2011年8月9日火曜日

「原子力の抱える内在的な危険性に畏敬の念を持たなければいけない。」(伏見康治)

原子力の抱える内在的な危険性に畏敬の念を持たなければいけない

原発が生活の一部になり、慣れっこになっていないか。

怖いものだという感覚がなくなってしまうのが一番怖い」

これは、戦後の原子力研究を牽引した元大阪大学教授伏見康治氏が、98歳で亡くなる前年(2007年)、「朝日新聞」の取材に答えたときの発言だそうだ。

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同じ伏見康治氏の言葉で、1983年、放射性廃棄物に関して、こういう発言もあるそうだ。

じつは、当時、放射性廃棄物がこれほど深刻なものになろうとは考えていなかった。」

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初めの発言の出典は、
「朝日新聞」7月23日付け「原爆と原発」(2)「安全性論議 科学者の沈黙」。

二番目の発言の出典は、
岩波新書「原発を終わらせる」の中の、山口幸夫「原発のない新しい時代に踏み出そう」。

原発を終わらせる (岩波新書)
原発を終わらせる (岩波新書)

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(以下、引用。但し、段落を施す)

「原爆と原発」(2)安全性論議 科学者の沈黙 
「朝日」2011/7/23 

・・・敗戦した日本は、連合国軍総司令部(GHQ)に原子力研究を禁止された。
52年に独立を回復すると、科学者の代表機関である日本学術会議で、原子力研究の是非をめぐり議論が始まった。

主導したのは物理学者で大阪大教授の伏見康治。
学問の自由を掲げ、研究再開を提案する。
「父は日本軍の原爆研究にも協力しなかった。
同じエネルギーを平和利用して米国を見返してやろうと考えたのでしょう」。
長男で埼玉大将任教授の譲(68)は言う。

だが、戦争協力に取り込まれた苦い思いが当時の科学者には根強かった。
被爆した広島大教授が「米ソの対立が解けるまでは原子力に手を出すな」と反対、伏見らは提案を取り下げた。

時代の流れは急速だった。
54年、衆院議員の中曽根康弘(93)らが原子炉建設予算案を提出。
科学者は現実への対応を迫られる。

伏見は弟子の結婚式への参加を取りやめ、急きょ上京。原子力憲章草案を一晩でまとめた。
ここから「情報の完全な公開」「民主的な運営」「国民の自主性ある運営」を柱とする原子力の平和利用の3原則ができた。

56年1月4日、原子力委員会の初会合が開かれた。委員長は読売新聞社主だった正力松太郎。
5人の委員には日本初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹と藤岡由夫の2人の物理学者もいた。

だが、いきなり考えの違いが露呈した。
正力は直後、「5年後には原発を建てる」とぶちあげ、湯川は1年後に委員会を去った。 

 まもなく、政府・経済界が国内初導入を目指す原発の安全性をめぐり、慎重姿勢の科学界と対立。
湯川の京都大物理の後輩で、学術会議を代表した名古屋大教授の坂田昌一も「議論が密室だ」と抗議し、原子力委専門部会委員を辞任した。

「科学者はまず基礎研究を固め、国情にあった自主開発を目指すべきだと考えた」と元科学技術事務次官の伊原義徳(87)は語る。

60年前後を境に、湯川、坂田、伏見ら多くの物理学者が原発論議から離れた。
一方で、工学・技術者を中心とした「原子力村」が力を持つようになる。

京大原子炉実験所助教の今中哲二(60)は広島出身。祖母を原爆で亡くし、母も原爆症認定を受けた被爆2世だ。
「原子力は夢のエネルギー」と69年に阪大原子力工学科に入学した。
70年代前半、原発でトラブルが相次ぐ。反対運動も広がり、矛盾を感じた。

「原発は安全だというが、都会から離れた田舎に押しつける。
平和利用と言えば聞こえはよいが、結局は経済優先の商業利用だった」

今中は旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の放射能汚染などを調査、原子力の制御の難しさ、事故による被害の甚大さを訴え続けた。

だが、そんな志を持つ研究者は傍流とされ、安全性の健全な議論が進まなかった。
日本学術会議も「巨大な供給力を潜在し環境影響の観点からも優れた原子力の供給割合を増加させることが望ましい」(97年)と推進の旗を掛り、強力な産官学の複合体の一翼を担っていた。

慶応大名誉教授で物理学者の小沼通二(80)は「3原則は日本が核兵器を作らないという役割を果たしたが、原子力を取りまく閉鎖性を克服することはできなかった」と振り返る。

「原子力の抱える内在的な危険性に畏敬の念を持たなければいけない。
原発が生活の一部になり、慣れっこになっていないか。
怖いものだという感覚がなくなってしまうのが一番怖い」
2007年、伏見は朝日新聞の取材に答えた。
翌年に98歳で亡くなるが、福島第一原発事故を予言するかのような言葉だった。

事故発生から約1カ月後、日本学術会議総会。
東京大名誉教授の北澤宏一(68)は、原発推進から脱原発まで今後のエネルギー政策の選択肢を国民に示す分科会の設置を提案した。

北澤は超伝導の研究者。
原子力は専門でないと、これまで発言しなかったことに反省の思いがある。
「巨大な科学技術は専門家任せでなく、市民による統制が必要。本来の中立的な役割を果たし、科学者・技術者の良心を取り戻したい」               =敬称略
(桜井林太郎)  

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岩波新書「原発を終わらせる」
山口幸夫「原発のない新しい時代に踏み出そう」 

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「何とかなるだろう」の果て
日本で原子力研究が始まったとき、放射性廃棄物はどう考えられていたのだろうか。
わたしが原子力を学んだのは一九五九年だが、そのときからずっと疑問に思ってきた。

伏見康治氏(当時大阪大学教授)は学術会議に茅(誠司、東京大学教授)・伏見提案を示して、慎重だった学者たちを原子力研究に踏み切らせたご本人だが、その伏見氏に公開の席で問うたことがある。一九八三年のことだ。

私の質問を受けて伏見氏はしばらく沈黙していたが、
「じつは、当時、放射性廃棄物がこれほど深刻なものになろうとは考えていなかった。
その後、たいへんな問題だと気づかされたのは、この会場にいるあなた、若い科学者たちのおかげだ」
というものだった。
正直な告白だとは思ったが、しかし、その責任はどうなのか、納得できるものではなかった

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