2012年7月25日水曜日

天徳4年(960) 宋(北宋)の建国 大宰府での宋商人との貿易 天徳内裏歌合

東京 北の丸公園 2012-07-19
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天徳4年(960)
この年
後周の恭帝から禅譲を受けた超匡胤(太祖)が、即位して(北宋)を建国 し、中国の五代十国の時代が収束する。(~1127)
979年、弟超匡義(太宗)の時、中国を統一。


しかし、宋は軍事的には北方の遼(契丹)に対して劣勢で、燕雲16州(現在の北京、大同を中心とする北方の要所)は遼の領土となり、1004年に遼と澶淵(せんえん)の地で盟(澶淵の盟)を結び、毎年遼に対し銀や絹などを支払うことで、遼と対等の関係に立つ条件での和平を結んだ。
また、現在のベトナムの地には大越国が独立した。


宋は、軍事的には弱体であったが、国家財政にとっての海外貿易の重要性に注目し、宋商人の活躍を後押しした。
宋商人による海外貿易は、宋、高麗、日本の間の三国間貿易として展開していく。
宋は市舶司(しはくし)を設置し、宋商人の出航と帰国、外国商人や朝貢船の受け入れ、徴税や官貿易などを管轄した。特に中心となる市舶司が置かれたのが、明州・泉州・広州で、明州は貿易港として地位をさらに高めた。


また、宋商人は貿易に従事するだけではなく、明州牒状などの公文書を日本にもたらし、返書を求めるなどの政治的活動もみえる。
宋商人の背後には、皇帝を頂点とする宋の国家の存在が窺える。宋商人は外交の一翼を担っていた。

日本の朝廷は、10世紀以降、ますます外交に消極的になるが、貿易には関心をもっていた。
宋商人がやって来ると、宋人定(そうじんさだめ)という陣定(じんのさだめ)が開かれた。宋商人の提出した牒状、名簿、進上品、宋の市舶司が発行した渡海許可証、大宰府が調べた存問日記などを審議して、宋商人にそのまま貿易を許すか追い返すかを決めた。
安置が決まると、宋商人は大宰府鴻臚館に滞在して貿易を行うことになる。
(のちに鴻臚館は廃絶し、博多の唐坊にチャイナタウンが形成される)

一方、朝廷からは唐物使(からものつかい)が大宰府へ派遣されて、宋商人のもたらした交易物のうち、対朝廷交易用に確保されていた物品から唐物購入を行った。
唐物使が購入した残りが民間貿易に廻される。
唐物は都へ運ばれ、天皇が唐物を見る唐物御覧という儀式が行われた後、臣下に頒与された。
大宰府での宋商人との貿易は、まず国家および天皇のためのものであった。
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・この年は飢疫の年であった。
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3月
天徳内裏歌合
村上天皇により清涼殿において女房歌合を催される。
後世、晴儀歌合(せいぎうたあわせ)の範として仰がれ、和歌だけでなく、判者左大臣藤原実頼の判詞(はんし)の後世への影響も大きく、文芸意識を大きく高めたとされる。
村上天皇をはじめ左大臣藤原実頼・大納言源高明・右大将師尹・参議源雅信・藤原朝成らが着座。
当日の勅題は、
かすみ うくひす やなき さくら 山ふき ふち(藤) はるのくれ はしめの夏 郭公 うの花 夏くさ 恋
であった。
歌合20回(左・右各20首)のうち、恋の題下に5回、献歌の優劣が争われた。王朝人の花鳥風月と恋への耽溺がよく窺える。
歌合の後、おわると管絃のあそびに移る。楽所の人々は南北に分かれて歌曲を演奏。左大臣は箏を弾じ、大納言は琵琶を弾く。
満座の男女は酒と風流の気分に酔うて夜明けに至った。
あの詩合とこの歌合こそが、史上に著名な天暦の治なるものの宮廷的発現であった。
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5月4日
右大臣藤原師輔(53)、没。
晩年に「九条年中行事」を編纂する。
これを境に村上天皇の治世(天暦の治)は前後2期に分けられる。

村上天皇は、皇后安子の父右大臣師輔という最大の後楯を失い、深い打撃を受けて一度は退位を考えたという。
左大臣に兄実頼がおり、師輔は摂関・内覧ではなかったが、宮中・府中のことは全て取り仕切っていた。
後任の右大臣は藤原顕忠(時平の2男、63歳)。
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