2011年11月4日金曜日

永禄10年(1567)8月 信長、稲葉山城攻略 [信長34歳]

東京 江戸城東御苑(2011-11-02)
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永禄10年(1567)
8月
・信長、尾張蓮台寺へ、津島の道場(蓮台寺)の堀より外の屋敷及び寺領は「衆僧」の「裁許」たるべき指示を下す(「張州雑志抄」)。
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・この頃、明智光秀、足利義秋に臣従し、義秋の上洛を実現するべく朝倉家を辞し、美濃に出て信長に仕える。
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・武田信玄、嫡男義信の正室・今川氏真の妹を離縁させ駿府今川家に帰す。
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・武田信玄、占領地を含む全家臣に起請文を提出させる。嫡男義信処断の準備。
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・北條氏政、上総に出陣、里見氏の拠点久留里城を攻めるため三船台に布陣。
里見勢の先制攻撃に敗れる。太田氏資等戦死。
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・宇喜多直家弟忠家9千、備中佐井田城(植木秀長)を攻略。
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・トスカナ大公コジモ、邪魔になったエレオノーラ・デッリ・アルビッツィを、死闘で入獄中のカルロ・デ・バンチャティキと釈放を前提に結婚させる。
カルロは騎士に、エレオノーラの子はコジモが認知。
1577年エレオノーラは夫より姦通のため修道院入り強制、1634/5/19修道院にて没。
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8月1日
美濃3人衆(稲葉伊予守一鉄良通・氏家卜全直元・安藤伊賀守守就)、信長に内通、人質供出を申し出。
信長はこれを承諾、村井貞勝・島田秀順が人質受領に西美濃へ赴く。
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8月2日
・筒井順慶軍、大黒尾方へ出撃するも成果無し。
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8月3日
伊達政宗、米沢城主伊達輝宗の長男として誕生。母は山形城主最上義守の娘、義姫。
幼名梵天丸。幼少の頃、疱瘡(天然痘)を煩い、右目を失う。
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8月8日
・スペイン王フェリペ2世、低地地方の新教勢力を一掃、中央集権化のため軍隊1万と執政に匹敵する権限をアルバ公に与え、低地地方に派遣。
この日、アルバ公フェルディナンド(60)がネーデルランドに到着。
22日、総督アルバ公はフランドル、ブラバントの各都市に軍を進駐。
兵2万を動員しネーデルランドの反乱者の弾圧開始。ホールネ伯やエグモント伯などの高級貴族も逮捕。
「血の法廷(血の評議会)」(騒擾の鎮圧を理由に全ての州・都市の憲法・特権を無視)と呼ばれる騒乱裁判会議を開催。
5年間に6千~8千人処刑。
10万人がイギリスやドイツに亡命、抵抗運動を開始。
1568年6月エグモント伯、ホールネ伯処刑。オラニエ公ウィレム1世はドイツに亡命。
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8月12日
・朝廷、三好長逸のルイス・フロイス京都還住奏請を却下。
「日向(三好長逸)、篠原(長房)、下野(三好政康)がバテレンの(京都復帰)ことで了解を求めてくるが許可しないと返事した」(「御湯殿上日記」)。
強硬な反対者は竹内季治・秀勝兄弟、朝山日乗(弘治元年(1555)閏10月頃、上人号授与)、万里小路惟房。
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8月14日
稲葉山城陥落
信長、1日の美濃3人衆内通の報を聞き、人質が到着する前に直ちに美濃攻め進発。
稲葉山の尾根続きの瑞龍寺山を占領。
次いで、稲葉山麓の城下町井ノ口に侵攻、町に放火。
部将たちには、稲葉山城の周辺に鹿垣(ししがき)を廻らせ包囲戦に入る。
城主齋藤龍興は城を捨て舟で長良川を逃亡、伊勢路に向う。
信長は稲葉山城を岐阜城と改め、居城を小牧城よりここに移す。


稲葉山城攻略戦は「信長公記」などの資料には書かれておらず、舞台編成など詳細不明。


八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつづきにて候間、舟にて川内長島へ竜興退散」(「信長公記」)

一、八月朔日、美濃三人衆、稲葉伊予守・氏家卜全・安東伊賀守申合せ候て、信長公へ御身方(味方)に参るべきの間、人質を御請取り候へと申越し候」(『信長公記』)
(美濃三人衆が投降し、村井貞勝・島田秀順が人質受け取りのために派遣されるが、人質の到着前に、信長は出陣命令を下す。)

信長は禅僧沢彦宗恩に井口の新しい名称を考案させ、沢彦は岐山・岐陽・岐阜を候補とする。信長は岐阜を選ぶ。
岐阜の地名(これら漢語の地名)は禅僧達が以前より雅称として稲葉山周辺の土地に付けられている。

信長はこれを機に「天下布武」の印判を使用。尾張・美濃を制圧し、全国制覇に乗出す意欲示す。
那古屋~清洲~小牧~岐阜へと、京都に接近する方向に本城を移す。

「川内長島へ竜興退散」:
一向宗の一大策源地長島への竜輿の亡命(一向衆の竜興擁護)。

織田勢が、尾張南部の「国わき」勝幡・那古野・古渡・末盛から清須・小牧山・犬山・松倉へと北部木曾川中流域の「国なか」へ勢力拡大し、一国領域化を進めつつ、美濃の斎藤氏への攻撃を強化する過程は、同時に、尾・濃両国に深く展開する一向衆との対立激化の過程を伴う。

○信長の美濃攻めの経緯
①永禄4年(1561)5月13日(義龍没の翌々日)
美濃に出動し、森辺(岐阜県安八郡安八町)で、また23日、十四条(じゆうしじよう)・かるみ(軽海、岐阜県本巣郡真正町)で戦う。

②永禄6年(1563)
従兄弟の犬山城城主織田信清(斎藤方)に対抗して、居城を清洲から小牧山に移す。
このため、小牧山から20町ほどの於久地城(小口城、丹羽郡大口町)の敵は、城を明け渡して犬山城に退く。

③犬山城の対岸(木曾川北岸)に宇留摩(うるま)城(鵜沼城)と猿はみ城(猿啄城、加茂郡坂祝町)、その5里奥に加治田城(加茂郡富加町)があり、加治田城城主佐藤紀伊守父子が信長に内通してくる。」信長は、「内々国の内に荷担の者、所望に思食(おぼしめす)折節(おりふし)の事なれば」非常に悦び、兵粮代黄金50枚を贈る。

④犬山城家老で黒田城(葉栗郡木曾川町)主和田新介と、於久地城主中嶋豊後守が信長に内通し、城内に織田軍を引き入れる。
永禄8年(1565)7月頃、犬山城は落ち、織田信清は甲州に逃れる。

⑤美濃に出動し、宇留摩城の近くの伊木(いぎ)山に着陣。宇留摩城は開城。

⑥猿はみ城の上の大ぼて山から水の手(水源)を占拠すると、猿はみ城は降参し、兵は退去。

⑦斎藤軍の長井隼人正が、加治田城の近くの堂洞(美濃加茂市)に砦を構え、関(関市)に本陣をおくが、永禄8年(1565)9月、信長は堂洞城を落とす。
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8月17日
・今川氏真、甲相駿3国同盟破棄を決めた武田信玄への報復として、駿東郡の葛山氏に命じて甲斐への塩荷を止める。
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中旬
・信長、自身が軍を率い伊勢に出陣、長島を放火、高岡城(鈴鹿市)を包囲。
滝川一益に北伊勢衆を付けて押えとし岐阜へ引上げる。

尾張を旅行中の連歌師里村紹巴の紀行『富士見道記』。
「(永禄十年八月中旬)長島一向念仏坊主城敗(成敗)に尾州大守(信長)出陣なれば」
「(同月十八日)夜半過、西を見れば、長島をひ(追い)おとされ、放火の光夥しく、白日のごとくなれば」

寛永期(1624~1644)に成立した『勢州軍記』に、
永禄10年8月、信長が桑名表に出張し、北伊勢の諸城を攻めたが、美濃三人衆の心変わりの噂を聞き、岐阜城に帰陣したとの記事あり。
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8月23日
・ポルトガル船、長崎に来航。
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8月25日
・北条氏政、細川藤孝へ、上杉氏・北条氏・甲斐武田氏の和睦を承諾。また武田信玄への足利義秋下知を要請(「上杉家文書」)。
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8月25日
・飯盛城の松山安芸守、松永久秀方に寝返る。
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8月26日
・岩成友通(「石成」)・中村某、軍勢2千ほどを率い河内へ軍事行動。
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