2012年2月18日土曜日

元慶5年(881)~元慶7年(883) 内裏で殺人事件 太政大臣基経、動く

東京 北の丸公園(2012-02-17)
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元慶5年(881)
5月
・この月、「陸奥蝦夷訳語」の物部斯波連永野が外従五位下を授けられる
承和2年(835)2月、吉弥侯氏から改賜姓された物部斯波連字賀奴(もののべのしわのむらじうかぬ)が、承和7年3月には、「逆類に従わず、久しく功勲を効す」ために外従五位下を授けられている。
志波郡を本拠とする新興豪族である物部斯波連氏が半世紀にわたって重要な地位を占めていたことになる。
「夷姓」と言われた「地名+公」姓から、臣(おみ)・直(あたい)・連(むらじ)といった非蝦夷系豪族と同様の姓に改賜姓する蝦夷系豪族も一般化していく。

蝦夷系豪族の登用と、彼らの支配力に依拠した支配体制の形成が図られた結果、やがて奥六郡の安倍氏、山北三郡の清原氏という俘囚の系譜を引く大豪族が台頭してくると考えられている。
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10月
・真如法親王、羅越国に没するとの報が伝わる。
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元慶6年(882)
この年
・黄巣の将、朱温(全忠)、唐に屈服。
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1月
・陽成天皇(15)、元服。
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12月
・渤海客使裴頲(はいてい)らが加賀の国に到着
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元慶7年(883)
1月11日
・菅原道真(39)、加賀の権守を兼ねる。
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2月
・上総国市原郡の俘囚30人が反乱。 
この俘囚の反乱に対して、「夷俘群盗」(『日本三代実録』元慶7年2月9日条)などと指摘し、俘囚が群盗の構成員であるという認識を示している。

上総介藤原正範は飛駅奏言によって、官物盗取・人民殺害を叛乱とみなし「人兵」千人を発して追討する、俘囚は民家を焼き山中に逃入したので、さらに数千の「兵」を発しなければ征伐できないと訴えた。 
それに対して政府は、俘囚らの群盗が罪を恐れて逃亡しただけだから、飛駅奏言したり発兵勅符を出したりするには及ばない、「人夫」を動員して追捕せよと追捕官符を下した。
さらに平定を報じた上総国の飛駅奏言に対して、政府は介正範らの勲功を讃えるものの、飛駅奏言は律令に規定されている緊急事態に限定すべきで、今回のような場合は国解で太政官に言上せよ、やたらと飛駅奏言するな、と釘を刺している。

「人夫差発(さはつ)」の場合、「発兵」に比べ動員手続きが簡便で、国司の裁量でいくらでも動員することができた。
このとき政府は、簡便な「国解→追捕官符→人夫差発」方式で事態を鎮静するよう受領を指導し、武装蜂起の鎮圧に対する受領の軍事的裁量権を拡大しようとしている
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4月28日
・渤海客使裴頲(はいてい)ら一行105人が入京。
5月12日、帰国の途につく。
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6月
・筑後国で夜間、群盗100余が受領都御酉(みやこのみとり)の館を囲み、彼を射殺して財物を略奪。
部下の任用たちは叫び声を聞きつけ御酉の館に駆けつけたが、犯人は逃散したあとだった。
首謀者は筑後掾(じよう)藤原近成(ちかなり)であり、共謀者に前掾・目・王臣子孫らがいた。
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8月
陽成天皇と太政大臣基経の間が疎隔し、険悪にさえなった。
基経は、天皇に対し摂政を辞めたいと申し出た。陽成はそれに応じなかった。
基経は何度も天皇に辞職を要望し、そのうち朝廷への出仕を止めるボイコット戦術に出た。

太政官の弁官らは、摂政の堀河第(ほりかわのてい)に出向いて報告し、決裁をもとめた。
思慮ぶかい基経がこういう決然たる挑戦の態度をとるのはよくよくのこと。
その前後には、天皇も宮中の行事に欠席がちで、こちらもサボタージュの気味。
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11月10日
・内裏の内部で殺人事件
源蔭(かげ)の子の益(ます、陽成の乳母の子)が殿上で殺された。

加害者は天皇であるとの風評が流れた
いち早く基経の耳にも入った。
基経は、探査をしたであろうが、宮中の形勢を注視するだけで行動には出なかった。

その後ほどなく、基経は、馬好きの天皇が、禁中のあき地に馬を飼っていることを知り、急ぎ参内すると、天皇に断ることなく宮中からそれを放逐した。
これは小事であるが、天皇への決然たる挑戦であり、禁中の内外は動揺した。
年少客気の天皇も強い衝撃をうけた。

殺人事件以来の天皇は、一人の味方もなく、まったく孤立していた。
堀河第に引籠もっている基経から無言の圧力がかかり、天皇は、基経が遂に行動にでたこと知った
それ以来、天皇は殆ど公けの場に姿を現わさなかった。

事件は、天皇自身やその寝所が死のケガレにおかされたという点で、かつてないものであり、貴族たちは陽成天皇を退位させるだけでなく、できるだけ皇統を大きく変えようと画策したらしい

『日本三代実録』は、「禁中のことは秘密で、外の者は知ることができない」という言い方をしているが、これは、正史が記述できないような天皇の行為があったことを示している。
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12月
・政府は、班田実施について大和国司の怠慢を責め、班田励行のために中央から官人を派して、それの促進に協力させる。
この国には、東大寺・興福寺などの大寺院が蟠踞しており、土地調査や班田は、国司らの意のようにならなかったと推測できる。
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