに戦って来た小杉天外は、「魔風恋風」に成功したために、最も尖端的な風俗を書ける通俗作家として突然著名になった。
彼が苦労して身につけたゾラ張りの風景描写や気の利いた会話や新時代人の性格の描き方は、そのまま新しい通俗小説を書くのに役立った。
「魔風恋風」は彼に、一枚三円という「読売」では前例のない高い原稿料を払わせ、同時に彼を純文学の世界から駆逐した。」(伊藤整「日本文壇史」)
*
・泉鏡花、逗子より上京、牛込神楽坂に住む。
3月、神楽坂の芸者伊藤すゞ(明治32年1月に知り合う)と同棲を始める。鏡花は、すゞの前借を返済し彼女を自由の身にした。  
*
・英の新聞「ザ・グローブ」、史上初めて新聞印刷の全電動化を発表。    
*
・英政府、植民地相ジョゼフ・チェンバレンの南アフリカ訪問後、南アフリカの政策認識を変更。
ボーア人との和解政策進める。
英優位の政策が実現不可能であり、南アフリカ領内における英蘭対等政策のほうが、より良識にかなっていることを認める。  
*
・米、反トラスト法強化。
*
・トーマス・マン「トーニオ・クレーガー」(「ノイエ・ドイッチェ・ルントシャウ」誌)
*
2月3日
・英、北部ナイジェリアのカノ占領。
*
2月9日
・英・ペルシア、通商条約締結。  
*
2月11日
・川上貞奴デヴュー、「オセロ」のデズデモーナ役、明治座。脚本は江見水蔭(700円)。
*
2月13日
・島田三郎(50)、横浜・喜楽座での衆議院議員立候補政見発表演説会で「横浜市民諸君につぐ」を演説。
応援弁士巖本善治は「嗚呼是れ一選挙区の事にあらず」を、田口卯吉は「市民の利害」を演説。
16日、元街の万竹亭でも演説。
島田は3月2日最高点で当選。
*
2月13日
・高橋泥舟(69)、没。幕末三舟(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)の1人。  
*
2月13日
・米・キューバ協定締結。キューバ保護国化。
*
2月13日
・ベネズエラ、ワシントンで英独伊連合軍との協定に調印。
14日、ベネズエラの湾岸封鎖解除命令。
*
2月14日
・米議会、商務・労働省を設置。内閣に長官を置く。
*
2月17日
・文芸協会の発会式。
*
2月18日
・5代目尾上菊五郎(60)、没。
9月13日には九代目団十郎も没し、歌舞伎が滅亡に瀕したと言われる。    
*
2月21日
・下村観山(29)、横浜港から博多丸で出航、絵画研究のためロンドンに向かう。
平田禿木(30)、同じ船で文部省留学生としてイギリスに向かう。39年6月16日帰国。  
*
2月21日
・オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)、ドイツ両国、マケドニアの改革についてオスマン帝国と交渉。
23日、オスマン帝国皇帝、独墺露のマケドニア改革要綱受諾。
1902年の反トルコ支配暴動を考慮し警察機構と財政組織改編。  
*
2月22日
・長野県白山舘、長野音楽演奏会開催。
6月には仙台市でも開催され、各地で西洋音楽会が盛んに。  
*
2月23日
・米、革命内戦中のホンジュラスに武力介入。
*
2月24日
・徳富蘆花、自分で出版社「黒潮社」を設立し、「黒潮(こくちょう)」発行。
巻頭に、「国民新聞」に掲載しようとして拒否された「告別の辞」を載せる。3ヶ月で8千部を売る。    26日には、「読売新聞」が「蘆花氏国民新聞を去る」と書いて兄弟の訣別の事情を報じ、「毎日新聞」は、「黒潮」の「告別の辞」を「情満ち義尽く」(木下尚江)として蘆花を支持。
官僚の代弁者と看做される蘇峰を嫌う人たちは、蘆花を支持する。
大町桂月(雑誌「太陽」の評論担当)、内村鑑三、島田三郎、大隈重信    
*

2月26日
・ロシア、韓国に対しかねて韓国から取得していた鴨緑江沿岸の森林伐採権行使を申入れ。ベグラゾフ大尉が設立した「東亜木材会社」。
1月中旬、ベグラゾフは、大連の関東長官アレクセーエフ海軍中将(株主)を訪問し、皇帝(株主)が兵力の鴨緑江左岸(韓国領)移動・独立支隊の鳳凰城派遣など要請したことを伝える。
*

2月26日
・黒岩涙香(40)、横浜・雲井座での自由投票同志会主催の演説会で「選挙の真趣」を演説。
幸徳秋水「自由投票と横浜市」、佐治実然「神聖なる一票」、木下尚江「横浜市と選挙を評す」、安部磯雄「紐育市と横浜市」など演説。  
*
2月26日
・石川啄木(17)、失意の帰郷
1月上旬、下宿料滞納により大館みつ方を追われ、京橋付近の鉱業会社に勤務の佐山某に助けられ、20日程神田錦町の下宿に泊まる。
2月26日、父に迎えられ東京発。丸善でC・A・リッジー「Wagner」購入。27日帰宅。
何の伝手もない無名の少年に生きる余地のない東京の現実であった。
迎えに来た父一禎は、自分が住職をする寺の栗の木を売って上京の費用20円を得たという。

前年の明治35年10月27日、卒業まで半年を残して盛岡中学校を退学(入学時は128名中10番の成績。
しかし、5年生になると出席時間は欠席時間の半分という状態になり、カンニング事件により譴責処分をうけ、自ら退学)
10月31日には文学で身を立てるべく上京。
退学直前、「明星」に採録された短歌
「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」

中学校の先輩細越省一の厚意で小石川区小日向台町の大館みつ方に下宿。
ここで先輩の野村長一(胡堂)から忠告されて神田付近の中学校を尋ね、5年生への編入を照会したが、欠員なく入学できず。
やむなく初めの予定通り斎藤秀三郎の経営する正則英語学校高等受験料に入学すべく資料を貰ってくるが、学資の関係で実現せず。
あてにしていた北海道の山本千三郎(姉トラの夫)より送金があったが、当座の生活費を補う程度で、高等受験料で勉強するだけの余裕はない。

啄木は東京新詩社の会合に出席したり、与謝野鉄幹・晶子を渋谷の自宅に訪問して知遇を得た他には収穫もなく、英語研究や大橋図書館での読書に日々を過ごし、生活の方途もつかず無為の日が流れる。

啄木は神田錦町の日本力行会に友人の金子定一(中学校の後輩で盛岡中学校中退後力行会で働きながら夜間中学で勉強していた)に相談すると、同じく力行会で働く友人の紀藤方策を紹介してくれて、その紀藤が金港堂の雑誌「文芸界」の主筆佐々醍雪(山口高等学校の卒業生で恩師にあたる)への紹介状を書いてくれる。

12月8日、啄木は金港堂に出かけたが、就職どころか醒雪に面会も断わられる。

啄木が佐々醒雪に一顧だに与えられなかった理由は、この年6月1日「岩手日報」に書いた「五月乃文壇」で、醒雪及び雑誌「文芸界」を批評したことによるものと思われる。

「醒雪の所謂温健な態度は世の一部では歓ぶであらうが、吾々はとらない。何故となれば、往々温健は懸念が多すぎると無気力となり、無気力はまゝ没見識に終るからである。」
「『文芸界』は材料豊富な代り、雑駁の誹を免れない。殊に所謂青年文士の為にすると云ふ寄書欄の如き、アンナ制限をつけないで大いに奨励してもらひたいものである。主筆醒雪さては胆の小さい人。」
と書いている。
*
2月26日
・英、外国人労働者急増のため上院議員が移住制限立法要求。  
*
2月27日
・新聞号外乱発取締規則を公布。    
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*
*

2011年8月26日金曜日

「朝日 論壇時評」 高橋源一郎「柔らかさの秘密」 「伝えたいこと、ありますか」 宮崎駿の場合

「朝日新聞」の高橋源一郎による論壇時評、読み終わったあとのその後味がなんともいい。

今回は8月25日掲載分より、

まず冒頭

******(段落を施す)

まいりました。
「なにが?」って、スタジオジブリの小冊子「熱風」の表紙に(中身じゃなくてすいません)。

ジブリのある東小金井の路上で、作業用のエプロンを着た宮崎駿御大が「NO! 原発」のプラカードを首からぶら下げ、ひとりでデモをしている。
その後ろを、傘を持ったた女性と右手に「Stop」のプラカード・左手で犬を引いた男性が、付き従うように歩いている。
デモというより、散歩みたい。
というか、どう見ても、黄門様と助さん格さん(もしくは、大トトロと中トトロ・小トトロ)だ。
自転車に乗り、たまたますれ違った男性が、「えっえっ? 変なオジサンかと思ったらミヤザキハヤオじゃん!」という表情を浮かべている。
すごく面白い。
けれど、ただ面白いだけじゃない。

この面白さは、この写真が醸しだす「柔らかさ」から来ている、とぼくは思った。
「柔らかさ」があるとは、いろんな意味にとれるということだ

ぼくたちは、このたった一枚の写真から、

「反原発」への強い意志も、
そういう姿勢は孤独に見えるよという意味も、
どんなメッセージも日常から離れてはいけないよという示唆も、
でも社会的メッセージを出すって客観的に見ると滑稽だよねという溜め息も、

同時に感じることができる。

なぜ、そんなことをしたのか。
それは、どうしてもあることを伝えたいと考えたからだ。
そして、なにかを伝えようとするなら、ただ、いいたいことをいうだけでは、ダメなんだ。
それを伝えたい相手に、そのことを徹底して考えてもらえる空間をも届けなければならない
それが「柔らかさ」の秘密なのである。

*******

そして、一足飛びに高橋源一郎撰のラスト・・・

*******(段落を施す)

最後に、中国鉄道事故に関して、日本人の感受性の乏しさを論じた藤原帰一のコラムに触れたい。
(「鉄道事故で健在化した日本人の乏しい感受性」(週刊東洋経済8月13・20日号)
*原文は番号のみ記し、雑誌名は別枠表示しえいる)

日本では起こらない事故だという満足感は見られても、人命を軽視する高速鉄道による痛ましい事故を、自分に降りかかった災難と同じように悼む態度」がこの国ではほとんど見られない、と藤原は書く。

その底流には根深い中国(だけではない)への蔑視・敵視の感情がある。

ぼくたちの国の底で渦巻く禍々(まがまが)しいもの、それについてはいずれ触れたいと思っている。

********

今や蔑視というより敵愾心のほうが強いかもしれない。或いは羨望?

それと、「日本では起こらない事故」だという慢心も怖い。

「禍々(まがまが)しいもの」って?

*
*
「伝えたいこと、ありますか」
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最後に、高橋源一郎撰ではなくて、「編集部が選ぶ注目の論考」から一つ、・・・

******

原発は単に「電源種」の問題ではないと語るのが、宮台真司・飯田哲也・神保哲生「原発ムラという怪物をなぜ我々は作ってしまったのか」(創9・1 0月号)。

宮台の主張は

「問題は『不合理な原発をどうするか』より『不合理が自明な原発をどうにもできない社会をどうするか』なのです」

と明快。

******

確かに、「それ」ではなく、

「それを生み出す社会」
「それをどうにもできない社会」

について考える視点は重要だ。

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高橋源一郎氏の「朝日論壇時評」
6月30日「原発と社会構造」はコチラ
9月29日「そのままでいいのかい? 原発の指さし男」はコチラ
10月27日「祝島からNYへ 希望の共同体を求めて」はコチラ
11月24日分はコチラ
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2011年8月25日木曜日

4月に比べて線量が大幅に減ったため、校庭利用「20ミリ」基準撤廃へ

「朝日新聞」8月25日によると、

あれだけ大騒ぎした「学校の校庭利用をめぐる放射線基準について、文部科学省はこれまで示してきた「年間20ミリシーベルト」の目安を撤廃する方針を固めた」

という。

理由は、単純かつ明解、

基準を定めた今年4月と比べて線量が大幅に減ったため

という。

つまり、

周りの線量が高い間は、従来基準の20倍である20ミリシーベルトに上げて、

周りの線量が落ち着いてきたら、元の基準の1ミリシーベルトに戻す、

極めて単純明解、あっけらかんの理屈、「現実主義」である。

格好だけでも「こどもたちの健康を第一に考慮して・・・」、とか何とか言えないものか。
発想にないから言葉にも出ない、のか?

この決定に至るまでの経過に何の「見識」も見出せない。
情けないお役人たちだ。
(パブリック・サーバント?)

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改めて、4月29日の小佐古敏荘東大教授の記者会見での発言を確認すると・・・。

小佐古教授は、年間20ミリシーベルト基準に抗議し、30日付で内閣参与を辞任するとし、

「年間二〇ミリシーベルト近い被ばくをする人は、約八万四〇〇〇人の原子力発電所の放射線業務従事者でも、極めて少ないのです。

この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れがたいものです」

(広河隆一「福島 原発と人びと」(岩波新書)から採らせて戴きました)


福島 原発と人びと (岩波新書)
福島 原発と人びと (岩波新書)

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「野田・海江田・前原氏は言いなり3人男」(福島瑞穂)  よくぞ言ったり、ザブトン3枚。

以下、「朝日新聞」8月25日付けより

********(段落を施す)

「言いなり3人男」に政治を委ねても、日本の政治がよくなるとは思えない--------。

社民党の福島瑞穂党首は24日の党常任幹事会で、民主党代表選の有力候補者を皮肉った。

福島氏は、

野田佳彦財務相を「財務省の言いなり」、

海江田万里経済産業相を「経産省の言いなり」、

前原誠司前外相を「防衛省と外務省、米国の言いなり」

と、それぞれ切って捨てた。

「「ポスト菅」は菅さん以下になるのではないかと危惧している」とも語った。

福島氏は「脱原発を明確に打ち出す人が見当たらないのは危機的」との指摘した。

*********

これに比べれば、自民党のイシハラ氏などは、在日韓国人の焼肉屋のおばちゃんがポケットマネー程度のお金を献金したことに関連して、またまた前原氏を突っつこうとしているようだ。
ちっちゃいね。

さて、・・・と。

海江田氏は、フクシマの原子力がまだ制御不能の段階ではやばやと玄海のGOを出す感覚の人だから、先ごろ引退した芸人じゃないけど「アウト」かな。
「更迭」したお役人の退職金も話題になった。

前原氏は、脱原発はポピュリズムが持論(コチラ)で、これもアウト。

野田氏やよく知りませんが、「あの戦争は聖戦でしたか」という追加質問をしたい人だ。


福島さんにお願い
代表選で原発へのスタンスを争点にするよう言ってやって下さい。
このままでは争点にすらならない可能性がある。

*
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2011年8月24日水曜日

東京 江戸城 東御苑 ヤブラン はるかのひまわり 秋空? 夏空?

▼今日(8月24日)朝
竹橋から代官町通り(右に国立西洋美術館、左に江戸城)方面を見ると、空はもう秋空。

*
▼・・・で、お昼休み、・・・
昨日に引き続いて江戸城へ、と思ったら、空はもう夏空に変わっていた。

そして、夜は、ところどころ雨も降っているようだ。
*
▼江戸城で、昨日行けなかった本丸跡へ。
ヤブランの群生
*
▼はるかのひまわり
(二度目です。前のはコチラ

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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照ください。
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2011年8月23日火曜日

東京 江戸城 東御苑 二の丸庭園 ヒツジグサ ヒメコウホネ アサザ コバギボウシ サルスベリ  タカサゴユリ

しばらくぶりで夏が戻ってきた。
今日(8月23日)は久しぶりの30℃超え。

昼休み、こちらも久しぶりに江戸城へ。
二の丸庭園をぐるっとひと回り。

▼二の丸池のヒツジグサ
一輪だけ咲いていた。
*
▼ヒメコウホネ
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▼アサザ
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▼汐見坂の上にコバギボウシ
この日陰の一帯は「×××ギボウシ」など、色んな種類のギボウシが時期を変えて咲くところ。
*
▼今年はイマイチ派手さに欠けるサルスベリ(百日紅)

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▼タカサゴユリ
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▼夕方の空はもう秋の空だ
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年8月22日月曜日

大逆事件への処し方(6) 処刑の日、竹久夢二はお通夜を行う

「宵待草」で有名な竹久夢二は若い頃は平民社の画家であった。

その竹久夢二、
明治44年1月24日の幸徳らの処刑の日、仲間うちで幸徳らのお通夜を行った。
*
以下、中村文雄「大逆事件と知識人」より、神近市子「私が知っている夢二」の孫引き。

神近は当時、夢二の事務所(東五軒町の自宅)で働いていた。
夢二は、常連の青年画家たちと二階にいた。
*
****(段落を施す)

「そこに号外だった! 大逆事件の十二名の死刑が行われたとあった。
私は(死刑)ということに興奮して、すぐそれを二階に見せに持って行った。
夢二氏はそれを手にとると、フーン! と言って沈黙された。
私はそれを渡すとすぐ階下に下りたので、あとでどんな話が出たか知らない。

まもなく夢二氏が階下におりて来られた。
大変興奮していて、私にはじめて十二人の中には秋水をはじめ数人旧知の人がいることを話された。

- ぼくは、平民新聞に出入りして、何時も与謝野さんなんかとデモにも出ていたんだ。

言葉は少ない人であったが、はたにいても受けられたショックが強かったことは想像できた。

- 今夜は皆でお通夜しよう。線香と蝋燭を買っておいで!

そこで何か夜食なども仕度され、お通夜をした。
(略)                                」

*****

夢二は、明治17年9月16日、岡山県に誕生。
明治34年夏、17歳で単身上京。
翌35年9月、早稲田実業本科に補充入学。
明治38年3月、本科3年を卒業し、同年4月に専攻科に入学するが9月に退学。

この頃、早稲田に通いながら白馬会の洋画研究所に通っている。
親元からは送金を止められ、葉書に絵を描いて生活費に充てる生活を送っている。
早稲田学生岡栄一と小石川雑司が谷鬼子母神近くの農家に間借・自炊生活をしており、しばらく、荒畑寒村(夢二の3歳下)を寄食させたこともある。

そして、この年(明治38年)6月18日、
夢二の最初の絵「勝利の悲哀」が「直言」(「平民新聞」の後継)に掲載される。
世に出た夢二の最初の作品のコマ絵である。

荒畑寒村「寒村自伝」では、夢二が荒畑に厚い自筆の習作画帳をみせて、この中から適当なものを「直言」誌上に発表してもらえまいかと相談、荒畑が堺利彦に話して快諾を得る。
この「勝利の悲哀」は、赤十字のマークのついた白衣の骸骨と並んで丸まげの若い女が泣いているというもの。

また同年6月20日には、
「中学世界」増刊号に竹久夢二の投稿挿絵「筒井筒」が掲載される。
この時、初めて夢二を名乗り、また夢二美人画の初めでもある。

堺利彦は、小川芋銭を「平民新聞の最も美なる且つ最も大いなる花」と評し、
「竹久夢二君の才も亦驚嘆すべきものである。平民新聞が此二画家を得たことは尖に吾人の詔とする処である」
と讃えている。
また、
「夢二君の十七字詩は寸鉄殺人的でそしてまた濃艶、凄腕の趣があって嬉しい」
とも讃える。
(明治40年)

夢二は、その後、社会主義運動からは離れ、
明治42年12月15日には、「夢二画集」春の巻を出版。これがベストセラーとなる。
その後、夏、花、旅、秋、都会の巻などを続刊する。

しかし、明治43年6月、大逆事件関係者の検挙が続く中で、夢二は2日間、警察に拘束される。
夢二にとってこの体験は衝撃だったらしく、警察から帰るとすぐに有り金を持って、九十九里方面に逃避した。
この九十九里での生活の中で「宵待草」が生まれたという。
*
*

「赤蜻蛉(あかとんぼ)ヒロシマの地からフクシマへ」(釋 蜩硯)  「朝日俳壇」8月22日より

「朝日俳壇」8月22日より

赤蜻蛉(あかとんぼ)ヒロシマの地からフクシマへ    (飯塚市)釋 蜩硯

原発に揺れる日本原爆忌                  (芦屋市)田中 節夫

*
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「朝日歌壇」8月22日より

子らの声せぬフクシマの夏休み蟬、蝶、トンボ虫らもさみし        (福島市)美原 凍子

メルトダウンベントベクレルシーベルトセシウムわらわらストレステスト (所沢市)風谷 螢

*
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2011年8月21日日曜日

フウセンカズラ(風船葛)のその後 いっぱい風船つけてます

今日(8月21日)は昼間でも20℃。
雨模様の天候ではあるが、涼しくて過ごし易い。
このまま秋を迎える・・・というようにはならないと思うが、夜には秋の虫が鳴き始めている。

さて、夏の初めにご紹介した(コチラ)フウセンカズラのその後は?

▼フウセンカズラ(風船葛)のその後
下のように順調に育ち、今は二階にまで届き始めています。
また、種が弾けて風船が落ち初めてもいます。
まだまだ、花も続いていますので、フウセンもしばらくは続きそうです。




昭和16年(1941)6月26日~30日 大本営政府連絡会議、「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」承認

昭和16年(1941)
6月26日
・大本営政府連絡会議。
松岡は「国策要綱」の南進と北方問題解決の軽重を問い、対ソ武力行使をドイツと相談せよと統帥部に迫り参謀次長と議論。
  
 この日の審議の終わり。
「外相 陸海軍案ニ対シテハ根本的ニ意見アルカ而シ大体ニ於テ同意テアル。
武藤軍務局長 ソレナラソレヲ(根本的意見を)書イテ出シテ呉レ。
外相 書イテハ出サヌ」。
*
6月26日
・参謀本部作戦課、対ソ戦の用兵規模など立案。
昭和16年内の開戦となると、7月5日の動員下命、8月10日開戦決意、9月初頭作戦開始、10月中旬作戦終了と見積もる。
実際には、7月7日動員下命の「関特演」として現れるが、8月9日、年内対ソ武力行使中止を決定。

独ソ開戦直前の極東ソ連軍兵力は、狙撃30ヶ師団、騎兵2ヶ師団、戦車2700輌、飛行機2800機、潜水艦100隻と推定し、独ソ戦の推移過程で、この極東兵力をヨーロッパへ西送する事で、地上兵力が1/2に、戦車・飛行機が夫々1/3に減少する事を必要条件として、用兵規模を立案。
第1段集中として16ヶ師団基幹態勢整備、続いて第2段第1次及び第2次集中として北支の2ヶ師団及び内地の4ヶ師団を満州に集中し、22ヶ師団基幹、85万の兵力をもって対ソ作戦を遂行するというもの。  

作戦の季節的制約(厳寒期に大軍団の作戦行動は殆ど不可能)により、昭和16年内に対ソ武力行使を行うとすれば、作戦は結氷期到来(概ね10月中旬)迄に終了しなければならない。
ソ連国境重点地域である東部正面に作戦を発起するとして、ウスリー方面進攻作戦に要する日数は、希望的観測で2ヶ月半~2ヶ月と見積られた。
従って、結氷期から逆算して、作戦開始は遅くとも9月初頭、兵員・資材等の集中輸送に要する日数を逆算し、開戦決意の最終期限は8月10日、その為には7月5日動員下令となる。
北方作戦専用船腹80万トンの徴備が必要とされる。  

集中輸送の為の諸条件が満たされても、開戦決意迄に独ソ戦でドイツの早期勝利の見通しが確実でなければならず、極東ソ連軍の兵力西送による減少が希望兵額に達しなければならない。
日本が北方武力行使にあたって怖れている事は、沿海州基地からのソ連爆撃隊による本土空襲で、参謀本部第4課(防衛・防空)が出した判決では、「夜ナラハ十敵機、昼ナラハ二、三十機ノ爆撃各数回ニテ東京ハ灰燼ニ帰ス」という。
*
6月26日
・東京のリヒャルト・ゾルゲに再度指令。
赤軍情報部長自ら、日本政府の決定、国境への軍隊移動を報告するよう指令。
ソウルの朝鮮総督府に傍受される。
*
6月26日
・木村孫八郎「株式の基礎知識」、資本主義の行き詰まりを説き支那事変を侵略としているとして発禁。    
*
6月26日
・ハンガリー、ソ連機(実はドイツ機)がカッシャを攻撃したことを口実に対ソ参戦決定。
27日、宣戦布告。午前10時半、バールドン首相、下院で対ソ戦開戦報告。
*
6月26日
フィンランド、対ソ宣戦布告。
*
6月27日
・ユーゴスラビアの共産党、ユーゴ人民解放パルチザン部隊(総司令官ティトー)を創設。
*
6月27日
・イギリス軍事使節団、訪ソ。
*
6月28日
・大本営政府連絡会議。松岡外相、妥協。
「外相 参戦ノ決意ヲ何時カハ独ニ通告セネハナルマイ。自分モ全般ノ情勢上今日ハ未タ参戦ノ時機デハナイト思フ、従ツテ其ノ時機カ来タラ其ノ時ニ通告スレバヨイノデアル。
然シ乍ラ独側ヨリ問合セガアツテ之ニ返事ヲスルノテハ適当デナイ。今云ハザルモ将来云ハナケレバナラヌ様ニナルト思フ。ソコテ帝国トシテ今日参戦ノ決意ヲ定メル必要アリ。 

参謀総長 独ニ云フコトハ出来ヌ、情勢有利ニ進展セパデアツテ、過早ニ参戦スルト云フモ有利カ来ナカツタラ変ナ事こナル。 

軍令部総長 参謀総長ニ同意見ナリ。」  

松岡は、陸海軍が提示する
「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」原案が対ソ戦への日本の参戦意思を明確にしていなと不満で、三国同盟の一員である立場からいっても、南進政策を暫く延期して即時参戦すべきと主張、少なくともドイツ政府へ参戦意思通告をすべきと譲らず、紛糾。

結局28日、即時北進は大勢とはならず、多少の表現修正を加えうえで松岡が「国策要綱」をのむ形で妥協成立。
*
6月28日
・ドイツ外相リッペントロップの参戦要請(「日本は躊躇せずに対ソ軍事行動の決定をなすべきである」)、駐日大使オット経由、松岡外相に伝えられる。
*
6月28日
・金鵄勲章の叙賜者の内、昭和15年4月29日以降の者から一時金制とする  
*
6月28日
・南部仏印進駐開始。
*
6月28日
・ドイツ軍、ミンスク占領  
*
6月29日
・ソ連共産党中央委員会、対独祖国防衛戦争遂行を表明。
*
6月29日
・ゲーリング、ヒトラー死去の際の後継者に指名される。
*
6月30日
・大本営政府連絡会議。
松岡、再度南進の白紙撤回と対ソ参戦求める、4時間の議論の後、原案可決。
この日、軍事参議官会議。  

「外相 今日迄独ハ独「ソ」戦争ニハ協力シテ呉レノ程度ナリシモ、本日「オットー」ハ本国ヨリノ訓令ヲ見セ参戦ヲ申込ミタリ。・・・何レニシテモ帝国ハ参戦ノ決意ヲセサルへカラス。

南ニ火ヲツケルノヲ止メテハ如何。北ニ出ル為ニハ南仏進駐ヲ中止シテハ如何。約六月延期シテハ如何。然シナカラ統帥部総理ニ於テ飽迄実行スル決心ナラ八、既ニ一度賛成セル自分故不同意ハナシ」。

松岡がそう言うと、及川海軍大臣が杉山参謀総長に6ヶ月ぐらい延期してはどうだろうかと意見を求め、近藤軍令部次長が塚田参謀次長に小声で延期を考えようと言う。
塚田は杉山総長に断乎進駐敢を意見具申。

杉山・永野が協議し、杉山が統帥部の総意として進駐決行を表明。
近衛は、統帥部がやるというならやりましょうと賛同

松岡は、他の大臣に異存はないのかと質し、各大臣が異存なしと答え、「国策要綱」は原案通り実行と決る
*
6月30日
・パール・バック「支那の空」、全編悪意を持つ反日的内容として発禁  
*
6月30日
・ソ連の国家防衛委員会創設。議長はスターリン。全行政権を委任される。
7月19日、スターリン、国防相に就任。  
*
6月30日
・ドイツ軍、ビャリストク孤立陣地のソ連軍を包囲
*
*

永禄7年(1564)5月1日~7月31日 ジャン・カルヴァン(54)没 家康(23)の三河統一 三好長慶(43)没 [信長31歳]

永禄7年(1564)5月
この月
・北条氏康・氏政軍、下野佐野城攻撃。北条軍惨敗。
*
・フランス、マドモワゼル・ド・リムーユ、コンデ公の子供を出産。
カトリーヌは、「遊撃騎兵隊」妊娠御法度の掟に従い、マドモワゼル・ド・リムーユを逮捕、オソンヌ修道院に幽閉するが、コンデが叛徒に戻ることを防止するためコンデに戻す。
コンデは妻エレオノール・ド・ロワ(コリニー姪)と死別したばかり。
コリニーは、コンデをユグノーに戻すためロングヴィル伯爵令嬢を後妻候補として引き合わせ、コンデはロングヴィル伯爵令嬢に首ったけとなりマドモワゼル・ド・リムーユはお払い箱となる。
カトリーヌは、マドモワゼル・ド・リムーユをフィレンツェの裕福な銀行家サルディーニと結婚させる。
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・トスカナ大公コジモ、カーミラ・デ・マルテッリをみそめる。
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5月2日
・ジャン・カルヴァン、盟友ギョーム・ファレルに手紙。
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5月9日
安宅冬康(39)と家臣18人、河内飯盛城で兄三好長慶により謀殺される。部将の松永久秀の中傷を信じて。    
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5月12日
・里村紹巴(じょうは、連歌師)ら、「石山千句」を行う。  
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5月17日
・武田信玄、上野倉賀野城(高崎市)を攻略
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5月27日
・ジュネーブ、ジャン・カルヴァン(54)、没(1509~1564)。
後継改革派リーダー、テオドル・ペザ(テオドール・ド・ベーズ)。  
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6月
・武田信玄、初めて飛騨に出兵
飛騨の三木良頼と江馬時盛の抗争に江馬氏支援のため、山県昌景・甘利昌忠を総大将に木曾衆を与力として派遣。
また、17日付け美濃の長井道利宛て書状で、信長の侵攻により斉藤竜興と対立する長井氏を支援するため信濃衆を派遣すると約束。
この時期、西上野侵攻途上であるが、今川義元没を契機として氏真との関係が微妙となり、外交戦略も変化の兆し  
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6月2日
・将軍足利義輝、日向(伊東氏)・薩摩(島津氏)に使者を派遣して和談を求める。
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6月9日
・信長、上杉謙信の宿老直江景綱(「直江大和守」)に書簡送る。    
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6月15日
・山科言継、松尾神社の御田植神事を見物。
この頃、近くの西芳寺では蓮花の真っ盛り(「言継卿記」同日条)。
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6月20日
家康、三河統一
松平家康(23)、今川氏真の部将小原鎮実の守る吉田城攻略、続いて田原城を攻略し、三河を統一。
田原城を本多広孝に、吉田城を酒井忠次に与えて東三河の旗頭として大小の武士を統轄させる(既に、西三河は石川家成が旗頭)。
ここに松平氏譜代の重臣酒井忠次と石川家成の2人に家臣団を統轄させる体制が整う。
家康は、以後3年間は三河統治に専念。  
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6月22日
・三好長慶の家督相続を許された重存、松永久通・三好長逸らと広橋国光らの公卿を含め4千人を従え、将軍家に対し御礼言上のため上洛。 
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7月
・太田資正(反北条、越後謙信とのパイプ役)、北条氏と密約した子氏資により武蔵岩槻城を追放。
氏資は北条氏に城門開く。
岩槻を追われた資正は常陸佐竹氏に身をよせ、北条氏への抵抗を続ける。
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7月1日
・京都で大洪水。
山科言継は、
「正親町小河悉く河と成る・・・。東の河原は海の如きなり。東西とも大洪水と云々」
と記す(「言継卿記」同日条)。
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7月4 日
・京都の実力者三好長慶(43)、没(死亡は2年後公表、永禄9年6月24日葬儀)。
重存が跡を嗣ぐ。
その後は三好三人衆と松永久秀が継ぐが、次第に両者は対立して争乱状態となる。
家臣松永久秀、京都所司代として勢力伸長
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三好三人衆側に摂津池田家・筒井勢を加わり、松永勢はじりじりと追われてゆく。
1568(永禄11)、三好三人衆側は朝廷に認めさせて、第14代将軍に足利義栄を就かせ、公的立場に立つことで、政治・軍事的に松永久秀などに対して圧倒的な優位に立つ。
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7月5日
・上杉景勝(10)父長尾政景、野尻湖で舟遊び中に事故死。
景勝は謙信の命により直江実綱・甘糟景持に預けられ、13歳のとき、謙信より召し出し出され側奉公を命じられる。
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7月15日
・山科言継、堺へ旅行。~8月11日。
13日、下鳥羽より乗船し、淀で「大船」に乗り替えて山崎に渡り、翌日橋本(八幡市橋本、山崎の対岸)から改めて舟を仕立てて淀川を下る(「言継卿記」13、14日条)。
大坂では烏丸邸に投宿、天王寺・薬師院を経て堺へ向かい、ここで8日間滞在。
その間、九条殿や南庄の旭蓮社(キョクレンシャ)を訪れる。
言継は南庄の堀普請が続いていることを日記に認める。これは堺の環濠開掘の最も古い史料とされる
帰途、摂津中島(西成郡を指すの野田道場(本願寺の布教拠点で一向一揆の基盤となった末端組織)を訪問(「同」8月7日条)。
京都へは陸路枚方経由、乗馬で帰る。    
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7月15日、石山寺内町の灯籠会の風流踊も京都と同様に盛行。
言継、驚く。
「門跡の灯籠見物す。・・・大小廿三これあり。目を驚かす事なり。終日町々より躍り共来る。見物し了んぬ。・・・門跡の灯呂見物、火とほしいよいよ見事の至極なり。」(「言継卿記」同日条)。
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7月15日
義信謀叛(「甲陽軍鑑」による
武田信玄嫡男義信、長坂源五郎・傳役曽根周防昌世を供に飯富兵部少輔虎昌訪問。
実際は翌8年10月の事件。    
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7月25日
・神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世、没。
ハプスブルグ領三子分割を遺言。皇帝マクシミリアン2世、即位(位1564~1576)。  
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7月25日
毛利元就・元春・隆景と大友義鎮(宗麟)が和睦
毛利元就は出雲制圧に集中するため、南方の足かせをはずす意味で大友義鎮と和解。
大友氏も毛利迎撃の準備のための休戦期間。
毛利側の条件は義鎮の娘を小早川秀包に嫁がせる事。
大友側の条件は筑前の諸城を大友氏に返却する事。
事実上、毛利氏大損で終わった和睦交渉。
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7月27日
・この日、天王寺屋宗達は、南北町衆40人を茶会に招き、大座敷で振舞う。
茶会は必ずしも四畳半茶室でのみ行われた訳ではない。
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7月29日
・上杉輝虎(35)、善光寺着。
中旬、飛騨地侍争乱平定のため信玄、山県昌景1万派遣。
飛騨桜洞城主三木嗣頼、輝虎に救援要請。
8月3日、犀川渡り全軍を川中島へ進出させる。
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「★織田信長インデックス」をご参照下さい。
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2011年8月20日土曜日

明治36年(1903)1月1日~31日 夏目漱石(36歳)、英国留学より帰国

明治36年(1903)
1月1日
・沖縄県宮古・八重山両郡に地租条例・国税徴収法施行。人頭税は廃止。
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1月1日
・山路愛山「独立評論」創刊。明治37年休刊。
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1月1日
徳富蘆花(36)、「国民新聞」に自身の「告別の辞」を掲載したいと兄の蘇峰の伝える。
社員の栗原が原稿を持ち帰るが、翌々日、掲載できないとの蘇峰の意思を伝えられる。
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前年12月28日、蘆花は兄の蘇峰と絶縁。
蘆花が「国民新聞」に発表する原稿が、兄によって削除されることがあったため。
しかし、少年時代より兄の蔭で目立たぬ存在であった自分を兄の支配から独立させるというのが根本理由。
兄の蘇峰は、明治30年、洋行から帰国後、松方内閣の一等参事官となり、以後は政府擁護の筆陣を張っている。
三国干渉後、富国強兵の国策に協力するようになり、諸新聞からは変節漢と非難され、「国民新聞」の発行部数は激減。
蘇峰は、貧民窟と皇太子の宮殿を較べて現在の政治を攻撃する弟を持てあましているものの、天下の注目を集める弟蘆花を手元から離したくもない。
また、時代の良心の代表者のように見られている弟蘆花との絶縁を自分の新聞で公表することは、蘇峰にとって忍び得ないことでもある。
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1月1日
・長野県諏訪郡の有力製糸業者、職工争奪防止を目的として諏訪製糸同盟会を結成。男女工の登録制度を実施。
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1月1日
・英国王エドワード7世、デリーで行われた式典でインド皇帝として即位。
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1月3日
・アイルランド土地会議、地主制と高額の小作料の問題を処理するため、地代支払いの改正を提案。
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1月5日
・東京江戸川橋郵便局配達夫200人、労働加重により賃上げを要求してストライキ。10人が日本橋暑へ引致。  
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1月6日
・アルバート・アインシュタイン、ミレーヴァ・マリッチと結婚。
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1月7日
・森鴎外の長女森茉利、誕生
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1月7日
・ゴーギャン(55)の家、サイクロンにみまわれ浸水。「アヴァン・エ・アプレ(前後録)」脱稿。
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1月10日
・栃木県臨時県会、堤防修築名目で谷中村買収費48万円余を計上。鉱毒調査委員会の結論を見てからということで未採択。
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谷中村の状況:
鉱毒のため生活困窮者が増え、明治28年で戸数385戸中約半数が公民権停止状況、選挙権を有する国税納入者は僅か1名。
前年明治35年の大洪水で破堤した北方の85間の堤防も修築されず。
また、「村債」もある
(元下都賀郡長安生順四郎が谷中に土地を購入し、有数の地主となる。この安生が村の排水事業計画を持ちかけ、中古排水機を村に購入させる。また、明治31年には堤防修築のための村債10万円を決議させるが、安生に金が入るだけで村債だけが残る)。
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1月13日
・原敬(47)、大阪北浜銀行頭取辞任し、取締役となる。
2月20日「大阪新報」社長(約2年11ヶ月)。
5月5日政友会常務委員。
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1月13日
・ポリネシアで高潮。死者数千人。
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1月20日
夏目漱石(36)、約2年間の英国留学より帰国。朝、長崎港着。
21日、熊本に入る。
24日9時30分、新橋着。(1900年9月8日出発)  
 前年12月5日、日本郵船「博多丸」ロンドンを出発。
1月24日、妻子のいる中根重一方(牛込区矢来町3番地、現・新宿区矢来町3番地)に落着く。
子規の百か日忌の1ヶ月余。
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1月20日
・ブロードウェイ、マジェスティック劇場、ミュージカル「オズの魔法使い」開幕。
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1月22日
・米とコロンビア、ヘイ・エラン条約(パナマ運河条約)調印。
米、パナマ運河地帯の租借権を得る。
コロンビア議会は条約批准拒否。
11月18日 米、パナマが運河建設条約調印。
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1月23日
・オックスフォード大学に留学中の島村抱月(31)、1ヶ月の休暇をロンドンで過ごし、この日からオックスフォードで学生生活を続ける。
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明治35年5月7日、東京専門学校海外留学生としてロンドン着。
ユニテーリアン教会の牧師サマーズの家に下宿し、語学、宗教などの理解についての指導を受けながら、毎日のように図書館に通い、日課表を作って勉強。
この牧師の息子が俳優であり、劇場に出入りするようになり、名優アーヴィングの楽屋を訪ねたこともある。
そして、10月の新学期からオックスフォード大学に入り、そこに移り住む。

この頃から、G・F・スタウト教授の心理学の講義を、大学内のエギザミネーション・スクールで聴講。スタウト教授に招かれて、哲学会の晩餐会に出席し、そこでムーア教授の「イデアの実在」という講演を聞く。その縁で、彼はムーアの講義にも出席するようになる。
11月には詩学のセリンコート教授のシェイクスピアの講義をユニヴァーシティ・カレッジで聴講。
11月末には、マンチェスター・カレッジの晩餐会で、シジウィック教授の 「シェレイとその思想」という講演を聞く。
12月12日で大学の講義は終り、1ヶ月ほどロンドンのサマーズの家に下宿。

翌明治36年1月23日から、大学で、スタウト教授の心理学のほかに、ファークハースン教授のベーコンについての講義を聴く。
3月2日には、詩学教授ブラッドレイの「オセロ」の講義を聴く。
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1月24日
・カナダの英米合同委員会でアラスカ国境協定調印。
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1月25日
・閣議、地租増徴継続案撤回。海軍拡張費として鉄道建設費を充てることを決定。
2月22日、桂太郎首相、伊藤博文政友会総裁と協議して妥協。
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1月29日
・「湖北学生界」、東京で創刊。中国留学生の雑誌発行続く。
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1月29日
・堺枯川「孟子を読む」(「万朝報」)。王道的平和論を説き、日本の武力侵略を批判。
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1月30日
歌人中島歌子(58)、没。樋口一葉の歌の師。
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1月30日
堺利彦(33)の長女、真柄誕生。妻美知子。
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1月31日
・京都錦ネル会社男工200人全員、監督排斥を要求してストライキ。
会社側は監督を解職、首謀者8人を解雇。    
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永井荷風年譜(16) 明治44年(1911)満32歳 幸徳秋水らを運ぶ囚人馬車を目撃する

明治44年(1911)満32歳
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1月か?
「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃」、市谷監獄から日比谷の裁判所まで幸徳秋水らを輸送する囚人馬車を目撃する
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明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら、折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五、六台も引き続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。

わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折程いうにいわれない厭な心持のした事はなかった。

わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュース事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。
しかしわたしは世の文学者とともに何もいわなかった。
わたしは何となく良心の苦痛はたえられぬような気がした。
わたしは自ら文学者たる事についてはなはだしき羞恥を感じた。

以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如(シ)くはないと思案した。
その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。
わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の興(アズカ)り知った事ではない - 否とやかく申すのはかえって畏(オソレ)多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をばあきれるよりはむしろ尊敬しようと思い立ったのである。(小説「花火」)
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1月
戯曲『秋の別れ』を「三田文学」に発表。
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1月18日
井上唖々と上野博物館に錦絵を鑑賞。
この日の夜、精養軒にて「スバル」「三田文学」「新思潮」「白樺」の同人が会合。合同号(雑誌)刊行の相談があって出席。
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2月
『下谷の家』を「三田文学」に発表。
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2月4日
第9回三田文学講演会を慶応義塾の32番教室で開催。
荷風は『十分間』なる演題のもとに日本の伝統建築と現代の建築との比較を論じる。
黒田鵬心、馬場孤蝶、平出修、岩村透、岩野泡鳴らが講演。
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2月8日
エリセーエフの寓居で茶話会。荷風、森田草平、小宮豊降らが出席。
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2月17日
慶応大学構内の倶楽部で開かれた三田文学座談会に出席。
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3月
『霊廟』を「三田文学」に発表。
「すみだ川」を籾山書店から刊行。
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3月上旬
病臥する。
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4月
逗子に行く。
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5月13日
交詢社にて実業家と文学者の懇談会。
実業家側より高橋義雄、門野幾之進、波多野承五郎、文学者側より、荷風、足立荘が出席。
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5月24日
松本泰、久保田万太郎、小泉信三、沢木四方吉、水上瀧太郎らの「例の会」に招待され、ヴィツカース・ホールで文学芸術の話をする。
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8月
『眠られぬ夜の対話』(のち『短夜』)を「三田文学」に発表。
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8月18日
神戸を経由して長崎に遊ぶ。25日頃帰京。
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10月
「三田文学」7月号に続いて10月号が発売禁止処分。
以来、塾監局の検閲をへて印刷所へ原稿を入れることになる。
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11月
「谷崎潤一郎氏の作品」を『三田文学』に発表。
同月、『紅茶の後』を籾山書店から刊行。
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11月17日夕
浜町常盤屋での西園寺公望の催す第6回雨声会に初めて出席。
「椎の実の栗にまじりて拾はれし」と詠む。
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12月17日
田村成義の紹介により、六代目(尾上菊五郎)と歌舞伎座で逢い、菊五郎の新しい淡劇運動について意見を求められる。
この日、父久一郎は郵船の横浜支店長を退く。
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「★永井荷風インデックス」をご参照下さい。
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2011年8月19日金曜日

東京 北の丸公園 8月18日 都心で今年最高気温36℃ されど韓流は強し

8月18日のお昼休み時間帯の話です。
この日、気温は今年最高、午前中で36℃を超えたとか。

武道館周りは、一年にそう何度とないくらいの混雑ぶり。
韓流ドラマ系のイベントらしい。

この時間から会場に入る人たちと、多分、タレントの入場を待ち受ける人たち。







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▼炎天下の散歩道
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▼幼虫からかえったばかりの蝉
カマキリがこれを狙うそうです。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照ください。
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夏の終りが近づき、生き急ぎ鳴き急ぐ蝉たち

まだまだ残暑厳しい8月17日。

そんな中でも、夕方には「いわし雲」のようなものが見えたりします。
そして何よりも確実に、日が短くなってきています。

先に蝉をたくさん撮った(コチラ)自宅近くの公園にゆきました。

蝉たちが、まるで生き急ぐかのように競い合って鳴いていました。






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「★四季のうつろいインデックス」 をご参照ください。
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