2011年11月14日月曜日

大同元年(806)閏6月~11月 空海、遣唐使から帰国。 平城天皇の土地問題改革法令。

東京 雨の北の丸公園(2011-11-11)
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大同元年(806)
閏6月8日
王臣寺家の山野占有を禁ずる

この日付け格(法令)で、平城とその政府は、「勅旨並びに寺王臣百姓等」の占めるところの「山川海嶋浜野」などをことごとく公収すべきこと、また違反者にたいしては、延暦17年(798)12月の格で規定した刑の厳格な適用を天下に命令。

山陽道観察使藤原園人(そのひと)の建議による。
園人は、

「山海の利は公私公(とも)にすべし。しかるに勢家もつぱら点して(おさえて)、百姓の活を絶ち、愚吏阿容(こびへつらう)して敢えて諫止(かんし)せず、頑民の亡(患)この甚しきに過ぐるなし」

と論じ、これらの不正をいっさい停止することを要望した。

この意見を採択した平城とその政府は、園人が「勢家」をとりあげたのを、勅旨開田から「百姓」(富裕農民)に至るまでの、土地占拠に狂奔してきた諸層を具体的に捉え、また園人が「山海の利」と言うのえお「山川海嶋浜野」というように具体的に指摘している。

園人の父楓麻呂(かえでまろ)は天平宝字2年(758)に西海道問民苦使に任ぜられ、8ヶ月弱の活動のなかで「民の疾苦二十九件を探訪」している。
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7月
・この月の平城天皇の布告
「勅す、今聞く、畿内の勅旨田或いは公水を分用して、新に開発を得、或いは、塉地(やせじ)を墾して遂いに良田に換う。加うるに、言を勅旨に託して遂いに私田を開く。宜しく使を遣わして勘察すべし。若し王臣家この類あらば亦宜しく同じく検すべし」

勅旨田が優勢者によって占拠されつつある実状を暴露し、その傾向を阻止しようとする。
先の閏6月の格に連なるもの。
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8月
・唐に残っていた空海、この月、たまたま帰国がやや遅れていた遣唐判官高階遠成(とおなり)の船に同乗して、橘逸勢と共に帰国。
空海は入唐留学僧であるから、20年間程度は唐に留まって勉学するはずであったが、恵果という密教の巨人からすべての奥義を伝授された今となっては、一刻も早く祖国へ帰りたかったはずである。  
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・平城の政府は、畿内と七道諸国の寺院内部にたえず紛争を起している土地そのほかの問題に関して格(法令)を出す。

①畿内諸寺について、檀越(だんおち、檀家)の中から仏法に熱心なものを選んで管理に当たらせることとする(「王臣勢家」の支配・介入を排除のため)、

②七道諸国の諸寺の檀越らに対し、寺田を耕営し寺の銭物を私に転用することを禁止する。    
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10月
・空海、帰朝。直ちに上京せず九州に止住。
のち、平城天皇の勅によって入京し、数年間、和泉国槙尾山に滞在。

平城の次の嵯峨天皇は、最澄を厚遇するが、空海には遙に親近撼を示す。
空海は、嵯峨の大家父長制の周辺に権栄の位置を占めた。
彼は、その優れた詩文また筆墨によって、天皇の懐に入り、貴顕の社会を派手に遊び泳ぐ。
以降の彼の目覚しい活動は、その多才と俗物性によるものである。
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・移配蝦夷を防人とした確実な初例
近江国にいる夷俘640人を大宰府に遷して防人とすることを命じる。

「駈使・勘当(処罰)、平民(公民)に同じくすることなかれ。情を量りて宜しきに随ひ、野心に忤(さから)はざれ」(『類聚国史』巻190大同元年十月壬戌条)とあり、夷俘を使役するにあたって細心の注意を払うよう指示。

また「禄物・衣服・公粮・口田の類、男女を問わず、一に前格に依れ」と指示。
延暦17年(768)6月の勅で定められた禄物・衣服・公粮の支給と、延暦20年格で定められた口分田の田租免除を踏まえている。  
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・坂上田村麻呂は、この時点で中納言・征夷大将軍・中衛大将・陸奥出羽按察使・陸奥守の5職を兼任。
在京している可能性が高いが、引き続き東北の軍事・行政を主導すべき立場にある。
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11月
・畿内・東海・北陸・山陰・南海諸道の観察使の共同意見にもとづき、中央政府は、損田(そんでん、風水・旱などで被害をうけた田)の租徴収にかんして不三得七(ふさんとくしち)の旧慣を復活。
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