2011年10月25日火曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(2) 「一 「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」 - 「老い」の見立て」

東京北の丸公園(2011-10-20)
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別途進めていた「永井荷風年譜」が22回目にしてようやく「断腸亭日乗」起筆の大正6年に到達した(コチラ)。

前からの予定通り、「はじめに」で止まってしまっている川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読むコチラ)の続きを始めようと思う。
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(2)
一 「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」 - 「老い」の見立て

「日乗」起筆の頃の荷風は37歳、独身、慶応大学も辞め、その後手を染めた文芸誌編集・発行からも手を引き、まったく自由な文士生活を始める時期に相当する。

荷風は自分を「老人」と見たて、社会的現実から一歩身をひいた、消極的な人生の楽しみ方をはじめようとしている。

大正6年9月16日に「日乗」を起筆したが、その数日後の「日乗」には・・・。

大正6年9月20日
「されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に陰れ住みて先考遺愛の書画を友として、餘生を送らむことを冀ふのみ」
とある。

大正6年10月26日には、身辺整理をしている。
「晴天。写真師を招ぎて来青閣内外の景を撮影せしむ。
予め家事を整理し萬一の準備をなし置くなり
近日また石工を訪ひ墓碑を刻し置かむと欲す」

大正8年1月16日、39歳の時には
「余既に餘命いくぱくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず
と書いている。

荷風は終始、自分の気力、体力が落ち死期が近いのではないかという恐れを抱いている。

昭和3年3月29日
「春来神経衰弱症ますます甚しく読書意の如くならず、旧稿を添削する気力さへなく、時々突如として睡眠を催すことあり、眠れば昼となく夜となく必悪夢に襲はる、何とはなく死期日々近き来るが如き心地するなり」

翌3月30日
「今よりそろそろ終焉の時の用意をなし置くなり」

昭和11年2月24日(59歳)
「余去年の六七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり」と書き、
「依てこゝに終焉の時の事をしるし置かむとす」とし、「余死する時葬式無用なり」「墓石建立亦無用なり」など7項目の「終焉の時の事」を掲げている。

まず、荷風が本当に身体が弱かった。

随筆「十六七のころ」(昭和10年)によると、「十六七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあった」。明治27年、15歳の時、結核性の瘰癧(ルイレキ)にかかり、下谷の帝国大学病院に入院。退院後も風邪をこじらせ、それが悪化して明治28年には逗子に転地し、その結果、学業が1年遅れることになる。

尚、帝国病院入院中に、お蓮という名の看護婦に初恋をして、その「蓮」(はす)にちなんで、自分の名前を「荷風」にしたという有名な逸話を残している。随筆「雅号(旧)について」(明治41年)。
荷風の「荷」は「はす」のこと。

成人してからも腸が悪く、それが持病となって、隅田川沿いの中洲にある中洲病院に通うようになり、院長大石貞夫は、荷風の主治医のような存在になる。
「日乗」起筆の頃、銀座三十間堀の築地界隈や出雲橋に近い路地裏に部屋を借りるが、それはひとつには、中洲病院に通う便がよかったからである。

荷風は病弱であった。
しかも、自身がそのことを非常に意識して、病院通いのために、病院に近いところに部屋を借りるほどであった。

大正10年5月26日
「病衰の老人日々庭に出で、老樹の病を治せむとす」

同年6月9日
「中洲病院に往きて健康診断を乞ふ。
尿中糖分多しといふ。
現在の境遇にては日々飲食物の制限は實行しがたきところなり、憂愁禁ずべからず」

「日乗」起筆の頃に戻る。

大正5年2月に慶魔義塾教授辞職の頃の随筆「矢はずぐさ」(大正5年)に、慶應を辞めた大きな理由は、体調が思わしくなく、朝出がけに腹痛をおぼえることが度々あったためという。

職を辞し、人との付き合いもなく大久保余丁町の家に引込んでしまったいま、荷風は、「われは誠に背も圓く前にかゞみ頭に霜置く翁となりけるやうの心とはなりにけり」と書く。
「およそ人の一生血気の盛を過ぎて、その身はさまざまの病に冒されその心はくさぐさの思に悩みて今日は昨日にまして日一日と老ひ衰へ行くを、時折物にふれては身にしみじみと思知るほど情なきはなし」。
荷風が日記を書こうと思い立つのはこのとき。

この時期、病気を気に病み、年齢のわりに、普通以上に死を近く意識したに違いない。

大正6年の「西遊日誌抄」の序文。
自分はこの3年はど体調が悪い。大石医師に余命はどれほどかと聞くと、「恐らくは常命五十年を保ち難からん」という。
「余元よりかくあらんと兼てより覚悟せし事なれば深くも驚かず」。
ただその日から身辺整理をするようになった。
あるとき書庫の棚を片づけようとして、昔書いた「西遊日誌」4、5冊を見つけた。
はじめ庭で焼き捨てようとしたが、ふと読み返していくうちに「感慨忽ち禁ぜず、薄暮迫り来るも猶巻を掩ふ事能はず」。ついに日記の、後日人の迷惑になるようなところを削って、再び書庫におさめた(これを大正6年に「文明」に発表。)。

「西遊日誌」は、大石医師から長生きは出来ないといわれ、覚悟のうえで身辺整理したところから陽の目を見るにいたった。

荷風にとって、「日記」をつけるとは、死に向かっていく日々を確認していく毎日の遺書だったと見ることが出来る。
だからこそ荷風は「餘生」「病衰の老人」と書く


「日乗」が四季の観察、植物への視線に富んでいるのも、死を意識した荷風が”末期の目”で周囲を見ようとした結果だろう

荷風は好んで自らを「老人」に擬したのではないか。
「老人」に見立てたのではないか。

荷風には時代の生ま生ましい現実と直接関わりを持ちたくないという消極的な反俗精神があった。


さらに俗世から離れた草庵で静かな生活をしたいという文人趣味、隠棲趣味があった。

「若さ」よりもむしろ「老い」のなかに、美しさを見たいという老人趣味があった。

そうした傾向が重なり合って荷風は自らを好んで「老人」に見立てていったのではないか。



現実とはなるべく関わりたくないという、逃避の口実にしたのではないか。

つまり荷風は事実としての「病弱」に、意識としての「老い」を重ねることで巧みに「孤高」の立場を作っていたのである。

大正13年8月16日の散歩記録を見てみよう。
「猿江より錦糸堀に出で、城東電車に乗り、小松川に至り、堤防を下りて蘆荻(ろてき)の間を散歩す。
水上舟を泛(うか)べて糸を垂るるものあり。蒹葭(けんか)の間に四手綱を投ずるものあり。
予は蘆荻の風に戦ぐ声を愛す。
嘈々(そうそう)雨の如く切々私語の如し。
黄昏来路を取りて家に帰る」

麻布から隅田川を越え、小松川まで行き戻ってくるのは半日の旅行であり、しかも夏の暑い盛りである。
「老人」とは思えぬ、元気な行動力である。

荷風の病気には、胃腸障害とそこからくる神経衰弱の他に、長年の放蕩からくる梅毒の恐れがあった。
大石医師の言葉を借りれば、「君元来身健かならざるに若き時夜遊びに耽りたれば露の冷気深く體内にしみ入りて終にこの病を發せるなり。今よりして摂生の法を尽すとも事既におそし恐らくは常命五十年を保ち難からん」(「西遊日誌抄」)と、医師は笑いながらいったとも考えられる

大正14年8月31日
「病餘の生涯唯静安を願ふのみ」と書く

自分を「老人」に見立てている。
好んで老人趣味に徹しようとする。
「日乗」にはいたるところに荷風の老人趣味があらわれている。
その日常生活には、老人の静かな生活ぶりが強調されている。


老人・隠棲者に見立てようとする荷風にとっての理想とする静かな一日
大正15年9月26日(46歳)。
この日、荷風は知人からかねて欲しいと思っていた秋海棠を数株もらう。
さっそく庭に降りて秋海棠を植える。ようやく手に入りうれしくて仕方ない。
「今日偶然、これを獲たる嬉しさかぎりなし」
そして、
「秋海棠植え終りて水を灌漑(そそ)ぎ、手を洗ひ、いつぞや松莚子より贈られし宇治の新茶を、朱泥の急須に煮、羊羹をきりて菓子鉢にもりなどするに、早くも蛼(コホロギ)の鳴音、今方植えたる秋海棠の葉かげに聞え出しぬ。
かくの如き詩味ある生涯は蓋し鰥居(かんきよ)の人にあらねば知り難きものなるべし。
平生孤眠の悲なからんには清絶かくの如き詩味も亦無し」

好んで自分を老人に見立て、ことさらのように静かな一日を演出する。
生活の芸術化

「矢はずぐさ」

「我は遂に棲むべき家着るべき衣服食ふべき料理までをも藝術の中に数へずば止まざらんとす。
進んで我生涯をも一個の製作品として取扱はん事を欲す

昭和3年2月15日
「空澄みわたりて日の光いよいよ春めきたり、過日高木氏の贈り来りし古梅園献上の古墨を擵り試む、光澤漆の如く筆の穂ねばらず、誠に好き墨なり」

毎年正月、亡き父を偲んで、父親が大事にした硯をきれいに洗うことを一年のはじめの儀式のようにしている。

筆、墨、硯を愛する「文房清玩」の精神である。

今東光の青春回想録『十二階崩壊』(中央公論社、昭和53年)によると、荷風は書き損った原稿用紙の反古はこまかく切って観世縒(かんぜより)を拵えて、出来上がった原稿を綴じるのに使用したともいう。

大正6年9月17日
「燈下反古紙にて箱を張る」

大正8年3月26日
「築地に蟄居してより筆意の如くならず、無聊甚し。此目糊を煮て枕屏風に鴎外先生及故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ」

大正8年11月28日
「燈下臙脂を煮て原稿用罫紙を摺る」

大正14年1月22日
「戯に石印二三顆を籑刻す」

その他
墓参趣味
庭いじり
焚き火
曝書
文房清玩
・・・・・
好んでそういう老人くさい日常を作り出していった。

荷風は、「日乗」のなかでは、俗気を出来る限り排そうとした。


自分を「老人」に見立てることで、世俗とは関わらないですむ理想の隠れ里生活を作り上げていこうとした


「断腸亭日乗」はその意味で、日記であると同時にフィクションであるといってもいいだろう。

************************************* 読書ノートは以上
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さて、子供の頃は病弱で、一生独身であった荷風
成人してからは、偏食がたたり、
さぞかし老け込んだろう・・・と想像してしまうけれど・・・。


明治12年12月3日生まれで、
昭和34年(1959)4月30日に満79歳で亡くなっている。
昭和27年には文化勲章、昭和29年には日本芸術院会員の名誉にも恵まれて。


ついでに言えば、別途進めている昭和16年の断腸亭日乗(コチラなど)によれば、
この時満62歳の荷風さん、月に2回くらいは日付けの頭に「・」マークを付けている。


健康な精神は健康な肉体に宿る、ということか?


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