2011年10月20日木曜日

永禄9年(1566)1月1日~3月31日 一乗院覚慶(後の義昭)還俗、信玄・謙信らに御内書を発行 [信長33歳]

京都北白川、曼殊院門前(2011-09)
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永禄9年(1566)
この年
信長33歳、光秀39歳、秀吉31歳、家康25歳
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・若狭国、逸見氏は、前の反乱で砕導山を陥落されたため高浜に水・平山城を築城。
この年、守護武田義統の子元明擁立を旗印に再び、粟屋勝久と連携し高浜と三方の東西で叛乱。
義統は再び朝倉氏に援軍を頼み、粟屋氏居城を包囲させ、自らは全軍事力で逸見氏に立ち向かい、再度これを破る
(逸見氏の水軍に対抗して、自らも水軍を編成、これを破る)。
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・天草に初めてキリスト教が入る。
天草の下島の北~西を押さえる豪族志岐鎮経(しげつね)、有馬口之津に滞在中のイエズス会修道士アルメイダを招く。
このときヴェレイラ神父・トルレス神父・オルガンチノ神父らも来島。
しかし、志岐氏は自らキリシタンになったものの、領内のキリシタン化に対する仏教徒ら反体制派家臣を押さえられず迫害に転じる。
1569年、志岐氏、棄教。
これにより、天草の布教の地は天草尚種領内(下島の東~北)へ移る。
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・明智光秀(39)、美濃安八郡に4500貫の知行を授かる。
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・15世紀後半~16世紀、洛中洛外の酒屋の多面的な活躍
この頃と推定される請酒屋の酒屋役銭の進未進を注する史料
(西京・北山・御室・梅津・嵯峨近辺の請酒屋を列記し、造酒司への請酒屋役銭を納めたかどうかを注記したもの)。  
高利貸を営み帯座座頭職をもつ嵯峨の角倉与次宗忠が営む棚(出店)の請酒屋が、北山鹿苑寺門前に2軒、嵯峨に数軒、西梅津に1軒、仁和寺近くに1軒、妙心寺門前に1軒と、10軒近くある。
洛中全域の実態は不明だが、角倉棚の請酒屋がまだ他に散在している可能性はある。
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・近江の浅井長政の「料足掟条々」(「菅浦文書」)
「自他国当谷居住之仁、其外往還之商人、定置公用之外を、清銭を撰び本国へ遣儀堅令停止畢」とする。大名の精銭確保の欲求を表す。
大内(「大内氏掟書」)、相良(「相良氏法度」5条)、武田(「甲州法度之次第」42条)、結城(「結城氏新法虔度」83条)、北条(永禄2年「代物法度」等)などの諸大名はみな「法度」として精銭確保=撰銭の問題を取り上げる
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・大名領国下の独立市場圏。
遠江引佐郡祝田・都田両郷を含む井伊谷東南辺地域は、浜名湖北岸に位置し、今川勢力下で、国人領主井伊が君臨。
この年、この地域に今川方から徳政令が発布され、「銭主方」は井伊に働きかけ、徳政実施を68年に至っても拒否し続ける。
この「銭主」は、井伊谷地域の多く土地を買得する地主でもある瀬戸方久以下の人々で、これら銭主方と国人井伊とが結託し「私に仕り」、徳政実施を握り潰そうとする。

百姓たちは、今川に訴え集団的な動きをとり始め、今川方は徳政実施の厳命を下す一方、瀬戸方久の買得した「名職」「永地」は徳政から除外として安堵し、さらに新城根小屋における「蔵取立商売」の諸役を免除することでこれと妥協。

曳馬市(浜松)に近く、信州・三河への街道上で、国人の城下でもある経済的中心地域において、多くの農民が窮乏に追い込められている事実と、国人領主・銭主が結託して、大名に抵抗している状況

井伊谷両辺には「五日市場」があり、東南3kmの蜂前神社前にも「いち免」があり、井伊谷とその周辺地域は、独立的な国人領で、同時に一つの市場圏としても一定の纏り持っている見られる。

こうした市場圏の割拠性は大名領国下にひろく存在した一般的傾向で、名の領国経済圏形成のための市場政策や農村統治策としばしば矛盾する性質のもの。
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・イギリス、ハンフリー・ギルバート卿、「北西経由でキャセイア(中国)に至る航路を実証する論文」を提出。
カナダの北をまわって中国に向う北西航路。
300年以上後、19031906年、ノルウェーのローアル・アムンセンにより征服。
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・イギリス、1559年、エリザベス1世、全聖職者に対して英国国教会の定めた制服の着用を義務づけるが、清教徒から「キリストの敵の制服」として反発。
この年、カンタベリー大主教が制服着用の義務を命じてロンドンの聖職者110名を招集、37名が着用拒否し公職追放。
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・1566年のカトリーヌ・ド・メディシスの「国内巡幸」の旅程:
ムーラン→ヴィシー→ル・モン・ドール→クレルモン→フェラン→オセール→サンス→4月21日モンソー・アン・ブリー→4月30日サン・モール
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・フランス、ボルドーとリヨンの公証人、半数以上がユグノーに転向。
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ラス・カサス司教、没。開化派のフランチェスコ会伝道師、原住民の権利を公然と主張。
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1月

・信長、木下藤吉郎に州俣築塁を指示。(信頼できる資料にはない)
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・北畠具教(39)、砦を築き三好康長の侵攻を防ぐ。
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1月1日
・尼子義久、老臣宇山久信父子を富田城中に殺害。尼子軍動揺す。
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1月7日
・教皇ピウス5世、即位(位1566~1572)。
ドミニコ会修道士ミケーレ・ギスリエリ、厳格な禁欲主義者、異端審問所出身、反宗教改革。
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1月9日
・毛利元就、病再発。
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1月15日
・越智伊予守家増、筒井氏から貝吹城を受け取り入城。
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1月29日
・仏、コリニ提督のギーズ公フランソワ殺害事件、無罪判決。
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2月
・信長、尾張国の薬師寺別当蔵南坊へ尾張国海東郡間島村内100貫を寄進(「尾張国寺社領文書」)。
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・上杉謙信、関東の地を席巻。
再び離反した佐野氏の下野唐沢山城を攻め、3月、下総臼井城の正木氏を攻める。
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・本願寺筆頭坊官下間頼総、加賀での劣勢打開のため、この年正月、京都吉田社に依頼して新調した家旗・先惣旗(「兼右卿記」正月7・24日条)を持って金沢へ下り、戦況の立直す。
戦線は加越国境まで戻る。
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フランス、「ムーラン王令(86ヶ条)」
「王権の絶対性」を明確に定義(高等法院は勅令に反対できない)。
市や貴族の司法上の権利を最大限制限、国王司法権を拡張。
地方総督の恩赦実施、税金徴収、司法への圧力を禁止。
大貴族・地方総督を特命行政総監に格下げ。
ほか、町村裁判所管轄権、施療院・商人組合の規則、出版業取り締まり、飲食店価格表示に至るまで広範囲にわたる規則を網羅。
全国巡幸を通じて確認した行政・司法上の広汎な問題に答えようとするもの。
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2月4日
・三好三人衆、多聞山城攻撃。松永久秀の攻撃受け高屋城へ敗走。
11日、久秀、高屋城攻撃出陣。
17日、両軍、上之芝で激突。久秀、畠山1万。
畠山、討死1千・斬首460、で紀州敗走。久秀も大和多聞城へ退却。

**別資料では・・・
(17日、三好三人衆、畠山・遊佐勢と河内に戦い、大勝。
畠山・遊佐方は堺へ逃亡。
討ち取った首は実検分の463を含め、1千程という。)
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2月5日
・宇喜多直家の刺客、備前に侵入して備中・三村家親を狙撃。
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2月16日
・長尾輝虎(37、上杉謙信)、小田氏治の小田城を攻略。小田城陥落。(小田城攻め)
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2月17日
一乗院覚慶(後の足利義昭)、還俗して「義秋」と改名
12日、京都東寺八幡宮へ、「凶徒」「退治」を立願し、「帰洛」実現の際の「一宇」建立を約す(「進士文書」)。  
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2月19日
・多聞院英俊、多聞山城にいる筒井方の人質に連絡を取る。
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2月24日
・松永久通、筒井城へ兵粮を入れる。合戦あり、討死少々・負傷者多し。
29日、久通、筒井城へ出陣、兵を入替える。
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3月
・真田昌幸(20)に嫡男・信幸、誕生。
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・信玄、西上野へ侵攻  
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・上杉謙信、千葉胤富属城臼井城(佐倉市)原胤貞を攻撃。
千葉胤富・北条氏康が後詰めで原胤貞を支援、謙信、大敗北し、5月9日、関東より帰国。
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3月8日
・武田信玄、足利義秋(後の義昭)へ遠国のため援軍は派遣出来ない旨を通知(「前田家所蔵文書」)。
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3月9日
・スコットランド、女王メアリー・スチュワートの愛人ダヴィッド・リッチオ(イタリア人音楽家)、メアリー夫ダーンリー卿ヘンリー・スチュワートによりホリルード宮殿にてメアリー(妊娠6ヶ月)の目の前で残酷な方法で殺害。
メアリーは軟禁されるが、後、脱出。
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3月10日
・足利義秋、上杉景虎の養子景勝に御内書。北条と和睦し上洛要請。
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3月15日
・松永久通、今市城破却に出陣。
17日、久秀、筒井城へ兵粮を入れるべく多聞山城から出陣。
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3月17日
・三好政権の細川昭元(摂津芥川城主)、上京し洛中洛外に撰銭令を発す(「兼右卿記」)。
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