2012年5月13日日曜日

承平7年(937)12月14日 平良兼、平将門を夜襲するも撃退される。

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-05-09
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承平7年(937)
11月
・富士山が噴火。
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11月5日
・平将門に、良兼・貞盛らの追捕官符が下る。
「介良兼・掾源護並掾貞盛・公雅・公達・秦清文、凡(およ)そ常陸国敵等を、将門に追捕すべき官符を、武蔵・安房・上総・常陸・下毛野等の国に下す也」
公雅・公達:良兼の子(将門の妻の兄弟)、秦清文はこの他に見えず不詳。

「しかるを諸国の宰(さい)、官符を抱(にぎ)りながら、慥(たしか)に張り行わず、好みて掘り求めず。」
良兼らの追捕は、他の坂東諸国にも下されたが、それらの国々は良兼らの武力を恐れ行動を起さなかった。

追捕官符:
兵20人以上を動員する場合は、原則としては勅許が必要(軍防令17差兵(さへい)条)。
しかし、いちいち飛駅(ひえき、早馬)で奏上し、再び飛駅で勅を下していたのでは、事件に迅速に対応できない。
そこで、諸国で争乱が起きると、まず、国司は解文(げぶみ、上申文書)によって太政官に報告する。
太政官では公卿たちが陣定を開き、特定の人物や集団が追捕の対象となれば、奏上して天皇の勅許を得て、太政官符により諸国に命令を下した。この官符を追捕官符と呼ぶ。
官符は勅よりも軽い事案に用いられる。これにより、国司の追捕活動は正式に認められ、円滑に行えるようになった。
その内容は、場合によって異なるが、兵士や兵粮の徴発を認めるた上で、諸国のしかるべき武勇に優れた者もしくは国司自身に追捕を担当させ、追捕に成功すれば、恩賞を約束するというもの。
逆にいえば、追捕官符なしに兵士を発した場合には、公の戦いとはみなされず、私合戦とされた。
後三年合戦の際、源義家は、清原氏との戦いにおいて戦功をたてたにもかかわらず、追捕官符を得ていないという理由から、恩賞を得られなかった。
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12月14日
平良兼、平将門を夜襲するも撃退される
将門の駆使(くし、下働き)の丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)は、下総国豊田郡岡崎村(茨城県結城郡八千代町尾崎)に私宅を持ち、しばしば石田の荘(国香が殺された場所)近くの田屋(たや、田畠を耕すための出小屋)に通っていた。
これに目を付けた良兼は、子春丸を召し寄せて、内通するよう持ちかけ、田夫(でんぷ、農夫、良兼の密偵)1人を与え、将門の様子を見てくるように命じた。
田夫には、「子春丸に東絹(あずまぎぬ、東国産の良質の絹織物)を恵んで、もし(お前の内通のおかげで)将門を殺すことができたならば、荷夫(かふ、荷役)の仕事を解いて、私の乗馬の郎等に取り立てよう。まして、米を積み、衣服を分かち与えて恩賞とすることはいうまでもない」と告げた。

翌朝、子春丸は、田夫と炭を担って石井(いわい)営所に行き、宿泊している間に、田夫を招いて武器の置き場所、将門の寝所、東西の馬場、南北の出入り口を教えた。密偵は帰ってこれを良兼に報告した。

石井営所の内部情報を得た良兼は、12月14日夕方、石井営所に向けて兵80騎ばかりを率いて進行した。
午後10時頃、結城郡の法城寺(ほうじようじ)の辺りで休憩していると、将門側の猛者が夜襲の気配を察知して、闇に紛れて良兼の後陣の従類に交り、鵞鳴(かも)の橋から分かれて先回りし、石井営所に急報した。
営所には、宿直の兵10人ほどしかおらず、皆驚き騒いだが、将門の奮闘により、良兼軍を撃退した。
逃げる者たちを将門は馬に乗って追撃し、上兵(上位の従類、側近)の多治良利をはじめ40人ほどを射殺。
なお、子春丸は、内通が発覚して、承平8年正月3日に殺されたという。

子春丸から見える東北の民衆の姿:
下総国から常陸国の国境を越えて行っており、土地に束縛される状況ではなく、「私宅」を持ち、田夫を与えられていることから、普通の農夫よりは上の階層で、ある程度の田畠を持っていたと思われる。しかし、乗馬の郎等よりは階層的には下である。
彼が炭を運び「荷夫」と呼ばれ、営所に自由に出入りできていた。炭は営所の鍛冶工房で用いるためだろう。営所外から物資を運び入れ、また営所から物資を搬出するために、労働力を確保する必要がある。丈部子春丸は、農業を営みつつ、こうした運送に従事する者の元締めのような存在だったのではないか。
律令制の変質にともなって律令国家の土地支配からは解放されたが、将門のような私営田領主に寄生しながらしか生計を立てることができない東国民衆の姿を映し出しているのではないか。
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