2012年3月19日月曜日

昭和17年(1942)3月12日 「市中晝の中より酔漢多し。戦勝第二回祝賀のためなりと云ふ。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京 北の丸公園(2012-03-16) サンシュユ
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昭和17年(1942)3月1日
三月初一。日曜日 くもりて暖なり。午後執筆。
薄暮嶋中氏に招かれ上野鶯谷の盬原に至る。
上野地下鐡構内賣店つづきたる處に若き男女二人相寄り別れんとして別れがたき様にて二人とも涙ぐみたるまゝ多く語らず立すくみたるを見たり。二人の服装容姿醜くからず。中流階級の子弟らしく見ゆ。余は暫くこれを傍観し今の世にも猶戀愛を忘れざるものあるを思い喜び禁じ難きものあり。去年來筆とりつゞけたる小説の題目は戀愛の描写なるを以て余の喜び殊に深し。
余は二人の姿勢態度表情等を遠くより凝視し尾行したき心なりしかど約束の時間迫りたれは急ぎ車坂出口に出るに人力車二輌ありて客待したればこれに乗る。
老車夫曰く毎日の稼ぎ五圓内外なりと
盬原に至るに谷崎君既に在り。島中氏中央公論編輯松下某を伴ひ來る。おかみさんらしき人年四十前後なり。女中皆しとやかなり。料理の中記憶に留まるもの鯛盬焼、飯鮹さくら煮、刺身、鱧吸物、蕎変切等、食後ぜんざい、菓子最中 饀のかはりに飴を入れたり を出す。時節柄一としで珍羞にあらざるはなし。
この旗亭盬原は余の若かりしころには藝者連込の温泉宿なりしなり。神田講武所の小勝といひし女と折々來りて巫山の夢を結びしことあり。門前の路地に萩しげりて夜ふけの露に袂の濡るゝ風情今に忘れず。その頃は根岸の里もむかしのまゝにていかにも根岸らしき心地したりしなり
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3月2日
・三月初二。晝頃より雨ふる。雪とけて苔既に青し。
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3月3日

三月初三。陰。午後淺草。昏暮金兵衛に飯す。偶然杉野氏に逢ふ。
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3月4日
三月初四。晴。熱海木戸氏來話。平井程一の悪事追々明白となる。
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3月5日
三月初五。春雨瀟々たり。昏暮土州橋に徃く。御成道兎屋主人谷口氏平井の曲事につき手紙を寄す。
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3月6日
三月初六。暴暖四五月の如し。薄暮淺草より玉の井を歩す。歸宅後執筆暁三時に至る。筆持つ手先も凍らざればなり。
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3月7日
三月初七。陰。午前愛宕下税務署に行き去年より文筆にて得る所皆無の趣を告げ、以後免税然るべき由を申請す。午後谷口氏その弟平井を伴ひ來り金壱百圓現金にて返済。猶又偽筆偽印の事につき証文一札を示す。これにてこの事件一時落着せり。されど平井はなかなか悪事を断念するが如き人物にあらず窮鼠却て猫を噛むの虞なしとせず。恐るべし恐るべし。
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3月8日
三月八日 日曜日 晴れて風寒し。終日小説執筆。

風聞録
一 土方與志中條百合子村山知義等は去年より市中各處の警察署に今猶留置中なりと云ふ。

一 去年十二月八日戦功ありし海軍士官及水兵四五百名その一部は九州別府温泉一部は熱海の温泉宿に保養休暇を与へられたり。海軍省にては旅館組合の者を呼出し戸障子畳など破るものありとも制止する事無用なり。損害は海軍省へ申出れば即金にて弁償してやるべしと申渡したりと云ふ。熱海にては土地の藝者若し無理やりになぐさみものにされる者は組合にて後日祝儀を與ふるにつき處を問はず言ひなり次第になるやう内談せしと云ふ。以上熱海居住の人より聞きたるまゝを識すなり。
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3月9日
・三月九日。晴また陰。夜濹東に遊ぶ。歸宅後執筆。
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3月10日
三月十日。毎朝鶯語をきく。春雨晩晴。終日家に在り。
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3月11日
三月十一日。快晴。黄昏土州橋に行き芝口に飯す。
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3月12日
三月十二日。晴また陰。
市中晝の中より酔漢多し。戦勝第二回祝賀のためなりと云ふ。
燈下執筆暁明に至る。去年十二月起稿の小説漸く結末に近し。
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3月13日
三月十三日。晴。鶯頻に鳴く。終日家に在り。
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3月14日
・三月十四日。春雨烟の如し
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3月15日
三月十五日 日曜日 雨やまず。金兵衛に夕飯を喫す。
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3月16日
・三月十六日。雨晩に晴る。午後谷口氏重ねて平井の事につき來話。汁粉餅をおくらる。数日來街上燈火なし。日比谷四辻にて海軍中将某自働車にひき殺されたりと云ふ。或人の夷歌に
肩で風切つたむくひは夜歩きに
車の砂と消えし玉の緒
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世間は、「戦捷第2次祝賀大会」を催すほどの戦勝気分。
シンガポールに続き、ジャワ、ニューギニア、ビルマなどで戦勝。
なのに、荷風日記には一行も出てこない。
関連するものは、「市中晝の中より酔漢多し。戦勝第二回祝賀のためなりと云ふ。」のみ。
ひたすら、発表のアテのない小説執筆に集中している。


こうして、時勢に流されなかった分だけ、敗戦後は、荷風の作品は即商品になりえたのである。
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