2011年11月25日金曜日

明治36年(1903)7月1日~12日 山県・桂の伊藤博文棚上げの陰謀 伊藤は政友会総裁辞任し枢密院議長就任

東京 北の丸公園(2011-11-22)
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明治36年(1903)
7月1日
・チタ~ウラジオストック間の東清鉄道開通、全線開通。接続するシベリア鉄道はペテルブルク~ウラジオストク全線開通。
また、東清鉄道は、満州里~ハルビン~奉天~大連~旅順の全線が開通。
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7月1日
・啄木(17)、「ほほけては藪かげめぐる啄木鳥のみにくきがごと我は痩せにき」(『明星』卯歳第7号、4首の中の1首)。
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7月1日
・トゥール・ド・フランス第1回大会。フランス一周自転車レース。
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7月2日
・ロシア旅順口会議。~11日。
陸相クロパトキンら極東関係者(関東長官アレキセーエフ中将、太平洋艦隊司令官スタルク中将、宮廷顧問官ベゾブラゾフら)。
ニコライ2世の意図は、極東での事業が日露開戦の口実を与えないようにすること。
「東亜木材会社」関連の全将校の引揚げを指示。
民営性徹底のため、鳳凰城の部隊と龍岩里の武器の撤収を命令。
13日クロパトキン陸相、旅順口発。
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7月2日
山県・松方元老、伊藤の枢相祀り上げ上奏
天皇に対し、桂内閣の退陣は不可、伊藤が元老で政党党首であることが国政に悪影響あり、「速やかにこれを政党より抜きて廟堂の要路に立たしめ」る必要ありと述べる
。天皇は、政党に不信あるものの、伊藤の失脚を意味する枢密院議長祀り上げには躊躇。
徳大寺実則侍従長も説得、3日には天皇もこれを決意。
伊藤の幕僚伊東巳代治もこれに絡むが、伊藤はこの事実を知らず。
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7月2日
・伊東は伊藤に対し、天皇が桂を慰留し、これを山県・松方から伝達した模様とのみ報告。山県・松方の上奏には触れず。
3日には、桂が伊藤を訪問。天皇に慰留されたのでしばらく葉山で静養すると述べる。
伊藤はこの日、伊東に「別後首相来訪、談笑の中百疑氷釈、快然の至りに候。この上は井伯、陸相(寺内)をも煩わすの必要これあるまじきかと存じ候」と書き送る。
伊藤は、桂が辞意を撤回したと見た。      

7月7日付け伊東巳代治の山縣有朋宛手紙。
「例の一件に付きては容易ならざる御厚配感佩(かんぱい)の外これなく候。その後の御操様御伺いかたがた今夕拝趨仕りたくと存じ奉り供えども、昨朝より深更まで御妨げ申し上げ候儀に付き、今夕は引き控え申し候。・・・もっとも閣下に御面話を得候までは、伊藤侯を御訪問申し上げざる愚意に御坐候。」
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7月3日
・林董駐英公使、日露交渉開始について英の諒解を求める。
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7月5日
・伊東巳代治は伊藤博文から翌日の召命について徳大寺侍従長に内々に尋ねるよう求められ、この日夜、「御用向は十の八九枢相の件なるべし」と報告。しかし伊東は、これは実現性が薄いとも答える。
伊藤は、伊東の使者に対して「多分厳命はなかるべし」と話している。
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7月6日
・伊藤博文、参内。
天皇は、対露交渉について諮問する機会も多くなるので枢密院議長に就任するよう内旨が下る。
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7月6日
・エミール・ルベ仏大統領、外相とロンドン訪問(~9)。英仏協商の交渉を開始
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7月7日
・英ヤングハズバンド大佐、遠征軍を率いてチベット侵入。
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7月7日
・天皇、伊藤元老に枢密院議長就任指示。
9日、徳大寺侍従長が勅書を手交。
10日、伊藤、松方・山県元老が枢密院顧問官になることを条件に、議長就任了解(松方・山県を道連れにする)。
現議長の西園寺公望に政友会総裁就任を要請、西園寺は承諾。


伊藤博文に政治の第1線での活動終る

山県・桂の陰謀
桂首相が辞表を提出、天皇には最高の相談役が必要との名目で、伊藤を枢密院議長に祭り上げ、政友会総裁辞任に追い込む、伊藤が総裁を辞任すれば政友会は自壊する考える。
天皇は、決断に迷うが、ロシアとの交渉が極めて重要で戦争に繋がる危険も迫る時期で、内閣が倒れ政治に混乱を生じさせる訳にはいかず、伊藤に枢密院議長就任を求める。
伊藤は、山県・桂の陰謀を察知して、西園寺枢密院議長に自らの就任可否について相談、西園寺は拒否を勧める。
翌日に西園寺から状況を聞いた政友会幹部原敬も同意見。
結局、伊藤は天皇の苦悩を察し、桂内閣が再び辞表を提出しないという条件で枢密院議長就任を内諾。
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7月7日
・幸徳秋水(「一兵卒」署名)「戦争論者に告ぐ」(「万朝報」)。職業軍人と徴兵された一般兵士の差別、不公平。      

戦争は、職業事人たちによって戦われるものではない。
戦争にかり出される兵士たちはプロレタリアの子弟である。
高等教育をうけたものは、様々な名目で兵役を免れており、徴兵をうけるのは貧乏人ばかりである。
その多くは一家の働きざかりである。
貧乏人は、兵役という貧乏クジを引くほかない社会の仕組は、不公平そのものである。
勇ましい開戦論を唱える学者たちは、危険な戦場へ行かない。

「わが輩、一兵卒、あに甘んじて富貴者流のために犬死するにしのびんや。
あえて一言して世の仁人に訴う。」  
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7月9日
・福井県、暴風雨の被害甚大。死者13人、床上浸水3400戸。
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7月11日
・日本、清国に対露強硬を勧告。
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7月11日
・京都平安紡績の職工、積立保信金・未払給料を要求して暴動。~24日。
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7月11日
・甲府の草薙社製糸女工900人、監督の排斥と賃下げ反対を掲げてストライキ(妥結)。
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7月12日
・伊藤元老、枢密院議長就任上奏。
13日、枢密院議長就任就任。
14日、政友会総裁更迭(伊藤博文から西園寺公望へ)。

15日、西園寺は政友会在京議員総会で総裁就任演説。
①「私は私の力の有らん限りの勇を奮い、私の有らん限りの智恵を尽して之を本会に捧げ」る、
②いわゆる「策略」などということは時代遅れであり、かつ私はそういうことのできる人間ではない、と抱負を述べる。

この時、旧自由党系実力者星亨(前逓信大臣)は1901年6月暗殺されており、政友会総裁を支える最高幹部は、原敬(前逓信大臣、陸奥宗光の腹心)と西園寺のフランス留学時代の友人松田正久(前蔵相、旧自由党系)の2人の常務委員で、なかでも原敬が実権を掌握。

原は、伊藤系官僚として政友会に入党したが、凡帳面さと官僚として鍛えた予算作成などの実務能力を生かし、旧自由党系等の党人派の求める鉄道建設要求などを支持し、伊藤総裁との媒介役を果たすことで、党の実権を掌握。
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