2012年2月12日日曜日

貞観16年(874)~貞観17年(875) 「東西の河流汎溢蕩々、百姓及び牛馬没溺し、死者その数を知らず。」  下総・下野国で俘囚(移配蝦夷)の反乱

東京 北の丸公園(2012-02-09)
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貞観16年(874)
この年
・淳和院の大火。
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1月7日
・菅原道真(30)、従五位下に叙せられる。
15日、兵部少輔に任じられる。
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3月4日
開聞岳噴火
火山灰に埋め尽くされた橋牟礼川(はしむれがわ)遺跡(鹿児島県指宿市)があり、住居跡や畠の畝(うね)などが数多く発掘されている。

薩摩開聞岳、夜雷霆が響き一晩中震動。噴火して降灰し禾皆枯れ、河水濾濁し魚死滅。
死魚を食べる者、或いは死に或いは病気になる。大宰府7月にこれを報告す。(「三代実録」26)
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8月24日
連年の火災があり、また、この月、豪雨をともなう大台風が平安京とそ周辺を襲う。

「紫宸殿前の桜、東宮の紅梅、侍従局の大梨等の樹木の名あるは皆吹き倒され、内外の官舎、人民の居盧(きよろ)、全きものあるはまれなり。
京邑(けいゆう)の衆水、暴漲(ぼうちよう)すること七八尺、水流迅激にしてただちに城下をつき、大小の橋梁、孑遺(けつい、残り)あるなし。
……東西の河流汎溢蕩々、百姓及び牛馬没溺し、死者その数を知らず。…」(『日本三代実録』)

という惨状。
京中で被災し救護を要する人民は、3,059家。"
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貞観17年(875)
この年
・冷然院の火難。
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・唐、この年~翌年、塩の闇商人であった黄巣や王仙芝が起こした黄巣の乱によりその疲弊は決定的となる。
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4月
・「左右検非違使式」(検非違使の吏務規定)を撰進。
故良房が晩年の摂政時代に強い関心を示したのは、法制と修史で、貞観9年(867)には、『新定内外官交替式(しんていないげのかんこうたいしき)』を撰している。
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5月
下総国と下野国で俘囚(移配蝦夷)の反乱
5月10日、下総国から俘囚が反乱を起こし、官寺(国分寺か)を焼き、公民を殺略したという報告が入る。
政府は直ちに下総国に「官兵」を発して制圧するよう指示し、武蔵・上総・常陸・下野国には各々兵300人を発して援助するよう命じた。

ところが6月19日、今度は下野国が「反虜」89人を殺害捕獲したと報告。
7月5日にも下野国から「賊徒」27人を討ち殺し、帰降した俘囚4人も殺害したとの報告が入る(『日本三代実録』)。
下総国の反乱に触発されて、下野国の俘囚も反乱を起こしたと推測できる。

5月10日に下総国からの奏状を得た中央政府が、俘囚の反乱を「俘虜怨乱」と述べているように、彼らが反乱を起こすのは、怨みが原因であった。

追捕の戦果を報じた下野国に対し、政府は、まっさきに突撃して賊徒を追捕した勇敢な戦士に褒賞を与えて功をたたえよ、と命じた。
これらの例は、群盗海賊を追捕する政府軍の戦術が、「人兵」「人夫」の語が連想させる一般人民を駆り出したようなものではなく、少人数の騎馬(あるいは乗船)戦士による勇猛果敢な迫撃戦・強襲戦であったことを教えている。

追捕の先頭に立ったのは受領や受領の子弟・従者であり、事態の規模に応じて国内から広く動員された。
追討勅符・追捕官符に記された発兵文言は「官兵」「兵」「人兵」「人夫」であるが、現実に動員されたのは、当時「勇敢者」「武芸人」などと称された、郡司富豪層のなかで乗馬が巧みで武芸に優れた人々であった。彼らを「勇敢富豪層」と呼ぶ。

すなわち受領に反抗する群盗海賊も、群盗海賊を追捕する人兵も、ともに富豪層だった。
受領=国衙は、追捕官符が約束する恩賞(官職・位階)をテコに勇敢富豪層を動員した。
そして、勇敢富豪層たちは恩賞を求めて国衙の動員に応じ、先を争って群盗海賊を追撃した。

しかし彼らはまだ武士ではなかった
私出挙と私営田からなる富豪経営に腐心する勇敢富豪層たちにとって、武芸に専念できるだけの余暇はなかった。
また国衙は彼らに、武芸錬磨に専念できる特典を与えてはいなかった。
そして、俘囚もまた、勇敢富豪屑と共に動員された。
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