2012年1月28日土曜日

嘉祥3年(850) 「頃来盗賊群をなし、黎甿害せられ、或いは暗中に火を放ち、或いは白昼に人を掠む。」 仁明天皇没、文徳天皇即位。

京都 神泉苑(2012-01-24)
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嘉祥3年(850)
この年
・年初
仁明天皇の病気が憂慮すべき常態となったこの頃の勅書に、
「聞くならく、頃来(このころ)盗賊群をなし、黎甿(れいぼう、人民)害せられ、或いは暗中に火を放ち、或いは白昼に人を掠(かす)む。・・・・」
とある。
京中の群盗を捜捕するために、検非違使だけではなく六衛府の兵力をももちいたが、十分な実効をあげなかった。
農民の生産の低下、国司ら官人の荒政、凶作と疫病がかれらの生活をこわし、それが群盗発生の根源となっていた。
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・左・右検非違使の権限が、京内での司獄また行刑にまで拡張しつつある。
この年、左・右検非違使が獄中の罪人の放免に関与している。さらに天安元年(857)には、かれらは朝廷に奏して、死罪を犯せるもの二人の誅(死刑の執行)を乞うに至る。
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仁明朝で桜を愛でる風潮が定着
これより先、嵯峨天皇が神泉苑で、また淳和天皇が内裏で催した「花宴」において、桜花がもてはやされていたという前史はあるが、桜を愛でる風潮が定着したのは、この仁明朝。
天皇の側近藤原良房の東京(左京)染殿の第や、その弟良相(よしみ)の西京の第は、桜で有名。
仁明天皇は染殿第に行幸して桜を楽しもうと思ったが、果たせずに崩御したと伝えられており(『文徳実録』仁寿元年3月10日条)、後年良房は、しばしば清和天皇を自第に招待しては観桜の宴を設けたことが『三代実録』に記されている。
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1月26日
・盗賊が横行し、左右京職・畿内諸国司に追捕を命じる。
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3月8日
・左右京・畿内・近江・丹波諸国百寺に誦経させ、帝釈天を安置。
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3月21日
・仁明天皇(41)、没
生母橘嘉智子は落髪して仏門に入る(5月に没)。
皇太子道康(みちやす)親王(24歳、母は冬嗣の娘順子)が践祚。
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3月25日
・第4皇子として惟仁親王(のちの清和天皇)が誕生。母親は藤原明子(あきらけいこ)、藤原良房の娘。11月、立太子。
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3月28日
・良岑宗貞(僧正遍照)出家。
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4月17日
文徳(もんとく)天皇、即位。母・藤原順子、皇太夫人となる。
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5月4日
・嵯峨天皇太皇太后橘嘉智子(65)、没。
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5月17日
・故橘逸勢に正五位を追贈し、本郷に帰葬を許す。
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7月
・洪水の為、山崎橋破損。
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7月9日
・文徳天皇皇女晏子内親王(母:藤原列子)を伊勢斎王に、慧子内親王(母:藤原列子)を賀茂斎王に卜定。
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7月17日
・故藤原冬嗣に太政大臣位を追贈。
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9月8日
・摂津国淀川口において八十島祭を催す。(八十島祭=即位儀礼の1つ。これが初見)
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10月15日
・信濃国建御名方富命神と建御名方富命前八坂刀売命神に従三位を授ける。
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11月6日
・興世書主(73)、没。
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11月25日
惟仁親王(生後8ヶ月)、立太子
文徳天皇の第一皇子惟喬親王は、承和11年(844)の生まれの7歳、母は紀名虎の娘静子(更衣)。桓武朝以降では、恒貞親王が9歳で立太子している例がある。
紀名虎は、中納言従三位紀梶長(きのかじなが、勝長かつなが。大同元年(806)没)の子で、静子の姉の種子が、仁明天皇の後宮に入り、常康(つねやす)親王・真子内親王を産んでいる。
紀氏の出身者で、公卿(参議以上)になったのは、承和3年(836)に73歳で没した紀百継が、その前年にようやく参議に任じられ、その前には弘仁10年(819)に参議で没した紀広浜まで遡る。
藤原北家は言うまでもなく、伴(旧、大伴)、橘氏などよりはるかに見劣りがする。
しかも紀名虎は、既に承和14年(847)に散位正四位下で没している。

一方、誕生したばかりの惟仁親王の方は、その外祖父藤原良房が右大臣正三位で、左大臣源常(みなもとのときわ、嵯峨源氏)に次ぐ地位を占め、47歳という働き盛り。
更に、良房は、仁明朝末年の嘉祥年間以降、朝廷での政務処理の面で、左大臣源常をはるかに凌駕していた。

惟仁親王の立太子により、惟喬親王は出家することになる。

台閣の首班は左大臣源常(ときわ)。
嵯峨の皇子で、父に寵愛されていた。「容儀閑雅にして、言論和順」といわれる。
右大臣良房は、その機略をもってこの温雅な皇親政治家と十分な調和をはかりながら、大政を掌握していた。
この時、太政官には、常のほかに大納言信(まこと)、中納言の定(さだむ)・弘(ひろむ)が席を占め、政治的力量という点では問題はあるが、天皇との密接な関係においてはあなどりがたい大勢力を形成していた。
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