2011年9月18日日曜日

宝亀10年(779)~11年(780)3月16日 唐・新羅の脅威なくなり軍団兵士制を縮小 「当今の急は、官を省き役を息め、上下心を同じくして唯々農これを務めんことを。」 

宝亀10年(779)
7月9日
・藤原百川(48)、没(『続日本紀』宝亀十年七月丙子条)。
山部親王(のちの桓武)の悲しみは大変なものであったと『続日本紀』は伝える。
(百川の暗躍については宝亀4年の項を参照)
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10月
・新羅、翌春の元日朝賀のための使節(貢朝使)として金蘭蓀を派遣し、御調(みつき)を持参(『続日本紀』宝亀10年十月九日、十一年正月二日・五日条)。
「調」を持参することは、朝鮮半島における日本の潜在的な主権を認めることと同じ意味を持つため、これまでは「土毛」(どもう=手みやげ)は持参しても、「調」は持ってこなかった。
日本側は、これまで、新羅によって不当に占領された任那の地からの「調」は、新羅が肩代わりして日本に献上すべき、との論理を基礎に、新羅を蕃国視してきた。
ところが、この頃の新羅国内の混乱状態と日本の介入を恐れた新羅は、日本に対して柔軟な姿勢に転じてきた。

■律令国家成立期以来の日本と新羅との関係
663年、日本(倭)は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に完敗し、朝鮮半島に直接干渉する道を閉ざされる。
この直後、新羅は単独で朝鮮半島を領有しようとして対唐戦争を始め、唐・新羅関係は険悪になり、逆に日本に対しては妥協的な態度をとってくる。
しかし676年、唐が安東都護府(あんとうとごふ)を遼東に移して半島部から撤退。
690年代には、唐は新羅が実力で確保した朝鮮半島の領有を認め、新羅の君主を改めて新羅王に任命するという冊封(さくほう)関係が成立し、以後、唐・新羅関係は安定的に推移するようになる。

一方日本の朝廷は、660年代の新羅の妥協的な態度が続くと考え、唐との対立関係を修復した新羅がその態度を変えたことに我慢ならなくなってしまう。日本は新羅に対して朝貢を要求し続けるが、ほとんど拒絶されている。

天平宝字2年(758)12月、唐の安禄山の乱を渤海経由で知った藤原仲麻呂政権は、新羅の後ろ盾が混乱している機会に、積年の懸案である日本への朝貢を実現させようと、新羅侵攻を企画。しかしこれは、仲麻呂の乱の勃発によって消えてしまう。
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・律令政府、調庸提出の納期を守るよう警告。
「調庸を提出する時期については、令条に詳しく書いてある。
ところが最近ではこの規制が緩やかに解釈されて、多くの場合時期が守られていない。
いつも延引し、理由もなく逗留しているありさまで、遂には一月以上遅れたり、翌年まわしとなって提出されてくる。
これでは祭祀の際のお供えが用意できないし、春から夏にかけての財政支出にも支障が出る」(『続日本紀』宝亀十年十一月二十九日条、意訳)と、祭祀でのお供え物が準備できないから納期を守れと呼びかける。
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宝亀11年(780)
2月
・陸奥国司、山道蝦夷の本拠である胆沢を攻略するため、新たに覚鱉(かくべつ)城を造営することを申し出る(『続日本紀』)。
さらに同月11日、去る正月26日に蝦夷が長岡(長岡郡か)に侵入し、百姓(移民系住民)の家を焼き、官軍と戦って相互に殺傷したので、3月中旬に征夷を実施し、覚鱉城を造営したいと申請してくる。
光仁天皇は征夷やむなしと判断、軍士3千を動員して蝦夷の残党を征討するよう命じる(『続日本紀』)。

覚鱉城の所在地は不明。胆沢攻略の拠点であり、また北上川を遡った場所ということから、伊治城と後の胆沢城との中間に位置すると推測される。おそらく後の磐井郡(岩手県高市・平泉町など)の辺りと考えられる。但し、造営工事前に伊治公呰麻呂の乱が起きて、実際には完成しなかった可能性が高い。

この時、東北の軍事・行政を取り仕切っていたのは、陸奥按察使兼鎮守副将軍の紀広純
宝亀5年7月、鎮守副将軍に任命され陸奥に赴く。鎮守副将軍就任の2日後に桃生城襲撃事件が起き、着任と同時にその対策に当たらる。
宝亀6年9月、陸奥介を兼任し、翌年からの志波村の征夷を主導。
宝亀8年5月、陸奥按察使に就任し、名実ともに東北の軍事・行政の頂点に立つ。
さらにこの年2月1日、陸奥按察使兼鎮守副将軍のまま参議を兼任。
天皇の許可を得て、予定通り同年3月、覚鱉城造営に着手。
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2月15日
・前年に来日していた新羅貢調使(こうちようし)が帰国するにあたり、一方的に外交関係の解消を通告
新羅が「調」を持参したことに気をよくして、これからは御調だけでなく、新羅王から天皇への表(ひよう=上表文)も持参せよ、さもなくば使者を大宰府から追い返すとの詔書を新羅王に与える(『続日本紀』宝亀11年2月15日条)。
唐使判官高鶴林(遣唐使第四船に同乗してきて済州島に漂着、新羅使に送られて入京)も、新羅使金蘭蓀と共に元日朝賀に参列しているので、唐人にも伝え聞かせるために敢えて強く出たという面もある。
しかし、この年4月には新羅恵恭王暗殺に至る新羅国内の混乱と、安史の乱後の唐帝国には、新羅救援などできないという観測は計算に入っていたと推測できる。

この間(宝亀10、11年)の唐使の来日・迎接ではプライドに傷が付き、一方の新羅使の来日・貢調では小帝国としての自意識を満足させられた。
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3月16日
・三関(さんげん)国(不破・愛発・鈴鹿の各関を抱える美濃・越前・伊勢の三国)と辺要(西海道の諸国島や隠岐・佐渡・陸奥・出羽など)以外における軍団兵士制を縮小

「殷富の百姓」(裕福な民)の中から弓術・馬術の才能がある者を選んで武芸を教習させ、「羸弱(るいじやく)の徒」を帰農させると決定(『続日本紀』宝亀十一年三月辛巳条)。

天武天皇が「政の要は軍事なり」と述べたように(『日本書紀』天武13年(684)閏4月5日詔)、律令国家は軍国体制国花であり、国家秩序は軍事機構によって維持されている。
この律令国家の軍団兵士制での仮想敵は、唐軍と新羅軍である。
律令政府は、壬申の乱・広嗣の乱の教訓よりは、白村江の敗戦を重視し、対外防備と威嚇・侵攻を主目的として、律令軍団制を維持してきた。
しかし、最近の唐・新羅の政情を分析して、両国の日本侵攻はまずないと判断した。

「臣等以為(おもえ)らく、当今の急は、官を省き役(えき)を息(や)め、上下心を同じくして唯々農これを務めんことを。・・・」
軍団兵士制の兵士数を大幅に削減し、兵士には「殷富百姓」のみを徴発。
兵士としていた諸国の農民を解除し、農業経営をたちなおらせ、調・庸の収奪をいっそう確かにするところにある
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