2011年11月30日水曜日

弘仁8年(817)~弘仁9年(818) 「卑、貴と逢いて躓く等、男女を論ぜず、改めて唐法によれ」

東京 北の丸公園(2011-11-25)
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弘仁8年(817)
・この年、空海(44)、泰範・実恵らを派遣して高野山開創に着手。
高野山麓の丹生氏などの援助により、山上に「一両の草庵」が造られる。
また山麓紀ノ川南岸に政所が設けられる。
そこから山上まで山道が後に町石道となる。
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9月
・弘仁2年の征夷において、文屋綿麻呂が俘軍1千人を委ねて弊伊村を討たせようとした吉弥侯部於夜志閇(きみこべのおやしべ)が反乱
同族61人と共に捕らえられる(『類聚国史』巻190)。
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10月7日
・常陸国新治郡の倉庫群の不動倉13宇が焼ける(『類聚国史』巻173)。
日本古代の郡衙の考古学的研究の出発点となった茨城県上代遺跡。

正倉に放火する神火事件:
管理不行き届きの廉で現任の郡司を失脚させ、代わり自分が任命されることを目的としたり、実際には正倉に稲穀が納入されていない(ないしは不正に流用されてしまった)ことがばれないように、証拠を摩滅しようとして、正倉に放火する事件。

『続日本紀』天平宝字7年(763)9月1日条、神護景雲3年(769)8月の下総国猿島郡、同年9月の武蔵国入間郡、更に宝亀年間には下野・上野・陸奥に、主に東国で流行した。
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弘仁9年(818)
・この年、儀礼制度が改革され、多くの儀礼や施設の名称が中国的なものに変更される。
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・この年、坂東諸国に激震(『類聚国史』)。
坂東諸国では、山崩れが起き、巻き込まれて亡くなった人は数えきれないほどであったとの報告。震源は、上野・下野・武蔵国の国境付近と推定され、典型的な内陸型地震であった。
被害は、上野国との国境付近でもっとも激しく、河川が崩落した土砂で塞がれ、その決壊により大きな災告に見舞われたと推測される。
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・この年、「文華秀麗集」成立。
嵯峨天皇は、再度、漢詩集撰進を大納言藤原冬嗣にはかり、大舎人頭(おおとねりのかみ)兼信濃守の仲雄(なかお)王に撰進を命じる。

『凌雲集』編者であった清公と文継も加わり、更に新人の大内記滋野貞主(しげのさだぬし)・少内記兼播磨少目桑原腹赤(くわばらのはらあか)が編者に抜擢される。
今回は、中国の『文選』の編別を範とし、一定の類題(遊覧・宴集・餞別・贈答・艶情・楽府・梵門・哀傷・雑詠など)のもとに編集された。
この勅撰第2の詩集は『文華秀麗集』と名づけられ、この年に撰進される。

作者は26人、詩篇は148首。『凌雲集』に漏れたもの、弘仁5年(814)以後の新作が集められ、この集をもって、弘仁年代を中心とした詩業に桓武・平城2朝のものがほぼ網羅された。
嵯峨は3度めの詩の撰集を企てる。
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・この年、菅原清公(きよきみ)は文章博士(もんじようはかせ)を兼ね、勅命をうけて『文選(もんぜん)』の侍読を担当。
2年後に、文章博士が正七位下の官から従五位下に改められる。

文章博士の地位は明経博士を越え、さらに、承和元年(834)には文章博士の定員を2名とした。
嵯峨以後の親政3代の唐風文事への傾倒が、文章博士の存在と役割を高めることになる。
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3月
・跪伏(きふく)礼を禁止し、立礼を用いることを命じる。
推古12(604)年、宮門を出入りする時は匍匐(ほふく)礼をとるが、朝廷内では立礼をすることとし、大化改新後の前期難波宮では、匍匐礼・跪伏(きふく)礼を廃し、立礼が採用された。
しかし、立礼はなかなか根付かなかったらしく、天武11(682)年をはじめ、何度も匍匐礼や跪伏礼の禁止令が出されている。

そして、最終的に、この月、「卑、貴と逢いて躓く等、男女を論ぜず、改めて唐法によれ」との法令が出る。
身分の低い者が上の者に対して、跪伏礼をとることを禁止し、唐の方法、即ち立礼を用いることを命じる。
この他、宮人の服色や、位記(任じられた位階を書いた証明)なども中国風に変更された。
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最澄、かつて自らが東大寺戒壇院で受戒した具足戒(ぐそくかい)を捨て去ることを宣言し、天台宗独自の修学心得の制定にとりかかる

最澄は大乗戒壇設置を求めて懸命の努力を重ねる。
この月、具足戒を捨て去ることを宣言し、天台宗独自の修学心得の制定にとりかかる。

こうして「山家学生式(さんけがくしようしき)」が完成し、これを朝廷に提出して戒壇の設立許可を求めた。
天皇からの諮問を受けた大僧都伝灯大法師位(だいそうずでんとうだいほつしい)護命(ごみよう)以下の僧綱6人は、大乗戒壇設立に反対するが、これに対する反批判が前入唐沙門(につとうさもん)最澄撰『顕戒論(けんかいろん)』である。

経・論・疏は言うまでもなく、『大唐西域記』『鑑真伝』『不空表制集(ふくうひようせいしゆう)』まで博引旁証(はくいんぼうしよう)の限りを尽くし、激しい応答も盛り込んだこの大論文は、論争相手の僧綱そのものの不要論にまで進むが、もはや南都からの反論は聞かれなくなる

かくして、弘仁13年(822)6月、最澄没の7日後、延暦寺に大乗戒壇を設立する勅許が下りる。
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4月
・殿閣・諸門の号を唐風に改める。併せて内裏の建物や門の名称が変更される。
それまで寝殿・南殿と呼ばれていた建物が、それぞれ仁寿殿・紫宸殿などと中国長安城にある建物の名称に代えられる。
大内裏(宮城全体のこと)を囲む築地に取り付けられた12の門(宮城門)には、それまで古くヤマト王権の軍事部門を担当した氏族のウジ名が用いられてきた。西面の玉手門・佐伯門・伊福部門は、それぞれ談天門・藻壁門・殷富門に変えられる。
嘉字(めでたい文字)を用い、それぞれのもとの読み方に近い名称を選んだ。
こうした儀礼や儀式に関する変化は、この時点の宮中儀式を集大成した『内裏式』として弘仁12(821)年に結実する。
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数年来の大旱魃
4月に、藤原冬嗣より最澄に祈雨要請。
4月26日より3日間、叡山の僧侶すべてを率い祈雨修法。雨を得る。
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11月
・富寿神宝(皇朝十二銭の五)を鋳造する。
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