2012年2月17日金曜日

元慶4年(880) 在原業平(56歳)没。 摂政藤原基経、太政大臣になる。


東京 北の丸公園(2012-02-17)
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元慶4年(880)
この年
・唐の黄巣、洛陽ついで長安を占拠し帝位につく。
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5月
在原業平(56)、没
天長2年(825)、平城の皇子阿保(あぼ)親王と桓武の皇女伊登(いと)内親王を父母として誕生。
7歳年上の兄に行平。
天長3年の臣籍降下に際し、この兄弟たちは在原朝臣の氏姓を与えられた。
業平は在原氏の五男で、後に右近衛権中将になったので在五(ざいご)中将と呼ばれる。
承和の変で、父親王は密告者としての行動をとり、変後3ヶ月で没。
その時、業平は18歳。

嘉祥2年(849)25歳でようやく従五位。
翌年、仁明天皇が没し、良房を外舅とする文徳が即位、良房の孫の生後8ヶ月の惟仁親王が、惟喬ら3兄をこえて皇太子に立てられる。
惟喬親王の生母静子(せいし)が業平の妻の父紀有常(きのありつね)の妹で、紀家も業平も惟喬が皇太子になることを期待していた。
しかし、若年の文徳は良房を憚り、寵愛する第三子惟喬を立てることができなかった。
妻の実家の紀家は暗欝に閉ざされた。

『日本三代実録』の彼の小伝には、「業平体貌閑麓、放縦拘わらず、略(ほぼ)才学有り、善く倭歌を作る」とある。
業平の生涯における放縦は、この惟仁の立太子から即位(清和)の時期と、その前後に最も甚だしかったと考えられる。

基経の妹高子(たかいこ)と関係はちょうどこの頃。
『大鏡』は、二人の仲について、
「この后宮(高子)の、みやづかひ(入内)しそめ給ひけんやうこそ、おぼつかなけれ。
いまだよごもりておはしける時、在中将(業平)しのびて率(い)て隠したてまつりけるを、御せうと(兄人)の君達、基経の大臣、国経の大納言などの、わかくおはしけん程の事なりけむかし、とりかへしにおはしけるをり・・・」
と語る。
高子との仲は裂かれ、高子は9歳年下の皇太子惟仁親王のもとに嫁がされた。

この著名な悲恋の他に、業平には伊勢の斎宮(神官に奉仕する皇女)とも艶話があったようであり、この時期、貴賎の女を求めて遍歴の年月を過ごしている。
性多感にして文才も豊かで、優れた歌で女たちの情を動かした。
また、しのぶ恋・失恋の想いを歌に託しておのれを慰め、色好みの仲間たちにそれらを披露した。

貞観7年(865)、応天門炎上の前年、41歳でようやく右馬頭。
貞観17年(875)、11歳年下の基経は、右大臣左近衛大将として四十の寿を堀河第で祝った。
その盛宴で業平は、

さくら花ちりかいくもれ老いらくのこむといふなるみちまがふがに

の寿歌を右大臣に捧げたという。

53歳で右近衛権中将となり官途としてはこれに留まり、相模権守、さらに美濃権守を兼任。

兄の行平は貞観12年(870)、参議に列し、元慶5年(881)には、その力で王氏子弟の講学のために奨学院をもうけ、封戸・庄田を割いてその経費に充てている。
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8月
・清和上皇(31)、左大臣源融が嵯峨に建てていた棲霞観(せいかかん)に移る。
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8月30日
・菅原道真の父菅原是善(69)、歿。
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10月14日
・出雲で大地震。10月27日、出雲国庁から報告。
神社、仏寺、官舎、百姓居濾の多くが倒壊。負傷者多数。余震相次ぐ。(「三代実録」37、38)
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12月
摂政基経、清和上皇の没の寸前に、太政大臣になる
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清和上皇(31)、座所とした円覚寺(栗田院を寺院にした)で没
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12月6日
・夜、山城、京などで大地震。
翌昼までに16回発生。大極殿の西北隅が崩壊。建造物の破損多し。
7日、陰陽寮は兵賊飢疫の兆しと判断し、天文奏を行う。
以降、毎日のように大震小震が続く。(「三代実録」)
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