2011年10月8日土曜日

天応2年(782)4月~延暦2年(783)12月 「陸奥国、頃年兵乱あって、奥郡の百姓、並に未だ来り集まらず」

天応2年(782)
4月
・平城京造営に関わる官司(造宮省など)が廃止され、佐伯今毛人が左大弁に転じる
(後、造長岡宮使となる)。
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5月
・この月、「陸奥国、頃年兵乱あって、奥郡の百姓(ひやくせい)、並(ならび)に未だ来り集まらず」との理由で、陸奥国の奥郡(黒川郡以北)に対して3年間の課役が免除される(延暦元年五月甲午条)。
逃亡農民が戻ってこない状況。
城柵の設置と移民による建郡を基本とする東北政策の根幹を揺るがす事態である。
この措置はのちに出羽国の雄勝・平鹿二郡にも適用される。
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・この頃、地方豪族による軍粮(ぐんろう)の献上が多い。
この月、下野国安蘇郡の主帳若麻続部牛養と、陸奥国の人安倍信夫東麻呂らが、軍粮を献上した功績により外従五位下を授けられる。
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6月17日
大伴家持(春宮大夫、従三位)に陸奥按察使・鎮守将軍を兼任させる
また、外従五位下の入間広成を陸奥介に、外従五位下の安倍猿嶋墨縄(あべのさしまのすみただ)を鎮守権副将軍に任じる(『続日本紀』)。
家持はこの年閏正月に、氷上川継の謀反事件に連座して一旦官職を解かれ、5月に参議兼春宮大夫に復職したばかり(翌年7月に中納言)。

この任官は次の征夷に向けた布石
2年後の延暦3年2月、大伴家持は持節征東将軍に、入間広成と安倍猿嶋墨縄が征東軍監(ぐんげん)となる。
入間広成は武蔵国入間郡、安倍猿嶋墨縄は下総国猿嶋郡の地方豪族の出身で、ともに征夷に関わるのは、前回の宝亀11年以来二度目。
入間(物部)広成は、恵美押勝の乱において、授刀舎人(たちはきのとねり)として孝謙太上天皇方の軍に加わり、押勝の軍が越前国愛発(あらち)関に入るのを阻止した(『続日本紀』天平宝字八年(764)九月王子条)。
次の征夷に向けて坂東と陸奥との連携を円滑にするために、坂東出身者を陸奥の官人に起用する。
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8月19日
「延暦」に改元
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延暦2年(783)
3月
・和気清麻呂、摂津大夫に任命される。
翌延暦3年5月、遷都の予兆として摂津職(職=官庁)から蝦蟇(がま)の行列が報告され、その直後に長岡遷都が決定する。
長岡宮の中枢部は摂津職のあった難波宮から移建されたことからすれば清麻呂の任命は、遷都を前提としていた可能性が高い。
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4月
桓武天皇、藤原乙牟漏を皇后に立てる
桓武は嫡妻の子が皇位継承の最有力候補者であることを身を以て示しており、皇太子早良(桓武の同母弟)の立場は、危険極りないものになる
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・この頃、東国の不動穀が、中央政府に吸い上げられ、蝦夷征討の軍粮への支出に流用され始める(『続日本紀』延暦二年四月十五日条他)

不動穀:
公出挙の利稲を入れる倉が満杯になった際、施錠して管理される稲穀のこと(その倉は不動倉という)。
不動穀の名の謂われは、倉の鍵が中央政府に召し上げられ、天皇の管理下に置かれ、国司でさえも不動穀を使用するには、天皇の許可を必要とするから。

やがて、不動穀は軍事費以外の様々な名目に消費されていく。
①年料粗春米(ねんりようそしようまい):
中央政府に納入させたのち、諸司での衛士(えじ)・仕丁(じちよう)・采女などに支給される大粮米(たいろうまい)に充てられる
(本来これに充てるべき庸の未納が深刻化したことを示す)、
②年料別納租穀(ねんりようべつのうそこく):
五位以上の京官の位禄や季禄その他の給与を、諸国で租穀から直接支給する制度。
この二つの制度は、本来は諸国の経常費の財源である正税を用いるべきであるが、無い袖は振れず、9世紀後半には(まだ不動とされていない)田租穀を用いるようになり、やがて不動穀をも消費してしまう状態に陥ってしまう。
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4月15日
・この日付け桓武天皇の勅。
官人の不正行為を禁じ、厳罰に処すと明言。
近年、坂東八国が鎮兵の粮として陸奥に運んだ穀(こく=籾殻が付いた米)を、「将吏」(鎮守府の官人)が「軽物」(布などの軽い物)に交易して京に運んで我が物としており、また鎮兵を使役して私田を耕作するため、鎮兵が疲弊して戦闘に堪えられないという。桓武はこれらの不正行為を厳しく禁止し、法によって処罰することを明言(『続日本紀』『類聚三代格』巻二〇)。
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4月19日
・この日付け桓武天皇の勅。
使者を派遣して、坂東諸国が蓄えている米などを民衆に支給する。
近年の征夷によって、坂東諸国は徴発に疲れ、農民は久しく物資の輸送に苦しんでいるので、使者を派遣して慰労し、倉を開いて食料などを支給する(『続日本紀』)。
但し、「朕が意」を尽くすよう指示する。単なる民衆の救済ではなく、天皇の恩恵をアピールすることで、さらなる征夷への協力を求める政治色の強い施策。
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6月
・出羽国司の申請(『続日本紀』延暦二年六月丙午条)。
「宝亀十一年、雄勝・平鹿二郡の百姓、賊のために略(略奪)せられ、各本業を失ひて彫弊(疲弊)殊に甚だし。
更に郡府(郡家=ぐうけ)を建て、散民を招集して、口田(くでん、口分田)を給ふと雖も、未だ休息を得ず。
これに困りて調庸を備へ進むるに堪へず。
望み請ふらくは、優復(課役免除)を蒙り給ひて、まさに弊民を息めむことを。」

呰麻呂の乱があった宝亀11年、出羽の蝦夷も蜂起して、雄勝・平鹿二郡の移民(柵戸)を襲撃し、郡家も破壊した。そこで郡家を再建し、逃亡した移民系住民を集め、口分田を支給したが、まだ調庸を徴収できる状態にないという。

この申請に対し、勅によって3年間の課役が免除される。

天平宝字元年(757)に雄勝城の造営が開始され、雄勝・平鹿二郡の建郡や柵戸の移配など、この地域に積み上げてられきた支配の成果が、呰麻呂の乱によって失われたことを示す。
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6月6日
・この日付け桓武天皇の勅。
軍士の徴発に関し、これまで徴発を免れてきた富裕者(散位の子・郡司子弟・浮浪人など)に重点を置く。
坂東諸国から徴発される軍士は、多くは虚弱で戦いに堪えられないが、散位(位階があって官職のない者)の子、郡司の子弟、浮浪人(戸籍・計帳に登録された本籍地以外の場所に居住する人のことで、裕福な人が含まれる)などに、弓馬の術や集団戦に長けている者がいる。
しかし彼らは徴発のたびに兵役を免れているので、今後はこれらの人々から軍士を徴発し、国の大小に従って1千人以下500人以上を選び取り、武芸を教習させ、もし陸奥で非常事態が発生すれば、国司が軍士を率いて直ちに救援に向かうことを命じる(『続日本紀』)。

坂東諸国に対して、国の等級に応じて陸奥救援軍を準備するよう命じたことは、これ以前にも天平宝字3年(759)11月と宝亀5年(774)8月に例があるが、今回は、徴兵の対象が一般の成年男子ではなく、これまで徴発を免れてきた散位の子・郡司子弟・浮浪人といった富裕者に重点を置いている。

3年前の宝亀11年3月に、諸国の軍団兵士が弱体化しているため、弓馬の才を持つ富裕な民を兵士とすることが定められており、この勅はその方針を征夷軍士に及ぼしたもの。

しかし、富裕者の兵役忌避は、これ以後も続く。
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10月
・桓武天皇は、河内国交野に行幸し狩猟を行う。
この地は、百済王氏の本拠地であり、乙訓郡を遠望できる場所である。遷都のための下見と思われる。
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11月12日
・常陸介の大伴弟麻呂に征東副将軍を兼任させる。
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