2011年9月30日金曜日

東京 初秋の北の丸公園 彼岸花(曼珠沙華) 武道館はモー娘 カラタチの実 池の畔のススキ キンモクセイ

初秋とは言っても、今日(9月30日)昼間はムシ暑かった。30℃近かったのでは?

写真は歩いた順番です。

▼彼岸花(曼珠沙華)
北の丸の彼岸花はピークを過ぎているのが多い。
昨日の桜田濠一昨日の東御苑とは、ちょっと様相が異なる。
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▼今日の武道館
モー娘?ですよね。
駐車場待ちの車列は最近になく長かった。
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▼カラタチの実
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▼池の畔のススキ

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▼彼岸花
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▼キンモクセイ
そこはかとなく香っています
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年9月29日木曜日

東京 江戸城 桜田濠の彼岸花(曼珠沙華) 2011年

桜田濠の彼岸花、今年で三回目。
昨年はコチラ(9月29日)
一昨年はコチラ(9月17日)

今年は偶然にも昨年と同じ日付けですが、今年は例年に比べて花の具合はずっと遅れているようです。
それと、白花の群生している場所に、この間の台風で飛ばされた街路樹の枝が落ちていたりしてます。

▼半蔵門前から見た桜田濠
写真の右側を桜田門まで行きます。








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▼ここが白花の群生場所
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今年の彼岸花
千鳥ヶ淵戦没者墓苑(コチラ)
江戸城 白鳥濠(コチラ)
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2011年9月28日水曜日

東京 江戸城 東御苑 彼岸花(曼珠沙華)

今年の彼岸花は少し遅めでしょうか。
もうちょっとで10月になるというのに、まだ硬い蕾のものが多い。

今日(9月28日)現在の江戸城東御苑の彼岸花です。

▼一番多いのが、下の白鳥濠の辺りでしょうか
但し、赤花のみです。





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▼本丸休憩所の裏
白花もありますが、まだ蕾が多い
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▼今日は皇宮警察音楽隊の演奏会をやってました
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京都 宮本武蔵と吉岡一門の決闘の地 一乗寺下り松 大八神社

勝軍山城跡である瓜生山(コチラ)から狸谷山不動院側へ下りて、狸谷山不動院(コチラ)を通り抜けて、暫らく坂道を下ってゆくと、庭園で有名な詩仙堂があります。

しかし、まずはその隣に、「宮本武蔵」だの、「一乗寺下り松」だのと書かれたデッカイ看板が目に入ります。
そんな看板を掲げているのが、大八神社。
宮本武蔵と吉岡一門が決闘した一乗寺下り松にあった松が本殿横に移植されているという。

実は、この大八神社から暫らく坂道を下りてゆくと、「決闘之地」がありますが、ここは決闘の場所ではあるが、松は四代目だという。

▼坂道を下ってゆくと、ところどころで京都市街が見える
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▼八大神社
由来などは当社のHPをご参照下さい(コチラ)
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▼本殿の左側の松が、決闘の地から移植された松
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▼ちょっとカワイイ武蔵像
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▼こちらは「本当の決闘の地」
但し、松は四代目


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「★京都インデックス」 をご参照下さい。
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「将来の子どもたちのためにも、被爆国である日本の大人たちが、原発がない方向に持って行かなきゃ。」(松谷みよ子)

「朝日新聞」夕刊に「人生の贈りもの」という連載ものがあります。
インタビュー形式の回想記のようなものです。

9月26日は、作家松谷みよ子さん(85歳)の第一回目。
見出しは、「子どもたちのため 原発ない日本に」

一部を下記にご紹介。

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(略)

---「ふたりのイーダ」や「ミサコの被爆ピアノ」など、原爆や平和がテーマの作品も多く書かれています。今回の福島原発の事故にも心を痛めていらっしゃる。

原発ができ始めたころから、私は怖い怖いと言い続けてきたんですよ。何がどうなるからというんじゃなくて、原発の存在自体が怖いと。
今回のように、一度何かあったら何十年も取り返しのつかないことになるわけでしょ。
特に日本は小さいですからね。
海に流れればどんどん広がっていくし。

いますぐ目の前で子どもたちが倒れるわけじゃないところが怖いのよ。
「大丈夫」「いや大丈夫じゃない」なんて言ってるうちに時間がたって汚染されちゃう。

---実際に、チェルノブイリに行き、被曝した子どもたちも訪ねられたそうですね。

病院にも行きましたし、壊れたような家に住んでいる人たちにもお会いしてきました。
そこに住めない状況でも逃げるわけにいかない人がたくさんいたんです。
どこからも「いらっしゃい」と言ってくれるわけじゃないでしょ。
何年たっても行き場がない。
入院している子どもたちの悲しい目や病室の風景がいまも浮かんできます。
本当につらかった。

---原発はない方がいいと

「原発反対」「原発反対」と言っても、「いまの日本の状況で原発がなかったらどうするんだよ」といわれてここまで来たんですよね。
それで事故が起きて、住めない地域が出て、それでもこのままでいいんでしょうか

昔、原発がなかったからといって暮らせなかったわけじゃないでしょ。
自然エネルギーへの転換も、もっと本気で考えたらいいと思うんですよ。

経済が悪くなるなんてこととは違う意味で、日本の子どもたちが苦しむ日が来るかもしれない。
将来の子どもたちのためにも、被爆国である日本の大人たちが、原発がない方向に持って行かなきゃ。

(略)
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2011年9月27日火曜日

京都 瓜生山から狸谷山不動院に下りる

勝軍山城城址である瓜生山へは、北白川仕伏町側から登った(コチラ)が、帰りは狸谷山不動院側に下りた。
途中、登山道には「狸谷山三十六童子めぐり」ということで童子が36体が置かれている。

この狸谷山不動院、お寺のHPによると、

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「タヌキダニのお不動さん」の名で知られる。
宮本武蔵が心の剣をみがいたといわれる武蔵之滝があり修行場として信仰された。
交通安全・厄よけ祈願で知られる。
正月三ヶ日には初詣大護摩祈願祭、7月28日には火渡り祭が行われる。
毎月3・16・28日(午前11時)はお不動さんの日でお護摩が焚かれる。
建立:1718(享保3)年
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とのこと。

この狸谷山不動院から少し下ったところに詩仙堂、その近くに宮本武蔵の決闘で有名な一乗寺下り松がある。
順次ご紹介しますが、この辺り、武蔵の旧蹟が多い。
(もちろん、旧蹟といっても「・・・・・といわれる」と表現されるものですが)

▼「童子めぐり」の始点、第一番の童子
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▼本堂からの眺望
多分、京都市街の北側(北端部分)と思われる
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▼テレビ番組「恋するハニカミ」の舞台とか
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▼本堂はミニ清水寺の舞台ふう、です
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▼階段、階段、とにかく階段ばかり
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▼「花菱アチャコ」「浪花千栄子」
長沖一のNHK大阪放送局制作、NHKラジオ第1放送のラジオドラマ、「お父さんはお人好し」の名コンビ。
確か、放送日は日曜日だったような?
Wikiを書いている人もいた

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▼またまた階段、階段が続く

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▼阪神タイガース優勝記念
「お父さんはお人好し」を知らない人は多いが、阪神タイガース優勝はまだ大丈夫でしょう。
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▼ここが玄関口
「狸谷山」は交通安全祈願でも有名で、車の祈願をする場所がずっと下手にあります。
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「★京都インデックス」 をご参照ください。
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「夏草や一村去りし被曝の地」(東京都 橋本栄子)    「朝日歌壇」9月26日より

「朝日俳壇」9月26日より

夏草や一村去りし被曝の地       (東京都)橋本 栄子



「朝日歌壇」9月26日より

原発にさよならをしたこの秋のドイツの空の風みどり色     (ドイツ)西田リーバウ望東子



「毎日花壇」9月26日より

避難せる地より明日子ら帰るとて父の除染す家も周囲も    (郡山市)橋本 英之


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2011年9月26日月曜日

京都 勝軍山城攻略の記

京都市の北東部、比叡山の麓、北白川に室町時代に「勝軍山」と称されていた城跡がある。
現在は東山三十六峰の一つで、瓜生山(301m)と呼ばれている。
近くに行くことがあったので、かつて岐阜の「猿啄城跡」を攻略した時の如く(コチラ)、攻略行を敢行した。

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結果から先に言っておかねばならない。
この瓜生山、城址のカケラも見えない。
それなら猿啄城址だって同じであるが、猿啄城の場合は美濃の景色を眺望できる楽しみがあった。
しかし、勝軍山城の場合は眺望もなし。
ただただブッシュの中をひたすら歩くだけ。藪の中の山歩きだけである。
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勝軍山城の沿革は、今谷明「戦国時代の貴族」(講談社学術文庫)によると、城の主は変転(六角氏、将軍義晴・義輝父子、三好長逸、明智光秀)し、城としての寿命は約100年だったそうだ。

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城郭使用記事の初見は、『二水記』享禄三年(一五三〇)十二月十二日条に「今日柳本徒党数千人出張す。勝軍内藤彦七城也に取り懸かる」とあるもの」で、

陣所としては同記永正十七年(一五二〇)五月三日条に「すでに出張なり、霧を披(ひら)き幽かに見え訖んぬ。如意岳その外一乗寺上の山(瓜生山カ)等(中略)処々その勢蜂起せしむ」とあるように細川高国が初めて居陣し、戦勝によって勝軍地蔵を勧請したのが地名の起こりという」。

「内藤彦七の城とあるように初め当城は高国や近江亡命中の義晴方に属し、義晴を援助する近江守護六角定頼が五頭(五大隊)数千人の援軍を当城に派遣し、「番替えの衆」と称している(『二水記』享禄三年十二月十三日条)。

翌享禄四年六月、東山新城とともに焼失して以後は晴元方に属したらしいが、一向一揆と晴元政権が鋭く対立した天文二年(一五三三)五月、定頼の派遣軍は当城まで出張して法華一揆を援護しており(『祇園執行日記』同月十日条)、

また天文十一年(一五四二)正月、木沢長政が暗元に叛したときも定頼の被官三雲氏が一軍を率いて当城に陣替えを行っていて(『親俊日記』同月十五日条)、京都に危急あるごとに近江から番替衆を派遣する態勢は続いていたと推定される。」

次に、
天文十五年(一五四六)冬将軍義晴と晴元が一時的に対立した際、義晴は当城に大掛りな修築を施して、山科郷からも城米を徴発した。

勝軍山城が大規模な城郭の形式を具備するにいたったのはこれ以後のことである。」


「幕府は勝軍山城修築のために京都近辺の人夫をほとんど総動員の形で徴発し」、

その大規模な人夫動員はおそらく曲輪と土塁の築造に投入されたものであろう。」という。

「しかしこの修築も束の間、翌天文十六年(一五四七)七月、義晴・義輝父子は当城を自焼出奔し(『長享年後畿内兵乱記』ほか)、諸施設は灰燼に帰したと思われる。」

その後、
「天文十九年(一五五〇)春、将軍義輝は次に述べる中尾城の修築と並行して当城にも再建を施したらしく、同年四月、山科言継が見物に出向いたときはほぼ旧観に復していた(『言継卿記』同月四日条)。

藤中納言(高倉永家)北白川城御番に、この間上洛の由これある間、見舞として北白川へ罷り向かう。(中略)次いで御城見物申し候い了んぬ。近比(ごろ)見事の御山なり。御殿以下四つ立ち了んぬ。上野以下奉公衆卅人居(す)えらる。御作事これあり。厚飯(こわめし)にて一盞これあり。則ち罷り帰り了んぬ。

この言継の記録によれば、”御殿”すなわち上級武将の居宅と、将軍の親衛隊である奉公衆が三十人詰めている施設があり、言継の見物中にもなお作事(建築)が続行中であったことがわかる。

この後、義輝軍の主力は中尾城・霊山城に移ったため当城は部分的にしか使用されなかったが、永禄元年(一五五八)五月から六月にかけて再び義輝と長慶の間で争奪戦が行われ(後述)、

結局六月二日から同月七日までは三好長逸(ながゆき)が、六月七日から同年十一月二十七日までは将軍義輝が在駐した(『言継卿記』『惟房公記』ほか)。

この間にも焼失と再建を繰り返していたようである。

その後当城に拠った武将は近江守護六角義賢で、紀伊の根等衆徒・畠山高政らと呼応して長慶と争った永禄四年(一五六一)七月から翌五年三月まで約八カ月の間在城している(『御湯殿上日記』『厳助往年記』)。

最後に、元亀元年(一五七〇)叡山に拠った浅井・朝倉軍に対峙して明智光秀が同年九月より十一月にかけて駐在している(『兼見卿記』)。

このように当城は東山新城を含めて使用期間が応仁の乱から元亀の争乱にいたっており、約百年と非常に長い。」
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▼入り口
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▼ひたすら藪の中を歩く
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▼江戸時代、この地に住んでいたという仙人「白幽子」の居所跡
「白幽子」はWikiをご参照下さい
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▼白川石の石切り場跡
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▼山頂

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▼麓にある「狸谷山不動」の三十六童子
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▼往きは北白川より、帰りは狸谷不動方面に向かう。
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▼途中、こんな箇所も。
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「★京都インデックス」 をご参照下さい。
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戦国時代の貴族―『言継卿記』が描く京都 (講談社学術文庫)


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