2011年11月26日土曜日

昭和16年(1941)11月19日 「余は拙作の獨逸人に讀まるゝことを好まざれば・・・。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 北の丸公園(2011-11-25)
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昭和16年(1941)
11月19日
十一月十九日。雨歇みてはまた降る。
国際文化振興會黒田清といふ人より Oscar Beur なる獨逸人拙作小説おもかげを獨逸語に翻訳したき趣につき是非とも承諾すべしと言越しぬ。
余は拙作の獨逸人に讀まるゝことを好まざれば体よく避けて断ることになしぬ
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11月20日
・十一月二十日。空晴れず温暖春の如し。
午後淺草に至る。オペラ館の踊子二三人と公園を歩む。
今夜十二時より二の酉といふに松喜其外の牛肉屋は品切れにて休みなり。
汁粉屋梅園には珍らしく田舎汁粉ありしが客一人に一椀ヅゝおかはりはせず
暮方より雨ふり出したれば家にかへる。
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11月21日
十一月廿一日。朝より雨ふりつゞきたり。
酉の市にも行難ければ家に在りて早く寝に就く。
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11月22日
十一月廿二日。雨。午後に晴る。
夜漫歩淺草に至りて飯す。
オペラ館に至るに此頃吉本興行部より転じてオペラ館踊子となりしものあり。市兵衛町一丁目西班牙公使館下のアパートに住めりと云ふに歸途同じければ共に歸る。
芝口にて市電に乗換する時曾て玉の井に居たる女に逢ふ。銀座裏ヱトワルの女給になれる由名刺を出せり。此夜は何やら意外なる事に遭遇したるが如き心地しぬ。
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11月23日
十一月廿三日。晝晴れて夜雨。
銀座通食料品店の店先に其筋よりの御注意により行列しないで下さいと云ふ貼紙を出したり。
この日日曜日なるに松喜食堂その外灯を治し戸をしめたるもあり。
蕎麦屋にも饂飩なき由
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11月24日
十一月廿四日。今日も暮方より雨ふる。丁度七ツ下りなれば容易には晴れざるべし。土州橋よ上野に出で揚出しに飰す。
床の間に酉の市の熊手を描きたる掛物淡彩にて趣あれば画家の名を見むとせしが遠くして明ならず。画贊に、
おもしろと神もほゝゑむ此酉は
千々のこがねもかきとりぬぺし   千浪
わが鄰の席に銀行などの門番かとも思はるゝ白髪の一老人あり。揚出しへ來るとわかい時の事を思出すよと酔ひながら若き男のつれ二人を相手に頻と角海老の事やら俄のはなしをなせり。
銀座通の食ひ物屋にては絶えて無き事なり。をかしきがまゝ
豆腐さへなき世の中を揚出しに
里のむかしをかたる生酔ひ
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11月25日
十一月廿五日。陰。去年十二月頃折々たづね來りし或會社の女事務員数日前本郷農科大学裏弥生館といふアパートより電話をかけ來ること再三なれば銀座に夕飯を喫して後行きて訪ふ。この頃は根岸また下谷池之端の待合へ出入する由語れり。
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11月26日
十一月廿六日。微邪。終日蓐中讀書。
拙著おもかげ獨逸人翻訳の事につき此の度は文藝會館といふ處より問合せ來れり。承諾せざる趣折返し返事す。
が作品も遂に獨人のねらふ處となりぬ。恐るべし悲しむべし
此日晴れてあたゝかなり。
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11月27日
・十一月廿七日。陰。夜淺草に至る。歸途雨。
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11月28日
十一月廿八日。暁明風雨。東南より襲來る。正午風歇みしが空霽れず。
鄰組のおかみさん手拭配給の切符を持來り來月三日頃銅鐡器具いよいよ御召上げになる由語りて去れり。
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11月30日
十一月三十日 日曜日 微邪。咳嗽甚し。
洗濯屋の男勘定を取りに來りて言ふ。鄰の酒屋の息子十七才徴用令にて既につれ行かれたり。二年間たゞ(ママ)ねば還れず、還ればつゞいて徴兵に行くなりと。
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この頃の戦争準備の状況はどうだったか?

11月18日
・午前8時、空母「赤城」他の機動部隊、佐伯湾を出航、択捉島単冠湾に向かう。19日昼過ぎ、東京のはるか南を通過。22日、単冠湾入り。

・マレー半島上陸援護に関する陸海軍協定完了。第25軍山下奉文中将、南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将、第3飛行集団長菅原道大中将。

・衆議院、安達謙蔵ほか101名提出の「国策遂行ニ関スル決議案」を全会一致で可決。
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11月20日
・南方軍、南方要域攻略命令(南総作命甲第2号)を下達。
東京で第25軍隷下第18師団の一部をもって川口支隊(支隊長川口清健陸軍少将)を編成。
開戦の場合は集合点(カムラン湾)を出発し、先ずミリ、セリアを占領、資源要域並びに航空基地を確保、速やかにクチン付近飛行場占領の任務を与える。

・マレー部隊、作戦命令第1号(マレー作戦)を発令、海南島三亜港へ向かう。
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11月21日
・大本営、大海令第5号を発令。連合艦隊、軍令作第5号で「第2開戦準備」を下令、各部隊は作戦準備地点へ進出待機。

・大本営、支那派遣軍に在支敵国権益の処理準備と武力行使の場合の要領を指示。

・大本営、呉鎮守府と大阪警備府に大海令第8号を発令。

・第14軍(本間雅晴)、台北で南方軍作戦主任参謀より比島攻略の南方軍命令(南総作命甲第2号と密封の南総作命甲第5号)を受領。この日から兵団長を招致し作戦会議(~27日)。台北。

・南洋部隊、機密作戦命令(グアム、ウェーク、ギルバート島攻略)下命。    

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アメリカ側の最後通牒と謂われる「ハル・ノート」の着電は11月27日。
その前の周到な戦争準備の状況である。

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この頃の中野重治の日記

「一九四一年十一月一日 町へ金策その他に出かける。うまく行かず。原、卯女、静公三人で池袋へ行く。夕方かえって来ても誰もいず、メシなし。ソバ屋その他みな駄目。牛乳を二合のみ、塩ジャケを一切食い、骨を(飼犬の)チャイにやり、雨戸をしめ、支那そばや、すし屋をさがしても駄目、フンゼン電車で三軒茶屋に行き、支那めしを食う。まずくて高し」

「十一月八日、茂吉ノオト整理すすまず」

「十一月九日、アメリカとの関係、原稿整理を急がしむるものの如し」

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