2011年11月23日水曜日

弘仁2年(811)7月~12月 弘仁2年の征夷終る 「賊を以て賊を伐つ」 蝦夷との38年戦争終結

東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-16
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弘仁2年(811)
7月4日
・征夷の準備が遅れる中で、この日、文室綿麻呂らは、俘軍1千人を吉弥侯部於夜志閇(きみこべのおやしべ)らに委ねて弊伊村を討つこと、弊伊村の蝦夷は人数が非常に多いので、さらに陸奥・出羽両国の俘軍各1千人を発して、来たる8・9月に前後左右から攻撃することを表明。
爾薩体村に向けた俘軍は300人であったが、弊伊村に対してはその10倍の俘軍を動員しようとしている。
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7月14日
・嵯峨天皇、この日の勅で、副将軍および両国司と再三評議して、その結果を奏上するよう指示(『日本後紀』弘仁2年7月丙午条)。
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7月29日
・この日、出羽国が言上し政府の許可を得る。
「賊を以て賊を伐つ」という。

「邑良志閇(おらしべ)村の降俘(帰降した俘囚)吉弥侯部都留岐(きみこべのつるぎ)が、「自分たちは爾薩体村の夷の伊加古(いかこ)らと、久しく敵対関係にあります。今、伊加古らは、軍隊を整えて都母(つも)村におり、弊伊村の夷を誘って、まさに自分たちを伐とうとしています。そこで兵粮の支給を請い、先手を打って襲撃したいと思います」と申しています。我々が考えるには、賊を以て賊を伐つことは軍国の利です。そこで米一〇〇石を支給して、その心を励ましたいと思います。」(『日本後紀』弘仁2年7月辛酉条)

邑良志閇村の位置は不明だが、爾薩体村と敵対関係にあり、都母村が坪の地名がある青森県上北郡七戸町付近とみられることなどから、岩手県二戸市浄法寺町あたりと推定される。

爾薩体村の伊加古が都母村にいるのは、この年の春に出羽守大伴今人が率いる俘軍に攻められ、敗れたため。
邑良志閇村の吉弥侯部都留岐は、以前から伊加古と敵対関係にあったというから、この奇襲作戦に参加した「勇敢なる俘囚三百余人」の中に、都留岐の部隊も含まれていた可能性が高い。
一方、敗れた伊加古は、弊伊村の蝦夷と結んで再起を図ろうとしていたので、都留岐は出羽国に兵粮の援助を求め、国家側もその武力を利用しようとした。

蝦夷集団は、相互に敵対・同盟関係を持っており、これを巧みに利用して「賊を以て賊を伐つ」ことが上策とされていた。
しかし各々の蝦夷集団と国家との関係も安定していたわけではない。
7月4日の上奏で、綿麻呂が俘軍1千人を委ねて弊伊村を討たせようとした吉弥侯部於夜志閇は、征夷終結後の弘仁8年(817)9月に反乱を起こし、同族61人とともに捕らえられている(『類聚国史』巻190)。
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9月22日
・征夷将軍文室綿麻呂は、征夷軍を4方面に分けたところ、輜重兵が足りなくなったので、陸奥国の軍士1,100人を追加徴発することを天皇に申請。10月4日付で許可。
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10月5日
・征夷将軍文室綿麻呂は、突如として戦勝報告を提出。

「征夷将軍参議正四位上行大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂等に勅して曰く、「今月五日の奏状を省るに、斬獲稍(やや)多くして、帰降少なからず。将軍の経略、士卒の戦功、此において知りぬ。その蝦夷は、請に依りて須(すべから)く中国に移配すべし。唯し俘囚は、便宜を思ひ量りて、当土に安置せよ。勉めて教喩を加へ、騒擾を致さしむることなかれ。また新獲の夷は、将軍らの奏に依りて、宜しく早やかに進上すべし。但し人数巨多にして、路次報ひ難し。その強壮なる者は歩行し、羸弱(るいじやく)なる者には馬を給へ」と。」(『日本後紀』弘仁2年10月甲戌(13日)条)

「新獲の夷」は交戦中に捕虜となり、戦勝の証拠として天皇に献上される蝦夷。
「蝦夷」は帰降の作法に従って自主的に投降した蝦夷とみられ、彼らは「中国」(一般諸国)に移配される。
当国に留め置かれる「俘囚」は、「塞下の俘」「降俘」など、以前から国家側に従っていた蝦夷で、しばしば騒擾を起こしたため、綿麻呂がその措置について政府の判断を求めたと推定される。

弘仁2年の征夷においても、「人数巨多」と言われるほどの多数の蝦夷が中央に進上され、あるいは諸国に移配された。
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12月
・この月、新羅からのものと思われる漂着船20数隻が対馬西海上に出現し、恐怖に駆られた日本側は海賊と認定し、上陸した数人を殺してしまう(『日本後紀』)。
時に海峡の向こうで、毎夜火光が見えたという。神経過敏な反応ではあるが、この年8月、新羅から漂着した人々が、海上で海賊に襲われた由を告げたという背景もある。
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12月13日
・嵯峨天皇、征夷将軍の正四位上文室綿麻呂に従三位、副将軍の従五位下佐伯耳麻呂に正五位下、従五位下大伴今人・坂上鷹養に従五位上、外従五位下物部匝瑳足継に外従五位上を授ける。

その詔の中で、嵯峨天皇は、今回の征夷が延暦13年(794)の大伴弟麻呂らの征夷、延暦20年の坂上田村麻呂らの征夷を受け継いで行われたと述べる(「日本後紀』)。
綿麻呂の征夷は、桓武朝の征夷を補完するものと位置づけられていた。
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閏12月11日
・征夷将軍文室綿麻呂、「今官軍一挙して、寇賊遣るもの無し」と述べ、陸奥国の鎮兵3,800人を段階的に1千人にまで削減し、軍団兵士を4団4千人から2団2千人に削減するという大幅な軍備縮小実施を申請。

そして、「宝亀五年より、当年に至るまで、惣べて卅八歳、辺寇屡動き、警口絶ゆることなし」と述べ、38年間に及ぶ征夷の時代が終わったことを宣言(『日本後紀』弘仁2年閏12月辛丑条)。
38年戦争の終結
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閏12月11日
・陸奥国の民衆に対して4年間の課役が免除
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閏12月19日
・出羽国の民衆に対して3年間の課役が免除
征夷終結、大幅軍備縮小により、陸奥・出羽の民衆の負担軽減が図られる。
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