2012年5月27日日曜日

永禄13年/元亀元年(1570)6月28日 姉川の戦い 信長、浅井・朝倉連合軍を破る [信長37歳]

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-02-24
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永禄13年/元亀元年(1570)
6月21日
長比城を出た信長、浅井長政本拠小谷まで攻め寄せる
地理に精通する苅安城将樋口三郎兵衛を先導案内として、小谷城下の町屋から山谷隅々まで焼払い、田畑を薙ぐ。
森可成・坂井政尚・斎藤新五・市橋長利・佐藤六左衛門・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照は雲雀山(湖北町内、小谷城南)へのぼり、山麓の町を焼き払う。
信長は虎御前山(湖北町虎姫山)に陣を据え、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀・江州衆が近在諸所へ火を放つ。
長政は動かず。

「たけくらべに一両日御逗留なされ、六月廿一日、浅井居城大谷(小谷)へ取寄り、森三左衛門、坂井右近、斎藤新五、市橋九郎衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀山へ取上り、町を焼払ふ。
信長公は諸勢を召列れられ、虎御前山へ御上がりなされ、一夜御陣を居ゑさせられ、柴田修理、佐久間右衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、江州衆、仰付けられ、在々所々谷々迄放火候なり」(「信長公記」)
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6月22日
・朝倉軍が木之本まで進出との情報により、信長、八島(東浅井郡浅井町、小谷城南東3km)へ本陣を後退。標高200m超える小谷城強襲は得策ではないため。
小谷城から出撃の浅井兵を簗田広正・中条家忠・佐々成政の殿軍が八相山で引きつける。

「六月廿二日、御馬を納められ、…其日はやたか(八嶋)の下に野陣を懸けさせられ、よこ山の城、高坂・三田村・野村肥後(浅井の属将)楯篭り相拘へ候。廿四日に四方より取詰め、信長公はたつがはなに御陣取。家康公も御出陣候て、同龍が鼻に御陣取」(「信長公記」)。

殿軍の部隊編成。
6月22日の撤退のとき、
「殿に諸手(各部将)の鉄砲五百挺、並に御弓の衆三十ばかり相加へられ、簗田左衛門太郎、中条将監、佐々内蔵介三人御奉行として相添へられ候」(「信長公記」)
各部将の鉄砲(銃手つき)を何十挺(何十人)かずつ取り上げて、臨時に一部隊を編成。また、鉄砲の補助として弓を加えた。

敵の足軽近々と引付け、簗田左衛門太郎は中筋より少し左へ付いてのかれ候。乱れ懸って引付き候を、帰し合せ帰し合せ散々に暫く戦ひ、太田孫左衛門頸をとりまかり退かれ、御褒美斜めならず。
二番に佐々内蔵介手へ引付け、八相山宮の後にて取合ひ、爰(ここ)にても蔵介(ママ)高名を致し罷退く。三番八相山の下橋の上にて取合ひ、中条将監疵つけらる。中条又兵衛橋の上にてたゝき合ひ、双方橋より落ちて、中条又兵衛堀底にて頸をとり、高名比類なき働きなり。御弓の衆として相支へ、異儀なく罷退く。

兵力の圧倒的に劣る浅井軍が、果敢に追撃している。
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6月23日
・信長、長政をおびき寄せる為、龍ヶ鼻(長浜市)に後退。ここは小谷方面を一望でき、その裾を西流する姉川を小谷城方面に対する防御線として利用できる。
24日、浅井方の支城横山城(大野木茂俊、長浜市石田町、小谷南9km、比高150m)包囲
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6月23日
家康5千、信長からの参陣要請あり小谷城下進出。近江龍ヶ鼻砦に着陣、信長自ら率いる織田軍と合流。
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6月26日
・信長、久徳左近兵衛へ、近江多賀庄・石灰庄・敏満寺領の3ヶ所都合3千石を安堵(「集古文書」)。
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6月26日
・朝倉勢(義景の従兄弟朝倉景健)1万、小谷城南方大寄山(浅井町)に着陣。
浅井勢8千、小谷山より合流し姉川北岸に布陣。龍ヶ鼻の信長まで5km。
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6月27日
・織田勢、姉川南岸へ陣替え(迎撃態勢)。本多平八郎忠勝、織田軍に合流。
この日夜、浅井・朝倉軍は姉川の手前まで進出し、野村・三田村(東浅井郡浅井町)の二手に分かれて布陣。
織田・徳川軍は、徳川軍3~4千が西方で三田村の朝倉軍8千と、織田軍1万余が東方で野村の浅井軍5千と対峙。信長主力の東側に美濃三人衆。織田軍は十三段の陣(甫庵「信長記」)。
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6月28日
姉川の戦い
浅井・朝倉、姉川北岸出現。
両軍対峙。
本多平八郎忠勝、単騎駆け、真柄直隆と一騎打ち。
浅井・朝倉敗北、退去。
横山城降伏、木下秀吉を置く。
佐和山城は丹羽長秀が包囲(篭城7ヶ月、元亀2年(1571)2月開城。城将磯野員昌は赦され高島郡新庄に送られるが、天正6年2月逐電)信長と浅井・朝倉両氏との戦いは、以降年間続く。

戦国大名同士が、主力部隊を率いて広々とした場所で向かい合い、正面から突撃を掛けて押し合う大規模な正面衝突。戦国大名にとってはきわめて異例の出来事であり、信長の長い戦歴の中にも、類例が見当たらない。

「然処(しかるところ)、朝倉孫三郎(景健)後巻(うしろまき)として八千ばかりにて罷立ち、大谷(小谷)の東をより山(大寄山)と申候て、東西へ長き山あり。彼山に陣取るなり。同浅井備前(長政)人数五千ばかり相加り、都合一万三千の人数、六月廿七日の暁陣払ひ仕り、罷退き候と存候の処、廿八日未明に三十町ばかりかかり来たり、あね川を前にあて、野村の郷・三田村両郷へ移り、二手に備へ候。」(「信長公記」)
(「罷退き候と存候の処」、兵力の劣る浅井・朝倉軍のほうから進撃してきた。浅井・朝倉軍としては、このまま対陣が長引けば、横山城を失う恐れがあり、横山城を失えば、北国脇往還道の通行が遮断される。また、小谷城のすぐ近くの横山城を救援できなかったなら、士気に深刻な影響を与えると判断したと思える)

「西は三田村口、一番合戦、家康公むかはせられ、東は野村の郷そなへの手へ信長御馬廻、又東は美濃三人衆、諸手一度に諸合(もみあい)、六月廿八日卯刻(午前6時頃)、丑寅(北東)へむかつて御一戦に及ばる。
御敵もあね川へ懸り合ひ、推(おし)つ返しつ散々に入りみだれ、黒煙立て、しのぎをけづり、鍔(つば)をわり、爰(ここ)かしこにて思ひ思ひの働きあり。終に追崩し、手前において討捕る頸の注文、真柄十郎左衛門、此頸青木所右衛門是を討とる。前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住龍文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門、此頸竹中久作是を討とる。兼而(かねて)此首を取るべしと高言あり。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎富兵衛、
此外宗徒者(むねとおもの)千百余討捕。」

竹中久作:
秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛重治の弟。本能寺の変の際、美濃で明智方の一揆と戦って戦死。
青木所右衛門(一重):
この時、家康の家臣。のちに秀吉に仕え摂津麻田一万石の大名になり、晩年は幕府に仕えた。

6月28日付け細川藤孝(義昭側近、のち信長に臣従)宛て信長書状
「今日巳時(午前10時頃)、越前衆並に浅井備前守(長政)、横山後詰のために、野村と申す所まで執(と)り出す。両所の備の人数越前衆壱万五千ばかり、浅井衆五、六千もこれあるべく候歟。同刻、此方より切り懸け、両口一統(りようくちいつとう)に戦を遂げ、大利をえ候。首の事は更に校量(きようりよう)を知らず候の間、注するに及ばす候。野も田畠も死骸ばかりに候。誠に天下のために大慶これに過ぎず候。」
追而書(おつてがき)
「今度、岡崎の家康出陣、我等手廻りの者共、一番合戦の儀を論ずるの間、家康に申し付けられ候。池田勝三郎(恒興)・丹羽五郎左衛門(長秀)相加へ、越前衆に懸り候て、切り崩し候。浅井衆には手廻りの者共に、其外相加はり、相果し候。」

午前6時頃、三田村方面で徳川軍と朝倉軍との間で戦い開始。
朝倉軍、家康本陣に迫る程の猛攻。
野村方面でも磯野員昌と坂井政尚の間で戦闘。
浅井軍の攻勢激しく坂井政尚は後退、池田恒興と合流。
柴田勝家・木下秀吉・森可成・佐久間信盛ら全主要部将が応戦。
激戦の末、浅井・朝倉軍が総崩れ、敗走。
織田・徳川軍、小谷城まで50町(約5.4km)を追撃。この追撃戦で多くの兵が討たれる(8~9千という文書あり)。
磯野員昌は残兵300で佐和山城に帰還し籠城。

「大谷(小谷)迄五十町追討ち、麓を御放火。然りといへども、大谷は高山節所の地に候間、一旦に攻め上り候事なり難く思食され、横山へ御人数打返し、勿論、横山の城降参致し退出。」(「信長公記」)。
(主戦場で勝利した信長は、退却する敵を小谷城下まで追撃。しかし、小谷城攻略は避け、再び横山城を包囲し無血開城させる)

「江州北郡、軍これ有り。浅井討死、其の外七、八千ばかり討死すと云々(「昨日巳刻」と註あり)。磯野丹波守同じ。
昨日江州北郡合戦、北郡衆・越前衆以下九千六百人打ち死すと云々。首四千八百これありと云々。徳川衆・織田衆も多く死すと云々。越前衆五千余討ち死す、前波以下と云々」(「言継卿記」6月28日条)
戦死者の数には誇張あり。

織田軍が敗走する浅井軍を追討中、浅井長政の側近遠藤喜右衛門が浅井の将の首を下げ信長本陣に向かう。郎党富田才八・弓削六郎左衛門・今村掃部助も従う。喜右衛門は「御大将は何処に御座すぞ」と叫び信長面前10間に迫る。信長側の馬廻竹中久作(竹中半兵衛重治弟)は、これを見破り、喜右衛門の頸をあげる。(「甫庵信長記」)。

浅井氏重臣安養寺経世は捕縛されるが、長政と信長妹お市との縁談仲介役を務めたと云われ、信長は首をはねず小谷城に帰す。この時の経世の報告で、遠藤喜右衛門ら多くの諸将の最期が伝えられ、長政・家臣一同奮い立ち、天正元年の落城迄3年間、徹底抗戦を続ける
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6月29日
・幕府「奉公衆」、摂津国へ出陣(「言継卿記」4)。翌30日にも。
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6月29日
・フランス、ユグノー、サン・マルタン修道院を掠奪・放火。
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