2012年1月11日水曜日

永禄11年(1568)10月3日~31日 義昭、第15代将軍となる 信長、副将軍・管領職を辞退 義昭、「御父織田弾正忠殿」へ感状 [信長35歳]

東京 北の丸公園(2012-01-06)
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永禄11年(1568)
10月3日
・足利義昭は早くも将軍宣下・参内の儀例の調査に着手。
この日、山科言継は、権中納言飛鳥井雅敦に招かれ、先例研究を依頼される(「言継卿記」10月3日~22日各条)。
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10月4日
松永久秀、義昭を通じて改めて信長に拝謁し、「大和切り取り次第」の支配(大和一国支配)を認められる。
井戸氏以下の大和国人衆も義昭に拝謁。
十市・布施・越智・井戸・箸尾ら全有力国衆は松永に敵対。
義昭は松永支援のため細川・和田を、信長は佐久間信盛を派遣。
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10月4日
・オラニエ公ウィレム1世、マース川渡渉成功、ブラバント側に集結。
アルバ公1万5千、正面から対決せずウィレム1世軍の消耗作戦。
ウィレム1世、中途半端な戦闘で8千を失い資金も底をつき兵を解散。残るのはルイとヘンドリック兄弟とオランダ兵1200。
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10月6日
・松永久秀、筒井順慶の筒井城攻め。城際まで焼く。順慶逃亡。
8日、久秀、三好義継が入っている大和国飯盛城へ帰城。この日、順慶、籠もっていた平城を出る。9日、松永久通、筒井順慶が退却した平城へ進撃。松永属将大和宇陀郡秋山氏が竜王山城(十市通勝)攻撃。十市勢、十市城へ逃亡。

並松の戦い(松永・筒井、実在したか不明)。
松永久秀、大和の大半を手にしていた筒井順慶を討つべく法隆寺まで出陣。順慶も筒井より20町西にある栴檀の木村まで出陣。
順慶先陣は島左近・松倉右近両人、続いて国人衆が従う。
並松で戦い。松永勢先手が敗れて退くところへ筒井勢先手が深追い。
その時、法隆寺内の久秀側伏兵が筒井勢の後ろへ攻め掛かり退路を断つ。
久秀勢は反転して盛り返し、筒井勢は惨敗。宇陀郡へ落ちる。
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10月6日
・織田吉清・跡部秀次・奥村秀正・志水長次、大和法隆寺へ「家銭」として銀子150枚を当日中に上納するよう命令(「法隆寺文書」)。
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10月7日
・山科言継、信長の要請により義昭参内用の装束を調達。義輝の御服を参考にする(「言継卿記」4)。
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10月8日
・信長、「禁裏御不便之由」により内々に万疋を献上(「言継卿記」)。誠仁親王の元服費用。
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10月9日
・信長、御室御門跡(任助法親王)雑掌成多喜御房へ、義昭下知に任せて仁和寺門跡領・境内を安堵(「仁和寺文書」)。
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10月10日
・細川藤孝・和田惟政・佐久間信盛2万、唐招提寺周辺に進撃。
織田軍、三好三人衆軍より大和国森屋城を奪取。
11日、大和国窪城を奪取した後、井戸表へ進撃。(「多聞院日記」2)。
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10月10日
・山科言継、足利義昭の服飾を管掌する織田氏家臣村井貞勝より、「尾州の村井若党織手両人召し具し来る。武家(義昭)御袍・御指貫・御直垂等の事、種々尋ぬるの間、各対面せしめ申し開き候い了んぬ。」(「言継卿記」10日条)と義昭の礼服調製のことで相談を受け、その後も織手小嶋に対し指図を行う(「言継卿記」16日条)。

この日、言継は三河の松平和泉守(親乗)の思いがけない訪問をうける(同日条)。
駿府での初対面以来12年ぶり。12年前、言継は愛娘を喪った直後で、親乗も亡命の客将家康のお付きとして辛酸を嘗めていた時期で、2人の間には地方武士と老貴族という立場を超えた親近感がある。
親乗はその日に三河へ帰国せねばならず、言継は雑掌沢路隼人佑を親乗の宿舎誓願寺へ遣わし丁重に礼を送る(同日条)。
なお親乗は、翌々年元亀元年(1570)9月、義昭命で徳川軍の部将として出張(「武田文書」)してきた時も、山科邸を訪ね、檜代30疋を送る(同年9月17日条)。
この親乗との親交が、後に子の言経を家康に救ってもらう一つの契機となる。
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10月12日
・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚・柴田勝家、京都某所へ全3ヶ条の「禁制」下す(「武家事紀」)。
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10月13日
・幕府奉行衆松田頼隆・松田秀雄、山城築山庄に不法を働いた者があるため子細を「糺明」し名主・百姓らへ年貢等の納入を留めるよう命令(「久我文書」)。
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10月14日
・足利義昭、芥川城より京都六条本圀寺入り。
信長は清水寺入り。
足利義昭、織田信長(「御父織田弾正忠」)の功績を称え「武勇天下第一」であり「当家再興」を謝す。
16日、義昭、細川藤孝邸へ入る(信長、細川昭元邸を義昭御殿に定める)。
信長は古津へ移る。
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10月14日
・信長、幕府を通じて上京・下京中へ禁裏御料所諸役などの貢納を厳命(「言継卿記」)。
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10月15日
・松永・織田連合軍2万、豊田城(天理)攻撃落城。窪之庄城落城。
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10月18日
・左馬頭足利義昭、信長の奏請により第15代将軍・参議左近中将に任ぜられる。
22日、義昭参内。
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10月18日
・信長の命を奉じ、秀吉・明院良政、妙心寺大心院領を安堵(「妙心寺大心院文書」)。
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10月18日
・フランス、母后カトリーヌ・ド・メディシスに娘スペイン王妃エリザベト没の報届く。
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10月19日
・井戸城周辺他4ヶ所に布陣していた松永久秀勢、布施城へ向かう。
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10月20日
・幕府奉行衆諏訪俊郷・松田頼隆、久我家雑掌森氏修得分を久我家に安堵。
信長、久我晴通へ「旧領」認証の義昭下知により所領安堵を通達。(「久我文書」)
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10月20日
・山科言継の愁訴により、正親町天皇の女房奉書を以て朝廷は、足利義昭に山科郷還付を指示(「言継卿記」10月20日条)。

言継自身、18日、宝鏡寺で義昭・信長に対面し(「言継卿記」同日条)、その後もしばしば幕府へ出向いて山科郷回復、率分所以下8ヶ条の申状を朝廷を通じて奉り、所領回復を願うが、幕府・信長から還付されたのは禁裏御料諸役のみ(「言継卿記」同21日条)。
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10月20日
・上杉輝虎(39)、春日山進発、反乱重臣本庄氏討伐に向かう。
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10月21日
・信長、諸本所の雑掌(執事)に宛て、禁裏御料所諸役貢納の懈怠禁止命令発給。
同日、幕府奉行衆諏訪俊郷・蜂屋頼隆、上下京中へ宛て「禁裏御料所」諸役等の無沙汰を成敗する由を通達(「言継卿記」21日条)。
「禁裏御料所諸役等の儀、先規の如く御当知行の旨に任せられ、御直務として仰せ付けらるべきの状、件の如し。 
永禄十一 十月廿一日 織田弾正忠 信長朱判 諸本所雑掌中」。
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10月21日
・柳本・福智堂、松永久秀方に寝返る。
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10月22日
・将軍義昭、久我通俊・細川藤孝・和田惟政を使者に、信長に副将軍か管領職に任ずべきことを伝えるが、信長は請けず。
義昭は、信長が副将軍・管領職に甘んずる武将でないことを見抜けぬ義明の誤算。
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10月23日
・将軍義昭、座所細川邸に観世大夫を招き観能の会開催。信長らを招待。
吉例の弓八幡を脇能として十三番が組まれるが、信長は、今は隣国平定を急ぐ時で弓矢が納まる時ではないと、五番に省略(脇能:高砂、二番:八嶋、三番:定家、四番:道成寺、五番:呉羽)。
脇能の後、義昭は信長を近くに呼び、自ら酌をし鷹・鎧を下賜。義昭は四番道成寺で信長の鼓を聞きたいと言うが信長は断る。
演目終了後、信長は一座の者に盛大な引出物を贈る。
また、席上、義昭は信長に副将軍か管領への就任を要請するが、信長は辞退。(「信長公記」)
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10月23日
・信長、奈良へ1千貫余りの矢銭を課す。
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10月23日
・松永久通・竹内秀勝以下、上洛。
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10月24日
・将軍義昭、信長に3通の御内書。
信長、副将軍・斯波氏の管領職後継、辞退。堺・大副将軍か管領職津・草津に代官を置く。
25日、足利義昭、宛名を「御父織田弾正忠殿」として信長へ感状(「(畿内平定の謝辞)・・・、武勇天下第一也、・・・」)を出す。追加で足利紋(桐紋・二引両紋)の使用を許す。
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10月26日
・信長、京都発。佐久間信盛・村井貞勝・丹羽長秀・木下秀吉・明印良政ら5千残す。
27日、柏原上菩提院泊。28日、岐阜に帰城。
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10月27日
・松永久秀、大和法隆寺へ、信長への「要脚」のため堺で「八木」を売却し銀子16貫を金貨に交換し、綿20把を上納したことを褒す(「法隆寺文書」)。
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10月28日
・松永久秀、信長へ人質を差出し、天下無双の茶入れ「九十九髪茄子」を献上
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