2012年7月22日日曜日

元亀元年(1570)10月 信長は志賀側の山麓に釘付けにされ、浅井・朝倉は比叡山西麓を放火 [信長37歳]

東京 北の丸公園 2012-07-09
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元亀元年(1570)
10月
・信長、摂津平野庄(信長料所)へ徳政免除を通達(「末吉文書」)。
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・朝倉勢、若狭遠敷郡へ再び侵攻、武田信方が小浜を中心として統治にあたる。
山県秀政や大飯郡の武藤友益・粟屋右京亮らも朝倉方に寝返っており(「言継卿記」9月20日条)、信長方につく三方郡の粟屋勝久・熊谷氏や大飯郡の本郷氏らとの間で戦闘が繰り返される。
若狭の旧武田家臣は、朝倉義景と織田信長両勢力の下に分裂して戦う。 
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・河内高屋城内で畠山家の内訌。
守護畠山高政、三人衆方加担が発覚し追放。
弟の昭高が当主となり、幕府・信長方として活動。
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10月2日
・家康2千、信長支援のために近江国に出兵。横山城着。
また、秀吉ら、横山城より坂本へ着陣。
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10月2日
・信長、近江陣中より河内の遊佐信教へ書簡。
家康の着陣、丹羽長秀・秀吉が琵琶湖を渡り坂本に着陣、家康・丹羽長秀・秀吉らの軍勢を加えて東福寺・清水寺・粟田口各所に配備する予定(但し喧伝)、三好三人衆が淀川を渡れば信長が攻撃すると通達(「保阪潤治氏所蔵文書「筆陳」2)。
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10月3日
・この日の亥刻、高野の蓮養坊と田中の渡辺某が比叡山西塔西谷六坊に放火。
4、5日にも山上で放火(「言継卿記」4)。
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10月3日
・フランス、ギーズ公アンリ、カトリーヌ・ド・クレーヴ(未亡人)と結婚(王妹マルグリッドとギーズ公アンリとの密会発覚。ギーズ家がアンリ に結婚させる)。
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10月4日
・山城西岡に土一揆。1千人の暴徒、人数増大。
7日、下京の「金屋蔵」が一揆の襲撃を受けて死傷者多数。
11日、一揆2~3千、北白川まで進む。
19日、京都東山周辺に現れる(「言継卿記」4)。
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10月5日
・秀吉、上平寺に一揆に与同することを禁ず(杉本坊文書)。
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10月7日
・顕如、諸国の坊主衆・門徒衆に対して本願寺に「寸志」(銭、米、武器、兵力)を納めるよう書状。
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10月8日
・家康、上杉輝虎(謙信)と同盟締結。遠江侵略を図る武田信玄と絶交。
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10月12日
・武田信玄、下野佐野氏へ出陣要請。
この月の上旬、山県昌景、遠江を窺う。
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10月15日
・細川藤賢馬廻田井和泉守、八瀬で高野蓮養坊を捕縛。福島から比叡山への密書数十通を携帯、飯尾昭連が開封(「言継卿記」4)。
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10月16日
・横山城在陣木下藤吉郎・佐和山城在陣丹羽長秀3千余、信長陣到着。
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10月20日
・浅井・朝倉軍、比叡山から下山して一乗寺・試楽寺・高野・松之崎などを放火。
幕府奉公衆は勝軍城を攻略。
信長、朝倉に決戦を申し入れるが、状況変化なし。

志賀側の壷笠山・青山の麓に釘づけとなった信長を尻目に、浅井・朝倉氏の軍勢が延暦寺大衆の援助を得て、山を越え洛外に進出し、比叡山の西麓にあたる「一乗寺、試楽寺(修学院)、高野、松崎など放火」(『言継卿記』10月20日条)してまわる


『耶蘇会士日本通信』は、「彼ら(浅井・朝倉氏)の軍隊は山中に、信長は山麓にありて、すでに一ケ月を経過せり、・・・(略)・・・敵は都の周囲多数の村落を焼き、市内の混乱不安はなはだしく、・・・(略)・・・勝利はいずれに帰すべきかを知るをえず、信長敗戦すれば、直にこの市は焼かれ、敵に蹂躙せらるべき、・・・」と述べる。
洛中洛外の寺社や上京は、浅井・朝倉の禁制の発給をうけるほど。
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10月20日
・秀吉、丹羽長秀と共に江南の一向一揆を破る。
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10月20日
・光教寺顕誓(蓮如の孫、72)、没。本願寺が一向一揆に関ることに反対。
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10月21日
・夜、細川藤孝・和田惟政・一色藤長、渡河し摂津御牧砦周辺に布陣。
22日暁天、御牧砦外構を突破、一揆勢と交戦。膠着状態のなか松井康之が一番鑓の戦功を挙げ、一揆勢を敗退させる。(「松井家譜」)。
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10月22日
・三好党、山城御牧城占領。
9月末.より阿波篠原長房5千増援得て、河内一帯の織田勢攻撃。
木下藤吉郎秀吉、細川藤孝と山城国に軍を進め、三好の手に落ちていた京都の御牧城を奪還。秀吉は以後京都警備にあたる。
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10月22日
・信長5男彦七郎信興の尾張小木江城(600、愛知県弥富町)、尾張一向宗(長島道場大坊主)に包囲される報入る。伊勢桑名城滝川一益3千も同様、援軍出せず。
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10月24日
・毛利水軍の児玉就英、加賀浦にて敵船を捕え、ついで森山に入る。十神山城開城
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10月30日
・青蓮院門跡尊朝法親王、本願寺顕如光佐に信長との和睦勧める。
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