2011年10月16日日曜日

延暦7年(788) 延暦8年の征夷(桓武の第一次征夷)軍首脳部任命 「坂東の安危、この一挙に在り」

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延暦7年(788)
2月
・前年の池田美枚に続き鎮守権副将軍の安倍猿嶋墨縄が鎮守副将軍に任命される。
墨縄は下総国猿嶋郡の豪族で、入間広成と同様に、宝亀11年(780)の征夷に参加し、延暦3年の征夷計画にも征東軍藍に任じられている。
鎮守副将軍は1人が通例だが、この時2人が任命され、しかも実戦の立案に深く関わっている。

安倍猿嶋墨縄の鎮守副将軍就任と同時に、多治比宇美(たじひのうみ)が鎮守将軍となる。
彼は延暦4年に陸奥按察使兼陸奥守となり、ここで鎮守将軍をも兼任し、東北の行政と軍事を一手に担うことになる。
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3月
・東海・東山・北陸諸道の軍粮と、東海・東山・坂東の軍兵5万2,800余人とを、陸奥国多賀城に集めよとの動員命令が下る。
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3月2日
翌年の征夷のため、陸奥国に命じて軍粮3万5千余斛(こく)を多賀城へ運ばせ、東海・東山・北陸道諸国には、糒(ほしいい)2万3千余斛と塩を7月までに陸奥国に運ぶことを命じる(『続日本紀』)。
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3月3日
桓武天皇は坂東諸国(原文は「東海・東山・坂東諸国」、これを「東海と東山の坂東諸国」と読む)に勅を下し、歩兵・騎兵5万2,800人余を徴発し、来年3月までに陸奥国多賀城に会集させることを命じる。

軍士徴発については、将官と同じく経験者を重視して、「それ兵を点ずるは、先づ前般軍に入りて戦を経て勲に叙せる者、および常陸国の神賤を尽くし、然して後に、余人の弓馬に堪ふる者を簡点せしむ」と指示(『続日本紀』延暦七年三月辛亥条)。
「常陸国の神賤」とは、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に隷属する「賤」とされた人々のことで、その徴発は他に例がないが、征夷軍に動員できるほどの武力と人数を有していたらしい。
鹿島神(武甕槌神(たけみかづちのかみ))は征夷の神として信仰されてきた。
鹿島神宮から兵を出すことによって鹿島神の加護を期待した。    

5万2,800余人は、東海・東山・坂東諸国に命じた兵士動員割り当て数であって、奥羽両国が徴する兵力は含まれていない。
陸奥国については、このときの征夷では玉造塞が後方兵砧として重要な機能を果たしていたことを見ても、玉造・小田団をはじめとする陸奥国六団の軍団兵士6,000人が動員されたことはほぼ疑いない。
更に、陸奥国内の地方豪族や村落の有力者なども動員されており、輜重の人数までも加えると、実際の総兵力は5万2,800余を大きく上回るものであった。

桓武天皇は、一方で、近年国司たちに「奉公」の心がなく、手抜き・怠慢が多いことを指摘し、もし今後そのようなことがあれば、養老擅興律(せんこうりつ)の「軍興に乏しきは斬」(徴発を怠った者は斬刑に処する)を適用すると述べる。
厳罰によって国司の「奉公」を引き出そうとする方針。
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3月21日
・従五位上多治比浜成(たじひのはまなり)、従五位下紀真人(きのまひと)・佐伯葛城、外従五位下入間広成の4人を征東副使に任じる(『続日本紀』)。

・多治比浜成は常陸介で、これ以後、延暦13年の征夷でも征夷副使を務めるなど、東北政策に深く関わっていく。
・紀真人はこの時42歳で、前月に相模介から相模守に昇格したばかり。人となりは温潤で文藻(詩文の才能)があったという(『日本後紀』延暦二十四年八月癸亥条)。以下の征夷に関する記事には彼の姿は名は見えず、実戦には参加せず、後方で軍用物資の輸送などにあたっていたと推定される。
・佐伯葛城は、延暦5年8月に東海道に派遣されて閲兵を行った人物で、この時、民部少輔兼下野守。
・入間広成は、武蔵国入間郡の出身で、前月、近衛将監(このえしようげん)になったばかり。宝亀11年(780)の征夷に参加し、延暦3年の征夷計画でも征東軍監に任じられている。

征東副使4人は、坂東の国司が3人、坂東の豪族が1人
(征夷の人的・物的基盤である坂東諸国との連携を円滑にしようとする方針)。
なお、軍監・軍曹の人数は不明。
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5月4日
・桓武天皇の夫人(ぶにん)、藤原百川の娘、大伴親王〈後の淳和天皇)の母、藤原旅子(30歳)、没。
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7月6日
・正四位下、参議・左大弁・春宮大夫・中衛中将の紀古佐美(きのこさみ、56歳)が征東大使に任命される(『続日本紀』)。
宝亀11年の伊治公呰麻呂の乱では征東副使を務め、延暦4年に参議に任じられている。
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9月
長岡京の後期造営が始まる。
後期造営で初めて平城宮の建物が解体・移築されいる。
征夷の準備の目途が立ち、桓武の権威も確立しつつあるとみられる。

この月の天皇の詔からは、予定されている宮室でまだ着手できないものがかなりあり、造都事業は今後も続けねばならないこと、造都のための召役が幾年も継続し、農民の生活がずいぶん劣悪になっている、ことが見て取れる。
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12月
・征東大使紀古佐美は、内裏で桓武天皇から節刀を授与され、陸奥に向けて出発。

「征東大将軍紀朝臣古佐美辞見す。詔して、召して殿上に昇らしめ、節刀を賜ふ。因て勅書を賜ひて曰く、「夫れ日を択びて将を拝するは、良(まこと)に綸言(りんげん)に由る。轂(こく)を推し閫(こん)を分かつは、専ら将軍に任す。如聞(きくな)らく、承前別将ら、軍令を慎まず、逗闕猶多しと。その所由を尋ぬるに、方(まさ)に法を軽んずるに在り。宜しく副将軍、死罪を犯すこと有らば、身を禁じて奏上し、軍監以下は法に依りて斬決すべし。坂東の安危、この一挙に在り。将軍宜しく之を勉むべし」と。困て御被(みすま)二領、采帛(さいはく)卅疋、綿三百屯を賜ふ。」(『続日本紀』延暦七年十二月庚辰条)。

紀古佐美は内裏の殿舎に昇り、天皇から節刀を与えられ、死罪を犯した副将軍の身柄奏上と軍監以下の死刑執行を許可する勅書と、御被(天皇の衣服類)・采帛(彩色した絹)・綿を授与される。

勅書では、「聞くところによると、これまで別将らは、軍令(作戦上の指令)に従わず、軍を逗留させ、落度があることがなお多いという。その理由を尋ねてみると、まさに法を軽んじていることにある」と述べて、副将軍以下に対する刑罰権を再確認している。
「別将」は、将軍以外の副将軍・軍監以下を指す。

副将軍(副使)以下を厳しい軍紀によって律すべきことを命じていることは、現地官や坂東豪族勢力を統御するのに少なからぬ困難が伴うと予想されていたからであろう。

征夷軍がなかなか進軍せずに逗留し、軍粮を浪費することは、宝亀11年~天応元年(780~781)の征夷でも大きな問題となっていた。
それを踏まえて、桓武天皇は古佐美に対して迅速に進軍することを強く求めた。

「坂東の安危、この一挙に在り」(「坂東が安全であるか危険であるかは、すべてこの一回の軍事行動にかかっている」)は、この征夷にかける天皇の強い意思を表している。
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