2011年11月19日土曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(6-2) 「五 三味線の聞える町- 築地界隈」

東京 北の丸公園(2011-11-18)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(6-2) 
「五 三味線の聞える町- 築地界隈」

川のある下町・築地の「風雅」を賞讃する記述。
この時代の銀座から築地にかけては、堀割が縦横に走る「水の東京」。
いたるところに「水景」があった。

大正7年10月2日
「雨歇む。久しく見ざりし築地の朝景色に興を催し、漫歩木挽町を過ぎて家に帰る」

大正7年12月25日
「終日老婆しんと共に家具を安排し、夕刻銀座を歩む。雪また降り来れり。路地裏の夜の雪亦風趣なきにあらず」

大正8年1月7日
「林檎麺麭其他食料品を購はむとて、夕刻銀座に往く。三十間堀河岸通の夕照甚佳なり」

大正8年4月4日
「夜寒からず。漫歩佃の渡し場に至り河口の夜景を観る」

大正8年4月19日
「八丁堀を歩みて夜肆(よみせ)を見る。この邊建具屋簾屋など多し。小夜ふけし裏町に簾を編む機杼(キチヨ)の響のいそがしく聞ゆるさま、春去りて夏ちかくなりたる心地更に深く、山の手の屋敷町にては味ひがきき(ママ)趣きなり」

大正8年7月12日
「夜銀座通草市にて花月楼主人に逢ひぶらんたん亭に小酌す」

随筆「きのふの淵」(昭和10年)。
そのころ三十間堀沿いにあった茶屋の昔気質の主人の思い出。
「花瓶」の日本画家・燕雨が、夜、築地を歩きながら、美しい水景に心を奪われる。
そのまま当時の荷風の思いだろう。
山の手には見られない、ゆらぐような幻想的な風景に荷風は魅せられていく。

大正8年7月21日
「浅草代地河岸稲垣にて清元香風会さらひあり。楼上より百本杭を望む水上の景、甚よし」

大正8年8月7日
「半輪の月佳なり。明石町溝渠の景北壽が浮絵を見るが如し」

大正8年8月10日
「暁涼水の如し。明石町佃の渡場に往きて月を観る」

大正8年8月11日
「今宵も月明かにして、涼風吹きて絶えず。東京の夏は路地裏に在りても涼味此の如し。避暑地の旅館に往きて金つかふ人の気が知れぬなり」

しかし、
「・・・定型化されすぎている。」(川本)

「あまりに出来すぎている「風雅」である。
・・・荷風は、おそらく現実の下町の風景を見ているというより、自分の頭のなかの「江戸」「東京名所」という既成のイメージで下町を見ている。
いわばそれは、本当の風景というより見立ての風景である。」(川本)

「・・・荷風は、目の前のここにある風景を見ながら、実は、ここにはない風景を見ようとした。
その意味では荷風は幻視者だった。
その幻視は、のちに「濹東綺譚」で頂点に達する。
実際には、汚れた私娼の町が、荷風の目には、江戸情趣を残した風雅な町に見える。
見えるように意識的に仮構する。」(川本)

「その幻視の方法」(川本)。

大正8年10月8日
「仲秋の月よし。明石町海岸を歩む。去年の仲秋は九月十九日にて同じく晴れたり。両年つゞいて良夜に逢ふ。珍らしきことなり」

大正8年10月18日
「毎日薄暮水上の景を見むとて明石町の海岸通を歩む」

神田一ツ橋通町の高等師範学校附属学校尋常中学科の学生のころ(明治20年代なかば)、荷風は大川(隅田川)の本所御舟蔵の岸に近い浮州にあった神伝流という水練場で泳ぎを覚え、大川をよく泳いだ。
随筆「夏の町」(明治43年)にそのころの思い出が書かれている。

「斯る少年時代の感化によって、自分は一生涯たとへ如何なる激しい新思想の襲来を受けても、恐らく江戸文学を離れて隅田川なる自然の風景に対する事は出来ないであらう」

「荷風は、目の前に隅田川を見るとき決まって江戸文学を通して見ている。
目の前にあるものを、もはやないものを通して見ようとしている。」(川本)

明治なかば、隅田川沿いにはすでに工場があった。
しかし、荷風の目はその「黒煙を吐く煉瓦づくりの製造場」には向かわず、失なわれた「人情本」のほうに向かっていく。
「いかに自然主義が其の理論を強ひたにしても、自分だけには現在あるが儘に隅田川を見よと云ふ事は不可能である」

「荷風は、現在の目ではなく過去の目で東京を見る。
明治の目ではなく江戸の目で隅田川を見る。
ここにない風景を見ようとする。
この風景観がのちに「濹東綺譚」に結実する。
荷風はそこで、現実の玉の井の向こうに幻影の江戸を見ようとする。」(川本)

成瀬正勝「荷風と『やつし』」。
「明治二、三十年代の小説は、山の手を描写するのに琴の音を聞かせたが、下町には三味線の撥(ばち)の音を忘れなかった。・・・」

近藤富枝『永井荷風文がたみ ほろびし東京の歌』。
「荷風はどその作品や随筆の中に、三味線音楽をとりあげた作家は、これまでにないと思われる。
ことに初期の作品には、時としては一篇のテーマともなって三味線の音が登場する」

芝居見物。
歌舞伎座、新富座(中央区新富2丁目。現、京橋税務署のあるところ)、市村座(浅草猿若町。現、浅草6丁目)、帝国劇場。

大正6年12月9日
「正午新福主人来訪。本日帝国劇場。松莚君連中見物の当日なればとてわざわざさそひに来られしなり。久振りの芝居見物興なきにあらず」

大正7年2月8日
「午後歌舞伎座に立寄る。延壽太夫父子吉野山出語あればなり」

大正7年10月13日
「新富町の妓両三人を携へて新富座を見る」

大正8年4月9日
「午後市村座に赴き梅吉等清元連中出語の保名を聞く。踊は菊五郎なり」

大正8年6月3日
「昨日(ママ)柹紅子の依轍に應じ、玄文社新演藝観劇会評会のため帝国劇場に赴き、梅幸が合邦が辻を看る」

大正8年6月5日
「未梅雨に人らざるに烟雨空濛たり。玄文社合評会歌舞伎座見物」

大正8年7月7日
「夜新富座に往き岡本綺堂君作雨夜の曲を観る」

他にも、大正8年10月30日帝国劇場、大正9年3月23日新富座、大正9年5月16日帝国劇場に出かけている。

談話「十七八の頃」(明治43)で、十代のころから演劇に興味を持ったことを語っている。
山の手の明治エリートの厳格な家庭に育った荷風には、歌舞伎の世界は、明治の実用主義に対する風雅な抵抗の場に思えたのだろうし、江戸の文化の最後の名残りに思えたのだろう。

結局は荷風は山の手の子だった。」(川本)

築地に移り住んだ2年後の大正9年5月には山の手の麻布市兵衛町へ引越し、山の手へ帰って行く。

成瀬正勝。
「彼は築地川のほとりに、下町の人になりきるかのように隠れ忍んでいた。
もし彼が下町の子であり、その江戸的情趣が産衣のように纏わり付いているものであったならば、恐らくはその人は死なずともその文学はここで死に直面したであろう。
しかし荷風は突如身をひるがえして麻布なる山の手へ、椅子と葡萄酒と洋酒と、爾来身に襯衣を放さぬ洋装痩躯の姿をあらわしたのであった。
ここに我々はまざれもなくその青春期に欧州的知性に触れて人間形成を遂げたところの山の手の子の冷やかな相貌を読みとるのである」

「荷風は、下町を愛しながらついに下町の子になり切れなかった
その断念は、荷風のなかに自身の二重性、矛盾、不安を強く意識させた筈である
そこから荷風の沈黙と、その先にようやく作品として結実する(「濹東綺譚」)長い熟成期が生まれた。
下町での生活を断念したところに、荷風の新しい文学が生まれていく---。」(川本)
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荷風が何故、下町の生活から逃走したかは、次章「六 下町のうっとうしさ」で述べられる。
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