2012年5月17日木曜日

天慶2年(939)5月2日 「将門、常陸・下総・下毛野・武蔵・上毛野五箇国の解文を取りて、謀叛無実の由を、同年五月二日をもて言上す。」(『将門記』)

東京 北の丸公園  2012-05-11
*
天慶2年(939)
5月2日
・3月28日、平将門の私君太政大臣藤原忠平から、謀反が真実か否かを問う御教書がもたらされ、この日(5月2日)、将門は5ヶ国の解文を揃えて、謀反が無実である旨を言上

「将門が私の君太政大臣家に実否(じつぴ)を挙ぐべき由の御教書(みぎようしよ)、天慶二年三月廿五日をもて、中宮少進(しようさかん)多治真人(たじのまひと)助真が所に寄せて、下さるるの状、同月廿八日に到来すと云々、よて将門、常陸・下総・下毛野・武蔵・上毛野五箇国の解文(げぶみ)を取りて、謀叛無実(むじち)の由を、同年五月二日をもて言上す。」(『将門記』)
(3月25日付けの書状が28日に届くとは考えられず、日付は何らかの誤りがあるだろう)

御教書は、主人の仰せを家司(けいし)が書き留めた文書(奉書:ほうしよ)のことで、とくに三位以上の者が出す場合に御教書と呼んだ。後には公的な文書になるが、この時代はまだ私信。
この場合、多治助真が忠平の仰せを書き留めて送った。
多治助真は『貞信公記』に忠平の家司としてしばしば登場する多治助縄(すけただ)と同一人物と考えられ(「助真」は「助貞(すけただ)」の誤りであろう)、この御教書は、忠平からの私信であった。
忠平は謀反の真偽を確かめるために、私的に調査を行ったので、2月の告発以降3ヶ月間、祈祷以外に具体的方策を取らなかった。
忠平は、できればイエ内部の出来事として、大事件になることを回避しようとした。

しかし、将門の言上は実らなかった
時期が遅すぎたし、この時期、貞盛が信濃国で追い詰められながらも都に上っていた。貞盛の具体的活動は知られていないが、「度々の愁の由を録して、太政官に奏す」とみえるように、左馬允であった地位を活かして、都で将門を訴えていた。
貞盛の弟繁盛が右大臣藤原師輔を私君としていたことからすれば(『続左丞抄』巻1)、貞盛もいずれかの上流貴族、おそらくは師輔と主従関係を結び、将門を訴えたのだろう。複数の筋から、将門謀反の訴えがもたらされ、忠平も、弁護しきれなくなったのであろう。
*
5月5日
・政府は坂東諸国に管内不粛正を問責、坂東の諸国司が厳しく取り締まりを行っていないことを叱責する官符を下し、社寺への祈祷・読経を定める(『貞信公記』)。基本的に政府の対応に大きな変化はない。
*
5月15日
・諸社へ奉幣使が遣わされる(『貞信公記』『本朝世紀』『日本紀略』)。
*
5月15日
武蔵守に百済貞連(くだらのさだつら)を任じ(『貞信公記』、『類聚符宣抄』巻8)、
翌16日、東国国司の介以下の人事を決め(『本朝世紀』)る。
この頃になると、政府の対応の変化がみられる。

百済王(くだらのこにきし)貞連:
将門の乱での脇役ではあるが、重要な人物の一人。
百済王氏は、百済からの渡来系氏族で、奈良時代に鎮守府将軍や陸奥守などとして活躍した百済王敬福が著名。
貞連は、延長元年(923)12月、宇多院に勤務する内舎人(うどねり)となった前歴があり(『類聚符宣抄』巻10)、5月25日に従五位下武蔵守に任命される以前には、上総介として在国していた(『類聚符宣抄』巻8)。
彼が武蔵守に任じられたのは、東国の情勢に通じていたこともあるが、興世王と深い関係にあったためである。
『将門記』によれば、二人は「姻婭(いんあ)の中」にあった(姻戚関係にあった)。
貞連は、興世王を懐柔するために、任期途中の上総介から武蔵守に、任国を変えられた。

しかし、この任命は裏目に出る。
『将門記』によれば、直ちに武蔵に下向した貞連が興世王を国庁に着座させなかった(密告被告人として遇する)ことが原因で不和となり、興世王は貞連を恨んで下総国の将門のもとに身を寄せる。これは政府に急報され、政府首脳の将門への心証は悪化する。

武蔵権守興世王と新司百済貞連(くだらのさだつら)とは、彼此不和なり。姻婭(いんあ)の中にありながら、更に庁坐せしめず。
興世王、世を恨みて下総国に寄宿す。」(『将門記』)
興世王と貞連は姻戚関係にありながら、新任の武蔵守百済貞連が興世王を国庁に列席させなかった(政務に携わらせなかった)ことが、将門のもとに身を寄せる直接の原因となった。
足立郡で郡司と紛争を起こしたこともその理由であろうが、受領国司と権任国司の間に大きな格差が生まれたことを考慮する必要がある。

『将門記』巻末に、
「凡そ新皇名を失い身を滅ぼすこと、允(まこと)にこれ武蔵権守興世王・常陸介(掾)藤原玄茂が謀(はかりごと)の為すとこりなり」
と書かれる藤原玄茂は、人物像は不詳であるが、大私営田領主として描かれている藤原玄明と「玄」字が共通するところから、近親者の可能性がある。
玄茂の場合も、常陸介藤原維幾と何らかの軋轢があり、それがもとで、将門のもとに助けを求めたと思われ、この場合もまた、受領国司と任用国司の確執が原因といえる。

任用国司と受領国司の争いは、9世紀後半頃から多く見られるようになった。
元慶7年(883)6月には、筑後守都御酉(みやこのみとり)が掾藤原近成(ちかなり)に射殺され(『日本三代実録』)、延喜15年(915)2月には、上野介藤原厚戴(あつとし)が上毛野基宗(かみつけのもとむね)らに殺害されたが(『日本紀略』)、大掾藤原連江(つらえ)は制止を加えないばかりか、その賊と通じていたとして、延喜17年10月に推問された(『日本紀略』)。

国司間の対立の激化は、国司制の変質と深い関係にあった。
国司は守・介・掾・目の四等官により構成され、その位階相当や定員は、国の等級(大国・上国・中国・下国・小国の五段階)ごとに決まっていた(職員令)。
また、その職務も四等官それぞれにきまりがあり、もし、国務に怠りが生じた場合は、特定個人の故意以外は連帯責任とされた(国司連坐制)。

ところが、9世紀後半以降、諸国が納めるべき官物に、粗悪品や未納、納期違反が重なるようになると、国家財政が歳入不足になり、深刻な経済危機に陥るようになった。
そこで、9世紀終わり頃、すべての国司が連帯責任をとる方法から、最上位の国司(受領国司)がもっぱら責任をとる方法へと転換した。
その代わりに、政府は諸国の内部に直接干渉することを控え、受領国司に国務運営の権限を大幅に委ねることにした。

従って、受領国司とそれ以下の国司(任用国司)の間の格差が広がり、しだいに、受領国司が権力を握る一方、任用国司の権限は縮小されるようになった
ここにおいて、受領国司と任用国司の間で、国務の運営方法や俸給の受取額などをめぐって、紛争が起きるようになった。
興世王や藤原玄茂たち権任国司や任用国司が、受領国司と対立するようになったのも、この点と関係している。
*
*

0 件のコメント: