2011年12月23日金曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(11) 「十 山形ホテル」


東京 六本木 山形ホテル跡(2010-12)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(11) 「十 山形ホテル」

「日乗」昭和7年3月4日
偏奇館の窓から見た風景スケッチがあり、左隅に、二階建ての洋館の山形ホテル。
偏奇館のほぼ正面に見える。

現在は、麻布パインクレストというマンション(上の写真)。

大正9年11月19日
山形ホテルの初見。「快晴。母上来訪。山形ホテル食堂に晩餐を倶にす」とある。
以後、荷風は、山形ホテルが気に入り、「日乗るには、山形ホテルの名前が頻繁に出てくる。

大正11年12月4日
「今日より近鄰の山形ホテル食堂にて夕餉をなす事となしたり」
偏奇館からホテルまでは徒歩約15分ほど。格好の散歩にもなった。

大正11年6月17日
「雨来らむとして来らず。溽暑甚し。山形ホテル食堂にて昼餉をなし、日比谷公園を歩みて帰る」

同年12月7日
「午後散策。日暮霊南阪を登るに淡烟蒼茫として氷川の森を蔽ふ。山形ホテルにて晩餐をなし家に帰りて直に筆を執る」

大正12年5月12日
「鴎外全集第七巻所載の西周伝を読む。山形ホテル食堂にて夕餉をなし今井谷を歩む」

大正14年7月1日
弟鷲津貞二郎が訪れたときも山形ホテル。「雨中鷲津貞二郎来訪。山形ホテルにて倶に昼餉をなす」。
単身生活者荷風にとって、山形ホテルの食堂は、応接間がわり。

知人が訪れたときも山形ホテルを利用。家に長居されるよりもホテルの食堂で歓談したほうが、”他人の侵入”を嫌う荷風にはよかったのだろう。
「正午酒井清次君来談。山形ホテルにて食事を輿にす」(大正12年3月24日)、
「平澤生来る。山形ホテルにて夕餉をともにす」(同年8月9日)、
「午後巌谷氏来訪。山形ホテルにて昼餔」(大正14年6月26日)。

食事だけでなく、宿泊もしている。
大正11年10月20日
「自炊の不便を避けんとて近鄰の山形ホテルに宿泊す」

大正12年1月1日
「睡を貪って正午に至る。晴れて暖なり。山形はてるに赴き昼餐を食し、帰り来って爐邊にヂットの作ワルテルの詩を再読す」

昭和2年1月20日
「寒邪、午後體温三十八度三分あり、食事に出ること能はざるを以て山形はてるよりサンドイッチを取寄せ纔(ワズカ)に飢をしのぐ」

昭和2年
銀座のカフェー・タイガーの女給お久が金の無心に来た際には、山形ホテルに難を避ける。

大正13年1月1日
「小星を件ひ山形ホテルに往く」
(「小星」は大正12年の関東大震災後、11月から約1年間、偏奇館に囲っていた「お榮」)。

大正14年12月29日
「薄暮櫻川町の女訪来りければ、山形ホテル食堂にて晩餐をともにす」

大正15年1月12日
「晡時櫻川町の女訪ひ来りし故、喜び迎えて笑語する中、食時になりしかば、倶に山形ホテルに赴き晩餐をなし、再び書斎に伴来りて打語らふほどに、長き冬の夜は早くも二更を過ぎたり」。
(「櫻川町の女」は、荷風が、美人のうえに心映えもいいと絶讃している私娼「お富」)。

山形ホテルは:
大正6年に、山形巌(36歳)というロンドン帰りの人物によって建てられた小さなホテル。
来日外国人で賑わう。
山形巌は大阪生まれ、子どものころにサーカスの芸人になり、ヨーロッパ興行にも加わり、海外で青春時代をおくった軽業師。

「荷風というと晩年の奇人ぶりがよく語られますが、そのころの荷風は、実におしゃれな紳士でしたよ。昼になると食事に来ましたが、夏など、白い麻の服を着て、子ども心にも、おしゃれなんだなと思いました」
「あの時代、泊り客でもないのに、毎日のように食堂に来て、きちんと西洋式にナイフとフォークを使って食事をしていた日本人は、荷風先生くらいでしょう。もっとも、うちのホテルの食事がおいしかったとはとても思えませんが (笑)」
(山形勲:俳優、創業者の子)

新聞のある山形ホテルは、荷風にとって世間への窓口でもあった。
大正14年11月16日
「晡下山形ホテル食堂に赴く。晩餐の卓子につきし時給仕人東京日々新聞夕刊紙を持来りし故、スープを啜りつゝ紙上を一見するに、狂言作者竹柴秀葉翁今朝病を以て目白落合村の寓居に終りしとの記事あり」

大正15年7月30日
山形ホテルが「暑中旅客なく、食堂を閉す由なれば」、仕方なく銀座風月堂に行って食事をしている。

山形ホテルが身近なものになるのは、大正12年9月の関東大震災で、神田北用賀町の家を焼け出された友人、歌舞伎排優市川左團次(俳号「松莚」)が、このホテルに仮り住まいするようになってから。

山形ホテルも大震災では大きな被害を受けていない。
「日乗」9月1日によると、食堂の壁が落ちた程度で、その夜、いつものように荷風は食堂で夕食をとる。
神田の家を焼け出され、各地を転々としていた市川左團次が、東京に戻ることにしたのは、『左團次藝談』(南光社、昭和11年)によれば、大正13年1月に、麻布十番にあった南座で、震災後初の興行を行なうことが決まったから。大正12年11月のこと。

大正12年年11月17日
はじめ左團次夫妻は、麻布十番に近いこともあり、偏奇館二階を借りたいと頼むが、そのころ荷風はお榮を偏奇館に囲っており、左團次の頼み容れることができなかった。その代わりに、紹介したのが山形ホテル。
左團次夫妻がホテルに入ったのは大正12年12月22日。
「晩間松莚子細君を携へ山形ホテルに来り宿す」。
そして、左團次は、翌大正13年1月15日に、麻布宮村町(現在の麻布十番あたり)の新築の仮住居に移るまで、約1ヶ月、山形ホテルに投宿。
この間、荷風はしばしば、山形ホテルに左團次を訪ねている。
「夜山形ホテルに往き、清潭山勇等と松莚子の居室に款語す」(大正12年12月25日)、
「晩飯を喫して後お榮を件ひ、山形ほてるに松莚子を訪ふ」(同年12月31日)、
「松莚子と晩餐を共にすることを約したれば、小星を件ひ山形ホテルに往く」(大正13年1月1日)

昭和3年7月14日
、夕食の果物を煮た皿にハエが入っているのを知らずに口に入れた。一食してあとに気づく。荷風は、この日を限りに、山形ホテルを利用するのをやめると怒る。
「山形ホテル食堂には七八年来昼餉か夕餉か一日の中に一度は必らず赴きて食事をなせしかど、今宵をかぎりに中止すべし」。

しかし、単身生活者にとって山形ホテルは、いまや偏奇館の一部のようになっている。食事に利用せざるを得ない。2ヶ月後にはまた山形ホテルに出かける。

昭和3年9月11日
「溽暑甚し、午下曝書、晩闇山形ホテル食堂に飯す。伽排黴くさくして口にしがたし」。
「中止すべし」と大見得を切っておきながら再び出かけたことが口惜しいのか、コーヒーの味にケチをつけている。

昭和3年12月13
「昏黒山形ホテル食堂に往き暮食をなし・・・」、
同年12月30日
「午後睡を貪りて薄暮にいたる、山形ホテル食堂に往き夕餉をなし」。
昭和4年1月1日
「晩間山形ホテルに夕餉を食し・・・」。
正月早々出かけて夕食をとっている。

昭和2年冬、尾崎士郎はある女と東京市内を転々としていて、12月の雨の晩、川端康成に「霊南坂上にあった山形ホテル」を紹介される。川端康成は山形ホテルの二階の片隅の小さな部屋を仕事場として借りていて、その仕事場を尾崎士郎の隠れ場として提供した。
「山形ホテルは・・・部屋の数も二階と階下と合わせてやっと十くらいしかなかったが、何となく落ちついた、かんじのいい静かなホテルだった」
尾崎士郎は川端康成の好意でこの8畳くらいの部屋に逗留し、翌年3月まで仕事に没頭。その頃、林房雄も引越してきたという。

尾崎士郎
「山形ホテルの部屋が、谷をへだてて永井荷風邸と向かいあっていたのも今はなつかしい思い出である。そのころから偏奇館と呼ばれていた荷風邸の二階の窓は、いつも戸がぎっしりとしめられて、まるで化け物屋敷みたいに無気味な印象をただよわせていた」

荷風は昭和6年ころから銀座出遊が多くなり、「日乗」から山形ホテルの名は消えていく。
山形勲氏によれば、山形ホテルは昭和4年(1929年)の世界恐慌で外国人客が減り、経営難になり、その後数年で営業をやめたという。

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