2012年7月26日木曜日

天徳4年(960)9月23日 平安遷都以来初めて内裏が焼亡、神鏡が焼損

東京 北の丸公園 2012-07-09
*
天徳4年(960)
9月23日
・平安遷都以来初めて内裏が焼亡し、神鏡が焼損する。
村上天皇は後院(離宮)である冷泉院に移る。

23日夜、村上天皇は、侍臣らの走り叫ぶ声に驚いて起き、その理由を問う。
少納言兼家(故師輔の3男)が駆けつけて、火は左兵衛陣を焼いているが、勢いが激しく消し止めることができない旨を奏上した。
天皇は、急ぎ衣冠をつけて南殿の庭にでた。
左近衛中将源重光(醍醐天皇の孫。代明(しろあきら)親王の長子、母は醍醐朝未年の右大臣定方の女)は、天皇の剣・璽の筥を持って村上に従った。
彼は侍臣に命じて内侍所の太刀を取りに行かせたが、猛火は温明殿(うんめいでん)に燃え移り、それは不可能で、神鏡や大刀契(だいとけい)などの皇位に関わる重宝は燃えてしまった。
天皇は読経僧らに鎮火の修法を仰せつけたりもした。

火勢はいよいよ盛んで、延政門以南の廓を焼き、承明門の東辺は煙に包まれていた。
天皇は清涼殿に引き返し、後涼殿を通って陰明門にで、中院に着き、神嘉殿にとどまって火を避けた。そこへ、病弱な皇太子(10歳)が侍臣に抱かれて現われた。


間もなく左衛門督師氏が参入したので消火の指揮をとらせ、また右大将師尹(もろただ)には鈴・印鎰を取り出させた。
その後に、右大臣顕忠以下の公卿が駆けつけてきた。
火勢が避難所に及び、天皇は腰與(ようよ)に乗せられて太政官に向った。
師尹はここは方角が悪いといって天皇・皇太子を別の場所に導いた。
天皇は右大臣を身近に呼びよせて、「朕不徳をもって久しく尊位(皇位)に居り、この灾殃(わざわい)に遭う、歎憂極まりなし」と述べた。

火は亥の刻(午後10時頃)に起こり、丑の刻(午前2時頃)に及んだ。
宜陽殿の累代の宝物、温明殿の神璽鏡・太刀・節刀・契(印の一種)、春興・安福両殿の武具、内記所の文書、また仁寿殿の由緒ある器物はみな灰塵となった。
内裏の全て建物が焼失した。
平安京遷都後初めての内裏焼亡であった。

『扶桑略記』に引用されている村上「御日記」には、「人代以後、内裏の焼亡は三度なり。難波宮、藤原宮、今平安宮なり。遷都の後、すでに百七十年を歴て、始めてこの災あり」とある。
貞観8年(866)、応天門は放火によって焼失し、貞観18年(876)には大極殿が炎上して清和天皇をうろたえさせ退位の一要因をなした。
*
9月28日
・造宮担当が定められた。
紫宸殿・仁寿殿等が修理職、清涼殿と常寧殿は木工寮(もくりよう)が担当し、綾綺殿(りようきでん)と淑景舎(しげいしや)南一宇を近江、宣耀殿(せんようでん)を安芸、宣陽門を尾張など、内裏の殿・舎・門・廓を全国27ヶ国に賦課している。


この後も天元5年(982)、長保元年(999)など内裏は火災にあい、その後は数年おきに焼失する。

このことは治安悪化を物語るが、そのたびに再建されたことは、受領の徴税強化を背景に全国に内裏造営を賦課することが可能になったことを前提にする。

内裏の正殿紫宸殿は修理職が造り、天皇の居所清涼殿は木工寮が造営し、他を全国に割り当てて造営させる方式は、以後も踏襲され、造内裏役が一国平均役になることもあり、院政期の保元2年(1157)でも同様に再建されている。
内裏造営を全国に賦課することには、朝廷が全国の国土を統治することをイデオロギー的に浸透させる意味があったと考える説もある。
*
10月
・この月、源満仲(経基の嫡男)、平将門の息子が入京したとの噂を受けて、村上天皇から蔵人頭を通じ、大蔵春実らと官職と無関係に直接動員される。
満仲は、この頃、京における有力な武士と認定されていた。
以後、天皇・院によって、官職と無関係に武士は動員されることになる。
*
*

0 件のコメント: