2011年11月7日月曜日

延暦22年(803)~延暦23年(804)6月 坂上田村麻呂、志波城造成開始し、翌年征夷大将軍に再任される。

京都 永観堂(2011-11-04)
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延暦22年(803)
2月
・菅野真道等によって編纂された『延暦交替式』施行。
国司交替制がマニュアル化される。
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3月
・この月、坂上田村麻呂は「造志波城使」として再び陸奥に赴任し、陸奥国斯波郡(岩手県盛岡市)に志波城の造営を開始(『日本紀略』)。

大同3年(808)までには多賀城から胆沢城に鎮守府が移され、胆沢・志波地域の支配拠点として10世紀まで機能するが、当初は胆沢城よりも志波城の方が重要な城柵であったとみられる。
発掘調査で判明した胆沢城の規模は一辺670mの正方形だが、志波城は一辺約840mという東北最大級の城柵である。
最北に位置する志波城が大きく造られたのは、この頃の律令国家が更なる北進策を計画していたからで、志波城造営完了の頃とみられる延暦23年正月には、坂上田村麻呂が再び征夷大将軍に任命され、桓武朝の第4次征討計画が始まる。

胆沢城・志波城の設置と同じ頃、出羽国の北部でも、東北最大規模の城柵が造られている。
地名から払田柵(ほつたのさく)跡(秋田県大仙市)と呼ばれる。
近年では第2次雄勝城とみる説が有力で、創建は外郭に使用された材木の年輪年代測定によって延暦20年頃と考えられている。
横手盆地の南にあった天平宝字創建の第1次雄勝城(遺跡不明)を、胆沢城・志波城の造営に合わせて北に移転させ、東西1,370m、南北780mという巨大な規模で造営。
当時の律令国家が更なる北進策をとっていたことを反映している。
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延暦23年(804)
1月19日
・この日、征夷のため、坂東の6ヶ国(武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野)と陸奥国に命じて、糒1万4,315五斛・米9,685斛を陸奥国小田郡中山柵に運ばせる(『日本後紀』)。
中山柵の場所は不明(この頃の小田郡は登米郡を併合しているので、もともと登米郡にあった城柵か)。
軍粮計2万4千斛は、第2次征討で準備した26万斛の1割にも満たない。
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1月28日
・この日、刑部卿陸奥出羽按察使坂上田村麻呂を再び征夷大将軍に任じ、副将軍3人(百済王教雲、出羽守佐伯社屋、鎮守軍監道嶋御楯)、軍監8人、軍曹24人を任命(『日本後紀』)。
但し、田村麻呂は、陸奥に赴任せず平安京周辺に留まっている。
しかしこの第4次征討は、その後さしたる動きもないまま、翌年12月の徳政相論によって、造都とともに中止される

延暦23年正月~桓武没の『日本後紀』巻21・22は完存しており、関連史料の少なさは、実際に征夷の準備が進展しなかったことを物語る。
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3月
遣唐大使藤原葛野麻呂に節刀を授ける。
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6月
・越中国を置き上国とする。
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