2011年11月28日月曜日

弘仁6年(815) 空海、内供奉十禅師となる 蝦夷との交易緩和



*
弘仁5年(815)
この年
・この年、国司任期が4年に戻される。
*
・この年、空海(42)は、内供奉十禅師(ないぐぶじゆうぜんじ)に任じられ、宮中に密教を持ち込む一方で、主に関東地方の僧侶への真言密教流布を展開。
しかし、東国は最澄の教練が伸びていたところであり、最澄と空海との対立関係が先鋭化する。
*
・この年、最澄は北九州に赴き、諸所で法華経を講じ、新宗布教活動を展開。
*
1月10日
・空海(42)、陸奥守として赴任する小野岑守へ餞別の詩を贈る(『野の陸州に贈る歌ならびに序』)。
*
3月20日
蝦夷との交易について軍用馬の取引だけが禁止となる。  

国司の私的交易を禁ずる法令は、延暦6年以後出されておらず、9世紀には王臣家・富豪層の交易だけが規制の対象となり、この年以後は軍用馬の持ち出しだけが禁止されるようになる(弘仁6年3月20日太政官符、貞観3年3月25日太政官符)。

国司の交易は事実上容認され、征夷終焉によって交易の対価が蝦夷側に渡ることも利敵行為と見なされなくなった。
軍用馬持ち出し禁止の法令には、「但し駄馬は禁ずる限りにあらず」という但し書きがあり、駄馬と称して良馬を買うこともできる。

元慶の乱を描いた三善清行『藤原保則伝』にも、秋田城司の良岑近(よしみねのちかし)が秋田城下の蝦夷に対して搾取を行い、「権門の子」が「善馬・良鷹」を求めて出羽に集まる様子が描かれている。

中央の皇族・貴族は、蝦夷の特産物を欲していた。
*
7月
・この月、嵯峨天皇の夫人橘嘉智子が皇后に立てられる。

嵯峨天皇の意向が正良(まさよし)親王(後の仁明天皇)の立太子にあることが明示され、皇太子大伴(後の淳和天皇)は、非常に危険な立場に立たされることになる。  
*
8月23日
・陸奥国で鎮兵が全廃。
代わりに健士(こんし)という勲位者からなる新たな兵制が発足(『類聚三代格』巻18)。
同時に陸奥国の軍団は6団6千人に戻る。

出羽国では、9世紀を通じて兵士1千人・鎮兵650人が定数であったが、実際には定数は満たされておらず、元慶の乱の頃には、兵士・鎮兵が1人もいない状態であったという(『日本三代実録』元慶3年(879)3月2日壬辰条)。

これらの事実は、綿麻呂の征夷終結宣吉が実質的な意味を持っていたことを示す。
東北最大規模の払田柵(第2次雄勝城)も、西暦850年頃には外側の外柵がなくなり、内側の外郭線だけに囲まれる小規模な城柵に変化している。
*
*

0 件のコメント: