2012年7月30日月曜日

康保4年(967) 村上大皇(42)没。冷泉天皇(18)即位。守平親王(9)立太子。実頼関白太政大臣、高明左大臣、師尹右大臣。

東京 北の丸公園 2012-07-26
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康保4年(967)
5月25日
村上大皇(42歳)、清涼殿で没
形式的に宮中警固の命が出て、固関使が発令された。
その夜、宝剣と神璽(曲玉)が、清涼殿から皇太子憲平親王(18歳)の部屋である襲芳舎(しほうしや)に移され、冷泉天皇の皇位継承が実現した。

奈良時代いらい、政変や天皇の代替りには、宮中警備に当たる六衛府に対し警固の命が下され、伊勢の鈴鹿・近江の逢坂・美濃の不破の3ヶ所には、関所を固める固関使が差し向けられるならわし。平安時代になって、3関のうちの越前の愛発関を近江の逢坂関に変えた。

皇后安子の没後、村上天皇は、皇位継承への憂いに付きまとわれた。
皇太子は生来虚弱であったが、この年2月に心身に異状をきたた。

村上親政は18年に亘ったが、彼の関心は王朝風の文雅の興隆にあった。
天皇は、詩賦を好み和歌を作り、書は小野道風に学び、管絃の道では箏・笙・琵琶をたしなんだ(箏は実頼について学んだ)。
皇后安子を中心とした生前の後宮生活も華美を極めた。
皇后(安子)のほか女御(徽子(きし)女王・荘子(しようし)女王・藤原述子(じゆつし)・同芳子(ほうし))・更衣(源計子(けいし)・藤原祐姫(ゆうひめ)・同正妃(しようひ)・同脩子(しゆうし)・同有序(ゆうじよ))がおり、その子女は19人であった。
また後宮には風流をわきまえる多数の女房が侍しており、この大集団が天皇の文雅への好尚を支える力のひとつであった。

村上天皇没後の右大臣源高明は不安の空気に包まれていた。
また、3関の固関使のうち固伊勢関使(こいせげんし)には、経基の子満仲と秀郷の子千晴が選ばれるが、これらは、内裏と権門を巡り対立を深めており、村上没後の親政から関白執政への転換に乗じて、一働きしようと目論んでいた。
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6月
左大臣実頼が関白となる。(関白の復活)
左大臣実頼は、台閣首班ではあったが、国政指導に関しては能力も熱意もなく、朝儀と風流に心を傾ける老貴神にすぎず、しかも村上の後継者との関係は、血縁的にさほど密ではなかった。
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7月
・「延喜式」を施行する。
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9月
兄為平親王(16)をさしおき、守平親王(9)が立太子する。

東宮決定の争い
実頼・高明・師尹の3大臣は立太子の問題に直面した。
冷泉天皇には既に朱雀天皇の皇女、昌子内親王が正妃に立っていたが、まだ皇子は生まれていないし、天皇の狂気を考えれば、早急に東宮を定めておく必要がある。
候補としては、生母の家柄から考えて、冷泉天皇の同母弟、為平親王と守平親王の2人しかない。2人は共に兄のような異常はなく、順序からすれば為平親王が東宮となるはずである。
為平親王(16歳)は、父村上天皇・母皇后安子にもひとかたならず愛せられ、間違いなくつぎの東宮と目されて希望に満ちた前途を持っていた。年頃の為平親王に自分の娘を入れようとする公卿は多かったが、その競争に勝利したのは源高明であり、しかもその結婚式は、妃の家で行なわれる慣例を破り、村上天皇のはからいで内裏の昭陽舎でおこなわれるという盛大なものであった。

しかし、為平親王と高明の娘との縁組は、藤原氏首脳部に不安を起こさせた。
もし為平親王が東宮となり、高明の娘に皇子が生まれると、高明が次期東宮の外祖父になる可能性が出てくる。
藤原氏としては、為平親王に藤原氏の女をどんどん入れて、生まれた皇子を強引に次の東宮に立てれば切り抜けられるのだが、もっと確実で賢明な策が採用される。
こうして、新東宮は人々の思惑を裏切って、為平親王の同母弟、守平親王(9歳)と決定した。

「栄花物語」によれば、村上天皇重体と知って実頼が次期東宮について伺いを立て、天皇から、今は守平親王を立てるほかはあるまいとの遺詔を得たという。
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10月
憲平親王が即位。冷泉天皇となる

狂気の天皇
皇太弟守平親王がきまった直後、東宮妃であった昌子内親王は皇后に昇り、新たに冷泉天皇の女御として、師輔の長男、伊尹の娘の懐子(かいし)が後宮に入ったが、どちらも冷泉天皇の異常性と、その原因と思われていた元方の崇りが気味悪くて、とかく自分の邸に下がりがちであった。

10月の即位式は、本来ならば大極殿で百官を集めて行なうべきところ、異例の処置として内裏のなかの紫宸殿で挙行された。御座所の清涼殿から離れた大極殿で挙式すれば、天皇に異常が起きたときに収拾がつかなくなるという実頼の判断によるもの。
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12月
実頼が太政大臣、源高明が左大臣となる。

冷泉の母は、九条右大臣師輔の娘、皇后安子(あんし)であり、村上朝後半の政治の中心は師輔であった。
しかし冷泉即位時点では、師輔は没して7年、皇后安子も没して3年前であった。
冷泉即位時点での朝廷の有力者は、左大臣藤原実頼・右大臣源高明・大納言藤原師尹の3人。


冷泉は18歳なので、本来いならば摂政関白は不要であるが、天皇の異常性からその代行者が必要ということになり、師輔の兄の小野宮左大臣実頼が直ちに関白となり、半年後のこの月、後太政大臣に任ぜられ、高明・師尹がそれぞれ左右大臣に昇った。

実頼は関白にはなったが外戚ではない。天皇の外祖父の兄は外戚の資格に外れ、外戚としては、皇后安子の兄弟、つまり天皇の伯父・叔父に当たる伊尹・兼通・兼家などが資格がある。しかし、伊尹は権中納言に昇ったばかり、あとの2人は公卿にもなっていない。この3人がいずれ昇進するだろうが、さしあたりは最長老の実頼が関白となることは当然であった。

実頼は外戚でなかったため十分力がふるえず、「揚名(ようめい)の関白」(名ばかりの関白)と嘆いたが、忠平没後筆頭大臣であり続け政権を指導した。


天皇即位の2ヶ月後の7月22日の日記。
実頼は、天皇の狂気、関白の無力、公卿の無統制を嘆く。
「きょう源延光や藤原師氏(師輔の弟)がやってきての話に、天皇の例のご病気がこのところ連日起こっているとのこと、右兵衛佐藤原佐理や師氏の見たところでは、天皇は大声で歌を歌われ、そのお声は御所警衛の近衛の連中にも皆よく聞こえるという。明日は除目があるはずだがこのようなありさまで大切な除目ができるものだろうか。暴悪武断の君主というのは昔の話にも聞くことだが、狂気の君などとは聞いたこともない。しかもこのような天皇のありさまをよいことに、天皇の伯父にあたる外戚の連中が争って昇進をたくらんでいる。半年前に権中納言になったばかりの伊尹が、こんどは大納言になろうとねらっているようだが、もってのほかである。また、夜になって聞いた話では、明日の除目については、一昨日、大納言あたりの連中がお膳だてをきめてしまったといううわさだ。関白である自分に相談もなく話を進めるとはなにごとであるか。これも自分が天皇の外戚でないために軽んぜられるのである。もうこのような名ばかりの関白なぞ、やめてしまうべきだ」

日記の中で天皇の歌声を聞いたとされている右兵衛佐佐理(書道で名高い佐理とは別人)は、この直後に出家し比叡山に登り、その妻も続いて尼になった。
佐理は藤原時平の孫、権中納言敦忠(あつただ)の子。藤原北家の主流が時平の系統から弟の忠平の流に移り、将来を期待できなくなったことも一因かも知れない。
しかし、それと同時に、冷泉天皇の狂気の歌声を聞き、つい先ごろまでの華やかな村上朝の宮廷と思い比べて、それを悲しみ嘆き、世の無常を感じて出家に踏みきったと考えることもできる。

右大臣師尹(もろただ)
師輔の同母弟で48歳。同母兄師氏は7歳年長。天暦2年(948)、師尹は兄師氏を含めて先任者5人を飛びこして権中納言に昇任し、以後この差を守り続ける。躍進の理由は不詳であるが、才能も野心もあり、「腹悪シキ人」という後人の批評もある。
師尹も娘の芳子(ほうし)を村上天皇の後宮に入れた。これを宣耀殿の女御と言い、容貌すぐれて美しく、美人の絶対条件であった髪の長さは有名であった。縁側から車に乗ると、身体は車に入っても髪の先は廊下を越して内の柱の辺までと届くとか、髪一筋を抜いて大形の檀紙に置いてみると、紙の全面を覆い尽して白い所が見えなかったいう話も伝わっている。また、『古今集』20巻、1,100首を暗誦しているという特技があった。
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