2012年1月4日水曜日

昭和16年(1941)12月31日 「・・・机上の時計を見るに十二時五分を過ぎたるばかりなれど除夜の鐘の鳴るをきかず。是亦戦乱の為なるか。恐るべし恐るべし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

京都 真如堂(2011-12-30)
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昭和16年12月18日
十二月十八日。晴。昏暮土州橋の歸途金兵衛に飰す。壁に清潭子の句をかけたり。
宮神楽舞台は梅のつり枝に
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12月19日
・十二月十九日。晴。昏暮淺草に飰してオペラ館に至る。
偶然智子菅原安東の三氏に逢ふ。
去十四日夜房南生に手紙を寄せしが今だに返書なし。偽筆露見の事より気まづくなりしなるべし。
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12月20日
十二月二十日。晴。午後熱海大洋ホテル主人その小星を伴ひて來り話す。純良牛酪其他をおくらる。相携へて歌舞伎座へ行くと云ふ。
夜平井程一氏來訪。過日余が方より手紙を其居房州布良に出せしところ返書なき故其親戚なる上野の英子商うさぎ屋方へ電話にて問合せしことありき。
然るに同氏はいつの頃よりか本所石原町邊に僦居する由。但し番地は明言せず。奇怪千萬と謂ふべし。
この頃坊間の古本屋に余が草稿浄寫本短冊色紙また書画の偽物折々發見せらるゝ由なれど、右は大抵この平井とその友人猪場毅二人の為すところ、實に嫌惑すべき人物なり。
平井は去年中岩波書店及中央公論社にて余が全集の相談ありし時余が著作物の整理及全集編纂を依頼したるを以て相應の利益を得たるに係らず窃に偽書偽筆本をつくりて不正の利を貪りつゝあるなり。
今日までに余の探知するもの春本四畳半襖の下張、短編小説紫陽花、日かげの花、濹東綺譚其他なり。これ等は皆余が自筆の草稿の如くに見せかけ幾種類もつくり置き、好事家へ高く売りつけるなり。
平井との交遊もまづ今日が最後なるべし。余一昨年頃までは文学上の後事を委詫(ママ)することもできる人の如くに思ひ大に信用せしが全く誤なりき。
余年六十三になりて猶人物を見るの明なし。歎すべく耻づべき事なり。
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12月21
十二月廿一日。晴れて暖なり。落葉を焚く。佐藤春夫氏に宛て手紙にて猪場平井二生のことを警告す。蓋し事情巳むことを得ざるを以てなり。
此日終日家に在り。夜小説執筆 日曜日
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12月22
十二月廿二日。雨後の空晴れて片月を見る。淺草にて食料品を購ひ新橋の金兵衛に飯す。
川尻清潭氏に逢ふ。世上の風聞によれば會て左傾思想を抱きし文士三四十人徴用令にて戦地に送られ苦役に服しつゝありと云ふ。
其家族東京に居残れるものこの事を口外することを禁ぜられ居る由。
また戦地の何處に在りて如何なる苦役に服せるや、一切秘して知ることを得ざる由。
また徴用令にて引致せられし者は二年後ならでは放免せられずと云。
この危難に遭遇せし文士の誰なるやは聞漏したり。察するに村上(ママ)知義武田鱗一派の者なるぺし。
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12月23
十二月廿三日。半陰半晴。風暖なり。昏暮土州橋に至る。歸宅後机に憑る。
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12月24
十二月廿四日。快晴。暖気小春の天気に似たり。晝夜共家に在り。
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12月25
・十二月廿五日。晴後に陰。夜淺草に行く。歸途微雨。
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12月26
十二月廿六日。晴。終日家に在り。
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12月27
十二月廿七日。陰後に晴。晡下従弟杵屋五叟來訪共に出でゝ金兵衛に飲む。歸途微雨。
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12月28
十二月廿八日 日曜日 晴又陰。午後食料品を得んとて淺草に行きオペラ館に少憩し昏暮家に歸 る。燈下執筆三更に至る。
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12月29
十二月廿九日。晴れて寒し。午後日本橋三井銀行に至るに支拂口に人押合ひたり。丸ノ内三菱銀行も同じ景況なり。如何なる故にや。
町の辻々には戦争だ年末年始虚禮廃止とやら書きたる立札あれど銀座通の露店には新年ならでは用いざるさまざまの物多く並べられたり。
も組の横町にも注目(ママ)飾賣るものあり。花屋には輪柳福寿草も見えたり。
土州橋の病院に徃き薬代を拂ひて薄暮にかへる。電車さして雑沓せず。燈下執筆毎夜怠りなし。
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12月30
十二月三十日。晴。昨來寒気凛冽なり。午後掃塵。燈刻芝口の金兵衛に至りて夕飯を食す。おかみさん色紙を持來りて來春の句を乞ふ。左馬をかきて
門松も世をはゞかりし小枝かな
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12月31
十二月卅一日。晴。厳寒昨日の如し。夜淺草に至り物買ひて後金兵衛に夕餉を喫す。
電車終夜運轉の筈なりしに今日に至り俄に中止の由、貼札あり。何の故なるを知らず。
朝令暮改の世の中笑ふべき事のみなり。過日は唱歌螢の光は英國の民話なれば以後禁止の由言傳へられしがこれも忽改められ従前通りとなれり。
來宅後執筆。寒月窓を照す。
寝に就かむとする時机上の時計を見るに十二時五分を過ぎたるばかりなれど除夜の鐘の鳴るをきかず。是亦戦乱の為なるか。恐るべし恐るべし。
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ひたすら発表のアテのない執筆に集中する荷風。


戦勝のニュース華やかなハズであるが、一かけらの話題もない。
意識して無視しているとしか考えられない。

この頃の「黙翁年表」を引っぱってくると・・・・

12月18日
・香港、午後8時、第23軍、香港島上陸開始。
夜明け迄に北東部高地占領。英軍はニコルソン山の以西・以南の地区で抵抗。
12月18日
・第14軍(本間雅晴中将)出撃。
馬公より第2輸送船団土橋勇逸中将指揮第48師団、高雄より第1輸送船団柳勇大佐指揮歩48連隊、基隆より第3輸送船団山田信一大佐指揮電信第2連隊。主力34,1900、船舶部隊4600、第5飛行集団3600。計76隻の大輸送船団、フィリピン・ルソン島北西部リンガエンを目指す。別に、同島ラモン湾に向う第16師団主力7千は奄美大島から出発。ルソン島を南北から上陸し首都マニラを挟撃する作戦。22日、リンガエン上陸。

12月18日
・マレー戦。第25軍、スリムを占領。

12月19日
・香港の英軍、東南端スタンレー半島に撤退開始。

12月19日
・言論・出版・集会・結社等臨時取締法、戦時犯罪処罰ノ特例ニ関スル法、戦争保険臨時措置法、公布。

12月19日
・マレー戦。第5師団、ペナン島を占領。

12月19日
・第3飛行集団、ラングーン航空撃滅戦実施を下令。

12月19日
・英軽巡ネプチューン、トリポリ沖で触雷により沈没。
・ヒトラー、ブラウヒッチ陸軍最高司令官を解任、自らその地位に就任。

12月20日
・フィリピン(南部)、第14軍先遣隊三浦支隊、ミンダナオ島のダバオ上陸、占領。

12月21日
・香港、第23軍、貯水池のある高地を占領、香港全域に対する給水を断つ。

12月21日
・第2次ウェーキ島攻略作戦。~22日、第2航空戦隊(山口少将)「蒼竜」「飛竜」艦載機延べ100機以上、ウェーキ島空爆。23日未明、3個中隊に増派された陸戦隊による第2次ウエーキ島上陸作戦。正午、ウエーキ島占領。日本戦死111・戦傷94(1・2次合せて死傷者500以上)。大鳥島と改称。

12月22
・満州国、戦時緊急経済方策要綱発表。日本の戦時需要対応。
22 ・潜水母艦「剣埼」、空母への改装を完了、「祥鳳」と改名、第1航空艦隊第4航空戦隊に編入。
12月22
・フィリピン、第14軍(本間正晴中将)主力第48師団(土橋中将)、ルソン島リンガエン湾上陸。マッカーサー、マーシャル参謀総長宛てバタアン半島への撤退示唆、コレヒドール島死守伝える。23日、マッカーサー、バタアン半島への撤退下命。持久作戦に移行。26日、マニラ非武装都市宣言。


12月22
・アルカディア戦争指導会議開催。ルーズベルト米大統領・チャーチル英首相、第1次戦争指導会議(~42年1月14日、ワシントン)。チャーチルはホワイトハウスに泊り込んで協議。米英統合参謀委員会設置決定。欧州戦争優先を再確認。北アフリカ作戦も協議。

12月23
・マレー戦。第5師団主力、マレー半島タイピン占領。マレー部隊、第2期兵力部暑移行を発令(蘭印攻略作戦への転移)。
・マレー戦。近衛師団(西村琢磨中将、1万2649人、車輌914輌)、戦場に到着。2機械化師団の進撃体制整う

12月23
・第3飛行集団、第1次ラングーン空襲。
・南方軍、第25軍にシンガポール攻略命令を下達
・南方軍・第18師団・第3飛行集団・南遣艦隊・第22航空戦隊、ジャワ攻略までの作戦協定が成立。
・・・・・と、いうような状況下にある。

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