2012年3月15日木曜日

寛平8年(896) 利稲率徴制の出現 道真の長女衍子の入内

東京 江戸城(皇居)東御苑 梅林坂 (2012-03-06)
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寛平8年(896)
閏1月6日
・宇多天皇、公卿・殿上人を引き連れ、京都北郊紫野の雲林院(うりんいん)に行幸。
この日は子の日に当っており、野遊びのため。
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3月4日
・宇多天皇は、唐人梨懐(李環とも)を召して入京させる(『日本紀略』)。宇多は彼と対面したと推測される。
しかし、翌年の宇多の醍醐天皇に対する訓戒は、
「外蕃(げばん)の人、必ず召し見るべくんば、簾中(れんちゆう)にありて見よ。直(ただ)に対(むか)うべからざるのみ。李環、朕すでに失(あやま)てり。新君これを慎め」(「寛平御遺誡(かんぴようごゆいかい)」)。
外蕃の人と面会するなら、御簾越しにせよ、と命じている。

しかし、これ以後の天皇は、御簾越しであっても外国人とは対面しようとはしていない。
李環(梨懐)に会った翌年の宇多の退位と、それに続く昌泰の変(道真左遷事件)が、歴代の天皇を萎縮させたか。
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6月28日
・この日付け日の官符。
任中の調庸惣返抄(そうへんしよう)を受け取っていない国司の官長(かんちよう)の解由を受理しないとされる(『類聚三代格』巻5)。
調庸惣返抄は、一国から中央の諸司(しよし)・諸家(しよけ)に納入されるべき物すべて(雑米・雑穀を除く)の返抄(納入済みという証明書)を、任期分(徴収時期の関係から、前任者の任終年分と自分の任期3年分)取り揃えて漸く受け取ることが出来るものであり、一国の代表者たる官長(国守)しか受け取らないものである。これがないと国守は太政官から解由を突き返されることになる。
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7月5日
・この日付け菅原道真の奏状。
諸国への検税使派遣を停止してもらえないだろうか、と述べる(『菅家文草』巻9)。
道真は、国司はやむを得ない理由で律令の条文に違反せざるを得ない立場であることを、国司に代わって弁明している。

「天下の諸国、其の俗各小異ありといえども、其の政いずれか一同にあらざらんや。
況(いわん)や世衰え国弊(へい)にして民貧しく物乏しきにおいてをや。
この故にあるいは国司、文法に乖(そむ)き、もって方略を廻(めぐら)し、正道に違い、もって権議(ごんぎ)を施す。
動(どう)、己(おのれ)の為にせずと雖も、其の事皆法を犯す。」

国司自身も、法律違反は知っているが、そうせざるを得ない状況であり、私利を図っている訳ではないのだから、よいではないかという。
肝腎なのは国内を上手に治め、安定した徴税を実現することであり、その為には個々の法条違反も仕方がないではないか、というのが本音のところ。
この主張が中央政府に対して説得力を持つのは、こうしないと徴税(中央への貢納)がうまく行かないという脅しが現実味を持っていたからであり、こうすれば何とかできるという嘆願にそれなりの根拠があったからである。

道真は述べる、
「例えばある国には百万束の正税本稲があることになっているが、実際に本稲の現物を回収しているのはただ五十万束に過ぎない。残りの五十万束は、これを返挙と称する。秋に本稲と利稲とを出させる日になると、返拳とされた部分については、ただ利稲だけを出させ、本稲は借りた人の許に留めておく。どうせまた翌年返拳をするのだから、これでいいのである。このようなやり方は、もう何年にも亘って続いており、にわかに変える訳にはいかない。」(意訳)

9世紀末には、かなり一般化していたやり方。
未回収の本稲は、人々に預けっぱなしになっていて、預けている人からは、毎年利稲相当分をきちんと納入してもらっているから、何の心配も要らない、という理屈である。
毎年、本稲を班給するなどという理念を放棄して、財源の一部としてのみ見るようになった時代が産み出した手法である。

現実にはうまく機能していない。
とにかく利稲だけは確保しなければならない国司が考え出した概念で、穴埋めに使い込んだり、未回収のままの本稲を、あたかも存在する如く「返挙」と帳簿上命名したに過ぎない。
人々の許に本稲があったかどうかは定かではない。
仮に本稲を「預かっている」人々がいても、彼らがおとなしく利稲相当分を国衙に納入し続けたとも思えない。
むしろ「本稲」がどこにあろうが、現に耕作している者から利稲相当額を取り立ててしまおう、というのが現実的な方策である。

公出挙地税化の完成
やがて「返拳」という概念はなくなり、「利稲率徴制(りとうりつちようせい)」が出現する。
本稲の有無は問わず、利稲相当分は田地の面積に応じて耕作者に支払わせるので、国衙財政の運営や中央への進上物の調達にも、全く問題ないと国司は主張する。

この方式は、道真の奏状にも、利稲だけは出させたとあるように、9世紀末にその萌芽が窺え、10世紀末の尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひやくせいらのげ)にも見えている。

また11世紀前半の上野国不与解由状(ふよげゆじよう)案(交替実録帳)では、前任の国司が「利稲については、作田から率徴(田の面積に応じて徴収)しているので、通例の支出に事欠くようなことはない」と主張。
11世紀末の相模国司も「恒例の仏神の用途(支出)や、例進(定例)の交易雑物料(中央政府に提出を命じられた物を調達するための元手)については、利稲を作田から徴収しているので、例用を欠くことは無い」と言い訳しているように、10~11世紀には一般化していく。
この段階にいたって、公出挙のシステムは完全に放棄され、「そこに耕している者がいるのだったら、その者から税を取り立ててやろう」という論理が完成した。
出挙は地税化した。
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8月28日
・菅原道真、民部卿を兼ねる
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11月26日
・道真の長女衍子(えんし)入内して女御となる。
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12月
・藤原良世、左大臣になるがすぐに辞任。右大臣源能有(よしあり)が台閣の首班となる。
能有は文徳天皇の皇子で、その室に基経の女を迎えている。
また時平の弟忠平にその女を娶わせている。
能有は翌年6月8日に没す。
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