2011年12月14日水曜日

天長5年(828)~天長7年(830) 移配俘囚の昇叙相次ぐ 「弘仁格式」施行

東京 江戸城東御苑(2011-12-13)
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天長5年(828)
この年
・18年ぶりの班田実施。
班田収授制度は、桓武の時代に既にかなりの変調をみせていたが、嵯峨の時代の弘仁元年(810)、京畿内にこれを実施。
以降はなく、18年ぶりに淳和のこの年に実施される。
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・この年の法令で、一般に隠首(おんしゆ、脱税のために戸籍に名をのせない人々)が多く、またある戸は、戸主は老婆で10人の男がそこに身を寄せているが、どこのものか明白ではないという例や、戸主が年寄りで、そのもとに子どもばかりがいるという状況が指摘されている。
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閏3月
・豊前に移配の俘囚、吉弥侯部衣良由、百姓360人に酒食を提供したとの理由で少初位下を授けられる。
同日、豊後に移配の俘囚、吉弥侯部長佐閇も、百姓327人に稲964束を提供したとの理由により、従六位上を授けられる。
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5月23日
・洪水の為、左右京に賑給。
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7月
・肥前に移配の白丁、吉弥侯部奥家、野心を忘れ善行ありとの理由により、少初任上を授けられる。
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12月
・空海、綜芸種智院を創設。
先に、空海は藤原三守から九条の旧第を喜捨され、それを転用して綜芸種智院という都民のための教育施設を創立。
この年、綜芸種智院式を作りその内実を整備した。
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天長6年(829)
5月
・灌漑用の水車の奨励(唐の技術の移入)。
この月、諸国に命令を下し、水車を設けさせる。
貧乏でこれを造れない場合は、国司に国府の救急稲を出して造らせたり、破損した時は修理をさせたりした。
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6月28日
・尾張に移配の俘囚、勲十一等、吉弥侯部長子、野心を聞かず孝行が著しいとの理由で大初位下を授けられる。
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7月19日
・越中に移配の俘囚、勲八等、吉弥侯部江岐麻呂、皇化に染み仲間を教諭したとの理由により従八位上を授けられる。
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天長7年(830)
この年
・正良親王と藤原沢子との間に時康(ときやす)親王(後の光孝天皇)、誕生。
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空海(57)、『秘密曼荼羅十住心論(じゆうじゆうしんろん)』を論述
この年、淳和天皇が南都の諸宗と天台・真言の2宗に対し、その宗義を述べさせる。
この時、空海は、それまで対立者を克服してきた布教上の実績にたって『秘密曼荼羅十住心論(じゆうじゆうしんろん)』を論述。
これは、空海の全盛時代を象徴する理論ならびに実践のピークである。

ここには、真言の立場から、あらゆる生のありかた、そこに発現する宗教あるいは思想の特質を論評しつつ段階づけ、かれの唱道する真言密教こそがそのすべてに優越することを包括的に述べられている。
所説の根底には、彼の力説する即身成仏説がある。

『秘密曼荼羅十住心論』の1年後、空海は悪瘡(あくそう)にかかり衰え始める。
しかし、真言密教の最高指導者として、入定(にゆうじよう)の地とさだめた高野と東寺・高雄の間を往来し、その間に朝廷への奉仕を怠らなかった。
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2月
「弘仁格式」(「弘仁格」「弘仁式」)、施行
嵯峨は父の遺業をうけつぎ、内麻呂の子の冬嗣、藤原葛野麻呂(かどのまろ)、秋篠安人(あきしののやすんど)らにそれの法典化を命じた。
官府で活用するための格・式の法典化であり、官府の故事・違例を採択し、これを取捨して各官司ごとに類別する作業である。
弘仁11年(820)4月、格10巻・式40巻が撰進され、嵯峨はこれを諸官庁に示して検討させ、この月に施行に至る。
しかし、不備が多く編纂は継続し、承和7年(840)4月、「改正遺漏紕謬(ひびゆう)格式」(漏れや誤りを改訂した格式)として再施行される。
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4月19日
・小野岑守(53)、没。
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7月6日
・良岑安世(46)、没。父は桓武天皇、異父兄に藤原冬嗣。
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9月
・薬師寺最勝会始まる。
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11月10日
・藤原真夏(57)、没。
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