2012年9月30日日曜日

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林 ヤマハギ(マメ科)

ヤマハギ(マメ科) 東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林

放射能汚染 埼玉県横瀬町の野生キノコ 基準値超セシウム(240ベクレル)検出

毎日JP
野生キノコ:横瀬産、出荷自粛 セシウム、基準の2.4倍検出 /埼玉
毎日新聞 2012年09月29日 地方版

 県は28日、横瀬町北部の山林で採取された野生キノコのウズハツから、一般食品の基準値(1キロ当たり100ベクレル)の2・4倍に当たる同240ベクレルの放射性セシウムが検出されたと発表した。県は同町産の全ての野生キノコを対象とし、同町とちちぶ農業協同組合(JAちちぶ)に対し出荷と販売の自粛を要請した。県内の農林産物が新基準値を超えたのは今シーズン初めて。

 県によると、同町内の男性が26日に、このウズハツを採取した。社団法人「農林水産・食品産業技術振興協会」のホームページによると、ウズハツは夏~秋に広葉樹に生え、傘の表面に渦巻き状の模様があり、淡黄褐色をしているのが特徴だ。

 野生キノコは、放射性セシウムを取り込みやすく、昨年度の調査でも暫定規制値(1キロ当たり500ベクレル)を下回っていたが、3検体が新基準値を超えていた。生産管理されている原木シイタケなどからは、これまで基準値を上回る放射性セシウムは検出されていない。【木村健二】

自民党の安倍晋三総裁、憲法改正を次期衆院選の争点にする考えを示す

毎日JP
安倍自民総裁:「改憲が次期衆院選の争点」
毎日新聞 2012年09月30日 18時35分

 自民党の安倍晋三総裁は30日、京都府綾部市で講演し、憲法改正を次期衆院選の争点にする考えを示した。安倍氏は「まずは96条から始めたい」と述べ、憲法改正の発議に衆参各議院の3分の2以上の賛成と定めた憲法96条の改正に意欲を表明。「3分の1をちょっと超える国会議員が反対すればできない。そう思っているような横柄な国会議員には、次の選挙で退場してもらいたい」と語った。

 安倍氏はまた、「教育再生にこれからも取り組んでいきたい。そのためにも何としても政権奪還したい」と野田政権を早期の衆院解散・総選挙に追い込む決意を改めて示した。【佐藤丈一】


「橋下行政に異議あり」(「朝日新聞」9月30日「意見広告」)

この意見広告に全面的に賛同する。



日本維新の会のこれから 「選挙直後に党内に国会議員と地方議員・首長のグループ対立という危機が訪れる。」(内田樹)


内田樹の研究室

2012.09.30
日本維新の会のこれから
で、

内田樹さんが、
「選挙直後に党内に国会議員と地方議員・首長のグループ対立という危機が訪れる。」
と予想。

何人当選するか知らぬが、それら国会議員団の長とハシモトとの関係、
或いは、例えば、堺市議と「ぽっと出」の国会議員との関係、
などなど不安定要因は多い。

かと言って、
ハシモトが国会に出れば、大阪市長は「維新」以外の候補者がとる確率が現実的に大きい。

どうするかな?

原子力規制委・揺らぐ公開性 「赤旗」を会見から排除(東京新聞)

東京新聞 9月28日
原子力規制委・揺らぐ公開性 「赤旗」を会見から排除

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「拒む理由が日々変わる」
この排除の理由
「特定の主義主張」→「政党機関紙」→「会見場の狭さ」
と日替わりメニューらしい。

余程自信がないと見える。
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原発再稼働 判断めぐり政府と原子力規制委で異なる見解

毎日JP
原発再稼働:判断めぐり政府と原子力規制委で異なる見解
毎日新聞 2012年09月29日 20時53分(最終更新 09月29日 21時36分)

 原子力発電所の再稼働を認める判断を誰が行うのか、政府と原子力規制委員会の見解が分かれている。政府は「再稼働は、規制委が安全基準に基づいて判断するのがルール」(野田佳彦首相)と、規制委の役割だと主張規制委は「安全性は判断するが、再稼働の判断はしない」(田中俊一委員長)との立場だ。責任の押しつけ合いにも見える状況に、原発が立地する自治体からは戸惑いの声も上がっている。

 枝野幸男経済産業相は28日の記者会見で、「原発の安全性について(規制委の)ゴーサインが出て、自治体の理解が得られれば、重要電源として活用する」と述べた。安全性を地元自治体に説明するのは「電気事業者だ」という。

 原子力規制委は来春までに原発の新しい安全基準を策定した上で、既存の原発の安全性を判断する。しかし、田中委員長は「私たちが再稼働の是非は判断しない」と説明し、規制委には原発の安全性を専門的に判断する権限しかないことを強調している。


 今年7月の関西電力大飯原発3、4号機の再稼働では、政府が関係閣僚会合で安全性や必要性を判断し、地元の了解もとりつけた。枝野氏は28日の会見で「規制委が安全性を判断する以上、内閣の誰かが『この原発は安全だ』と説明することはできない」と述べた。自民党などの「規制委は独立性の高い機関にすべきだ」との主張を受け、規制委が内閣から独立した「3条委員会」として19日に発足した経緯があるためだ。

 北海道電力泊原発が立地する北海道の高橋はるみ知事は26日の記者会見で「規制委と政府が再稼働についてキャッチボールしている」と、戸惑いを隠さなかった。「原発の再稼働をどちらが判断するのか」などを今後、政府に確認していく考えだ。【丸山進】

長保元年(999) 彰子の裳着 内裏焼亡 新制十一ヶ条

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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長保元年(999)
1月
・長保に改元。疫病流行の縁起直し。
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2月9日
・道長の娘彰子(しようし、12歳)の裳着(もぎ)が多くの公卿・殿上人を集め盛大に行なわれた。
女院東三条院や東宮などから贈り物があり、右大臣・内大臣以下公卿はこぞって道長邸にやってきた。

裳着:
初めて裳をつけ、成人の服装・髪型になる成人式。

翌々日の11日、頭弁藤原行成(ゆきなり)が勅使として来て、彰子を従三位に叙すとの勅命を伝えた。入内を予定してのこと。
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3月
・この月、
維衡・致頼を召し上げ、検非違使庁で訊問が行なわれ、維衡のみが過状(かじよう、罪を認める状)を提出。
3月26日、明法博士令宗允政(よしむねのただまさ)を召して罪名を勘申させる。(『権記』)。
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5月5日
・左大臣道長以下9人の公卿が左杖座に着して陣定が開かれ、維衡・致頼の合戦について「法家の勘申」の通り罪を定むことが決まった。(『権記』)。
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6月14日
内裏が焼亡
一条天皇は里内裏の一条院へ移り、しばらくそこを御所とする(退位後もそこに居住する)。
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7月
・この月、藤原行成は権僧正観修(かんしゆ)と同車して仏師康尚宅に赴き、そこで世尊寺に安置する大日如来・普賢菩薩・十一面観音各一体の造り始めの儀を行ない、あわせて先日発願した不動明王を拝している。

世尊寺は、行成の創建にかかり、母方の父源保光の旧宅を寺にしたもので、行成の子孫の書道の流を世尊寺流と称する所以である。(藤原行成の日記『権記』)。

康尚は、正暦2年(991)から約30年間、宮中や世尊寺、浄妙寺、無量寿院、比叡山、高野山など権力の中心での造仏の事績が伝わり、藤原氏とくに道長や行成に重く用いられた。
活躍した期間は、ちょうど道長の時代に重なる。
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7月11日
・天皇の御前で公卿が集まり造内裏定を行なう。

造内裏定:造内裏の行事(責任者)の決定、諸国への造営箇所の割当ての会議。

この時あわせて、「倹約の事」「仏神事違礼(例)」「美服を制す」「約倹を行なふ」事を公卿が定めたと『権記』『小右記』が記している。
内裏再建でものいりであり、諸国は疲弊しており(疫病が連年流行していた)、綱紀を粛正し、倹約しようという。
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7月21日
・天皇から道長に勅問があり、翌日陣定を開き新制十一ヶ条が下される。

この時の太政官符(27日付)
一、神事違例を慎むべき事
一、重ねて神社の破損を禁制すべき事
一、重ねて仏事違例を禁制すべき事
一、慥(たし)かに修理を加ふべき定額(じようがく)諸寺堂舎の破損の事
一、重ねて禁制すべき僧俗故紙りして京に住み、及び車宿りと号する京舎宅の事
一、重ねて故無く意に任せて穢(けがれ)に触るる輩を禁制すべき事
一、重ねて男女道俗美服を著すを禁制すべき事
一、重ねて禁制すべき金銀薄泥を以て扇・火桶に画き及び六位螺鈿(らでん)の鞍を用ゐる事
一、重ねて六位己下の乗車を禁制すべき事
一、重ねて禁制すべき諸司・諸衛の官人の饗宴・碁手の輩の事
一、重ねて禁制すべき主計(しゆけい)・主税(しゆぜい)二寮の官人、前分勘料と称して、多く賂遺(ろい)を求め、国公文(くもん)を抑留する事

前半6条は神事と仏事を励行することを命じ、次の4条は服などの華美の禁止など官人の綱紀粛正、最後の1条は主計寮・主税寮の官人が前分(手数料=賄賂)をうけとり、国司交替の財政文書の審査に不正を行なうことを戒めている。
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7月22日
・陣定において、天災(内裏焼亡)により維衡・致頼を赦すべきかが天皇から議題として下されたが、もしも内裏焼亡で罪を赦したら今後内裏に火を付けられてしまうという公卿の意見により却下された。(『権記』)。
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2012年9月29日土曜日

東京 江戸城(皇居)汐見坂とススキ

江戸城(皇居)汐見坂とススキ 2012-09-26
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写真左端の切れた部分に開花前の赤い彼岸花が。

ノストラダムスの生涯(2) 宗教から自由に、権力からしたたかに生きたフランス・ルネサンスの人

東京 工芸館(旧近衛師団司令部)
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ノストラダムスの生涯(2)

 ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)は、1503年12月14日(木曜日)(あるいは23日)正午頃に、南仏プロヴァンスのサン・レミー・アン・プロヴァンス町で誕生(ユリヤヌス暦によると12月14日になり、グレゴリウス暦によると23日)。

祖父ピエールは、15世紀にイタリヤからフランスへ帰化した医者・占星学者であり、ルネ公と呼ばれていたアンジゥー公に仕えていた。ノストラダムスは由緒あるユダヤ系の家門の出である。

 ところが、プロヴァンスで落ち着いた平和な生活を送っていたユダヤ人たちは、ユダヤ教徒迫害から逃れるためには、キリスト教へ改宗せねばならなくなる。
シャルル8世とルイ12世よって、アンジゥー地方・メーヌ地方が王領に併合されるにつれて、王権拡大のための財源を求める必要から、さまざまな課税が制定され、同時にユダヤ人の迫害も行われた。
改宗せねば着のみ着のままで追放されることになるため、ピエール・ド・ノートルダムは、他のユダヤ人資産家たちと同じく、潔く改宗して、自分らの財産と地位とを守り了せた。
そして、その子ジャーク(公証人)は、同じ改宗ユダヤ人で、父ピエールと同じ職業に携わっていたジャン・ド・サン・レミーの娘ルネと結婚し、その間にミシェル・ド・ノートルダムが生れた。

 ノストラダムスは、幼時から学問好きで、外祖父のジャン・ド・サン・レミ-から様々な学問の手ほどきを受けるが、特に数学・占星学・医学を教えられた。
青少年時代は、当時の多くの学生同様にフランス各地の大学を遍歴し、アヴィニョン、トゥルゥーズ、ボルドー、モンペリエで研究し、イタリアにも赴く。そして、1529年には医学博士となる。

 アヴィニョン時代のノストラダムスは、雲は海から吸いあげられてできるのではなく、地上の蒸気が集まってできるものであるとか、地球は丸いものだと説いて、驚異の的となったという。

 1537、8年頃、新教の盛んなアジャンにいて、新教的傾向の強いユマニスト、ジュール・セザール・スカリジェやフィリベール・サラザンと親交を結び迫害の危機に直面する。
祖父以来ユダヤ人として迫害され、せっかくキリスト教に改宗したのに今度は新教徒として迫害されそうになった。
この事件以来、ノストラダムスは新教的だと誤解されるような言動は一切慎む決心をした。
当時、何人もの人は、誠実に考えて末に新教徒になり、進んで迫害も受けたが、ノストラダムスにとっては、もう迫害はたくさんだった。

 著者はこう言う。
「世のなかの人々が、雲は地上から上る蒸気であることも、地球は丸いことも、十分に考えようともせぬころに、少年のくせに新知識を持っていたノストラダムスにしてみれば、信仰問題で人間が人間を迫害したり殺戮したりすることは、まさに児戯に類する愚挙と思われたかもしれないのです。そして、相手が愚劣で乱暴な子供のような人々ならば、何もまじめに良心問題など持ち出す必要はなく、大人らしくうまくやって、こっちはこっちのことをするまでのことと考えたのかもしれません。事実ノストラダムスは、死ぬまで、カトリック信者としてなすべきことは一切果たします。」

 「<三位一体>の幻義を真面目に疑い続けて、新旧両派から迫害されたミシェル・セルヴェを異端とするならば、もはや宗教に拘泥することを好まぬノストラダムスは超異端だったかもしれないのです。彼は、愚劣な迫害を避けるるために、フランスの国教カトリック教徒となり、更に、宗教戦乱の激しさから身を守るために、人間の弱点を衝く方法を考え出したのかもしれません。」

 彼は、一人前の医者となってからは、各地に頻発した黒死病防疫のために転々として旅をし、黒死病は「神の怒り」とされて、消毒法・防疫法など考えられなかった時代に、ごく初歩な消毒法を行い、各地(エクス、リヨン)で相当な成功を収めたと伝えられている。

 1547年頃、防疫のためにプロヴァンスの小さな町サロンへ出張した際、アンヌ・ボンサールという未亡人と結婚してこの町に落ち着いてしまう。
彼は、既に一度結婚して2子を儲けていたが、1538年頃に、最初の妻も子供たちも病死している。再婚してからは、6人の子供をもうけた。

 サロンで名医として信望された彼は、病気の診断や処方に際し、出生時星位の計算を加えたので、「サロンの町の星占いの医師」として有名になってしまった。
占星学を加味したことは、いんちきな診断・治療を行うためではなく、これまで研究してきた古代からの占星学を真面目に医学に取り入れようと考えたと思われる。

 1552年頃から、このサロンの町でも新教徒と旧教徒との血みどろな争闘が繰り返されるようになる。
サロンの新教徒には、貴族や有識階級の人々が多く、旧教徒は一般町民や農夫たちからなっていたため、騒動が起ると、民衆は、「新教徒を倒せ!」と叫びながら、新教徒と見なされた有産階級の人々の家を襲撃した。

 最も有名な例は、1560年頃の「灰色外套騒動」。サロンの農民たちが灰色の外套を着ていたことから、こう名付けられた。

 ノストラダムスは、新教徒からはカトリック派と見なされていたし、無知な市民や農民は、同じカトリック教徒であるにもかかわらず、また病気治療や農作や結婚や失せ物の行方などについてノストラダムスに「診察」してもらっていたにもかかわらず、彼を新教臭のある人物と見なし、更に、「魔法師」「異端」という罵りを浴びせ白眼視する場合もあった。

1550年、ノストラダムスは、当時流行した「暦」を作り天文占星の常識の普及化を企てた。
1552年4月1日、『化粧用品・果物砂糖煮について』を上梓しフランス全土にその名が知られるようになった。この著書は、白粉(おしろい)とかクリームとかの化粧品の製造法やその特殊な効力をのべたり、媚薬や強精剤や栄養保健用のジャムの作り方などを説明したもので、家庭衛生治療書として大好評だった。(1555年再版後も度々版を重ねる)

 著者は言う。
「このような書物が人々の要求にこたえたのは、申すまでもなく、病気とか死とかに対する予防治療を教えたという点でしょうが、そのほか、《星占いの医師》たるノストラダムスの名声があずかって力があったわけでした。」

 アンリ2世、同王妃力トリーヌ・ド・メディチ、その王子フランソワ2世・シャルル9世、その他フランス王室の人々も、外国宮廷の人々も、「なかば真面目に、なかば好奇心にかられてノストラダムスを招いたり、あるいは自らこれを訪れたりしました。」

 占星学に凝ったカトリーヌ・ド・メディチ太妃には特に信任され、1555年8月、パリに上京することを求められ、次いで、プロワの離宮に迎えられ、1564年には「王附医師」の称号を与えられる。
ノストラダムスがサロンへ隠退した後にも、1564年10月、カトリーヌ太后は、シャルル9世及びアンリ・ド・ナヴァール公(後のアンリ4世)と共に、ノストラダムスを訪れている。

 著者は言う。
「一般町民や農民たちのノストラダムスに対する関心も、王族や貴族たちに劣りませんでした。カトリーヌ・ド・メディチが、自分の子供たちの運命とヴァロワ王朝の将来について下問すれば、田舎娘は自分を棄て去った情夫の行方を質問するという有様でした。しかし、ノストラダムスは、あらゆる質問に丁寧には答えなかったそうですし、全く返事をしないこともありましたし、既に記したような謎の託宜を下すこともあったということです。いつの間にか、ノストラダムスは、何か神秘的なヴェールで自分を包む必要のあることを悟り、そのように振舞うようになっていたのかもしれません。

 広い知識探求の一端に置いたつもりの占星学研究が、いつの間にか、ノストラダムスの本業であるらしく人々には思われてきた上に、いつの間にか、これに神秘的な色合をも加えられるようになったノストラダムスに関しては、さまざまな物語が言い伝えられるようにもなってしまいました。」

 「一五五五年に『予言集』を発表した意図は、もちろん明らかには忖度(そんたく)できませんが、自分の研究の成果の公表と、ミスチフィカシヨン(他人を煙にまくこと)と、占術亡者を厄介払いすることとを兼ねていたかもしれません。そして、こうした研究へ没頭するノストラダムスの心根も、推量しにくいと思いますが、純粋な学者としての興味と、無知蒙昧な時代の人間どもに対する一種の復讐の快感とが、ふたつとも心中にあったのかもしれません。(・・・)人々の恐れる未来への関心を自分一人の掌中に集めてしまうことは、勝利と復讐との緒にもなるからでした。」

 ユダヤ教徒として祖父や親が受けた迫害、新教徒として「師匠あるいは彼が兄事した人々」が受けた迫害;
①祖父や父が受けたシャルル8世治下1488年の迫害から1542年発布「ユダヤ人迫害禁止令」までの様々な迫害。特に、1512年には改宗ユダヤ人さえも迫害された。
②エラスムスが書いたギリシャ語の手紙を所持していたばかりに逮捕された博識な人格者ジャン・ド・パンの例(1528年)
③誠実なジャン・ド・カオールの刑死(1532年)
④温厚なジャン・ド・ポワソンネの逮捕(1532年)

著者は言う。
「こうした蒙昧な狂信の犠牲とならぬようにするために、ノストラダムスは忠実なカトリック教徒として行動し続け、国教に従い、その旨を宣伝し続け、その結果、医学・薬学・占星学の研究に没頭できれば幸いと思ったわけなのでしょう。
しかし、深い学問や一般の人々よりも進んだ知識を持つことが、もはや世の人々には気に入らぬようになることがあるものです。
新旧両派の殺人ごっこの間に、ノストラダムスは身の置き場に苦しむようになったこともしばしばありました。新教徒からは、陰険な旧教徒と見なされますし、旧教徒からは、本心はルッター派かユグノー派かのにせカトリックだとまで思われたばかりか、ふしぎな透視力を持つ人間として「魔法師」「異端」ともよばれるようになりました。
ノストラダムスは、恐らく、そのいずれでもないのであり、ただ狂信と迫害とは御免だったのでしょう。そして、その犠牲とならぬための自己防衛の道は、自ら進んで気味の悪い「魔法師」「異端」となり、人々の心の弱点を衝き、人々の精神の盲点を掴むことにあったわけでした。
そして、その点彼は成功したらしく思われます。これによく似た別の例は、この時代の東洋学者ギヨーム・ボステル(第七章を参照)に見られるかもしれません。」

喘息を病み通していたノストラダムスは、1566年6月17日、死期の近いのを悟り、遺言状を作る。現金だけでも、3,444エキュにのぼる莫大な財産を持っていた。7月2日朝、63歳で歿。

著者は言う。
「ユダヤ人ノストラダムスは、フランス・ルネサンスの著名な人々のなかに異様な姿を見せています。世間一般の人々よりも違った軸によって思考するということもユダヤ的と言えるならば、ノストラダムスにもモンテーニュにも、一貫したものがあるような気がします。
私は先に、ノストラダムスを「超異端」と呼びましたが、それは、ルネサンス期に異端視された他の人々よりも、更に別な次元に彼が生きているように思われたからです。
他の人々は、異端視されると反抗したり弁明したりして、その結果、迫害されたり刑死したりしている場合もありましたのに、ノストラダムスは、自分を異端視する人々の心に宿る弱点を掴み、異端視されるがゆえに畏敬されるという結果を招来しえたようにも思われます。
他の人々にとっては、宗教はおそらく倫理の中軸、思考の中心にあったのでしょうが、ノストラダムスにとっては、宗教は一個の約束にすぎなかったかもしれません。
宗教が思想問題の軸となっている時代に、これほど「異端」的な考え方はないわけです。
そして、こうした見方が許されるとするならば、ノストラダムスをこのような立場に赴かせたもののなかには、ユダヤ人としての特異な血液や、早く生れすぎた聡明な人間の血液があるのではないかとも思います。しかし、また全然別な考え方もできるかもしれません。
即ち、ノストラダムスの場合も、産をなした中産・有産階級の人間が、ただ安穏な現状維持を願い、一見異常に見える方法で何とか成功した多くの例中の一つの平凡な例であるかもしれない、という風に。(nov.1947.mars.1964)
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フランス・ルネサンスの人々 (岩波文庫)


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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(40) 「第2章 もう一人のショック博士 - ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その10)

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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(40) 
「第2章 もう一人のショック博士
 - ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その10)

1970年、チリ、大統領選挙で人民連合のサルバドール・アジェンデが勝利
 一九七〇年、チリでは大統領選挙で人民連合のサルバドール・アジェンデが勝利し、同政権はそれまで国内外の企業が支配していた経済の主要な部分を国有化する政策を打ち出した。
 アジェンデはラテンアメリカの新しいタイプの革命家の一人だった。チエ・ゲバラと同じく医者だったが、アジェンデはロマンティックなゲリラと言うより、気さくな学者といった雰囲気を漂わせていた。
 フィデル・カストロに勝るとも劣らない激しい調子で街頭演説を行なったが、チリにおける社会変革は武装闘争ではなく選挙によってもたらされるべきだという信念をもつ、徹底した民主主義者でもあった。

米ニクソン大統領、「経済に悲鳴を上げさせろ」
 アジェンデが大統領に当選したことを知ったニクソンが、リチャード・ヘルムスCIA長官に「経済に悲鳴を上げさせろ」と命じたというのは有名な話だ。

「右派の間では軍事力による政権奪回も時に話題に上る」
この選挙結果はシカゴ大学経済学部にも波紋を広げた。
アジェンデが当選したとき、たまたまチリにいたアーノルド・ハーバーガーは本国の同僚に手紙を書き、選挙は「悲惨」な結果に終わったこと、そして「右派の間では軍事力による政権奪回も時に話題に上る」と書いている。

アメリカ実業界はアジェンデ政権に宣戦布告
 アジェンデは資産や投資に損失を出した企業には適正な補償を行なうと約束していたものの、アメリカの多国籍企業はチリの新政権を皮切りにラテンアメリカ全体に新たな潮流が生まれることを危惧し、その多くはこの地域で増大しつつあった収益を失いたくないと考えていた。
 一九六八年の時点で、アメリカの海外投資の二〇%はラテンアメリカに向けられ、米企業がこの地域に持つ子会社は五四三六社を数えた。
 こうした投資は膨大な利益をもたらした。
アメリカの鉱山会社はそれまでの五〇年間に、チリの銅鉱業(世界一の規模を持つ)に一〇億ドルの投資を行なったが、そこからじつに七二億ドルの収益を得ていたのである。

国際電話電信会社(ITT)
 アジェンデが当選すると、アメリカ実業界は就任式を待たずにアジェンデ政権に宣戦を布告した。
その中心となったのはワシントンに本拠を置くチリ特別委員会だった。
メンバーはチリに子会社を持つアメリカの大手鉱山会社や、委員会の事実上のリーダーであり、まもなく国有化されるチリの電話会社の株式を七〇%保有していた国際電話電信会社(ITT)などである。プリナ社、バンク・オブ・アメリカおよびファイザーケミカル社も、さまざまな段階で代表を送っていた。

経済的崩壊を突きつける
 この委員会の唯一の目的は「経済的崩壊を突きつける」ことによって、アジェンデに国有化を思いとどまらせることにあった。
その方法について、彼らは多くのアイディアを持っていた。
機密解除された会議の議事録によれば、メンバーの企業はアメリカからチリへの融資を阻止したうえで、「アメリカの大手民間銀行にも同様にするようひそかに促し、外国銀行筋にも同じ考えに立って協議する。向こう半年間はチリから物品を買うことを控える。チリから銅を買わずに、アメリカの銅備蓄を使用する。チリに米ドルの不足状態を作り出す」ことを目指すとしている。

オルランド・レテリエル駐米大使
 方法はこれだけにとどまらなかった。
アジェエンデは親しい友人であるオルランド・レテリエルを駐米大使に任命し、彼がアジェンデ政権の破壊工作を目論む企業を相手に土地収用の条件を交渉するという任務を負うことになった。
レテリエルは陽気で外向的な性格で、いかにも七〇年代風の顎ひげを生やし、素晴らしい歌声の持ち主でもあったため、外交官仲間の間でも大変好かれていた。息子のフランシスコにとってもっとも懐かしい思い出は、ワシントンDCの家に友人たちが集まり、父親がギターを弾きながらフォークソングを朗々と歌っていたことだという。だがレテリエルの人間的魅力と技量をもってしても、交渉が成功する見込みはまったくなかった。

ITTによる反アジェンデ陰謀の暴露
 一九七二年三月、レテリエルとITTとの間で切迫した交渉が行なわれている最中、ジャック・アンダーソンという全米配信の新聞に寄稿するコラムニストが資料に拳つく暴露的な連載記事を発表した。
二年前、ITTとCIAおよび国務省との間で、アジェンデの大統領就任を妨害する秘密計画が企まれたというのだ。
この記事を受け、民主党が多数を占めるアメリカ上院が調査に乗り出した結果、大規模な陰謀の存在が明らかになった。ITTがアジエンデの反対勢力に一〇〇万ドルに上る賄賂の提供を申し出、「チリ大統領選の結果を操作する秘密計画にCIAを引き込もうとした」というのである。

「チリ軍隊内部の信頼できる筋に連絡を取り(中略)アジェンデへの不満を増大させることによって、その追放を必然的なものにすること・・・」
 一九七三年に発表されたこの上院の報告書によれば、ITTは秘密計画が失敗してアジェンデが大統領に就任することが明らかになった時点で新たな戦略を立て、アジェンデを「半年のうちに失脚させる」よう画策した。
上院にとって何より憂慮すべき事実は、ITTの幹部と米政府との関係だった。
証言と証拠資料の両方から、ITTがアメリカの対チリ政策の立案に関して、最高レベルで直接関与していたことが明らかになった。
 ある時点で、ITTの幹部役員の一人は当時の国家安全保障担当大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーに書簡を送り、「すでにチリへの提供が約束されたアメリカからの援助基金はすべて、アジェンデ大統領には知らせることなく、「再検討」状態に置かれるべきである」と述べている。
 さらに同社は、ニクソン政権に対して一八項目から成る戦略を勝手に用意したが、そのなかには次のような明白な軍事クーデターの要請も含まれていた。「チリ軍隊内部の信頼できる筋に連絡を取り(中略)アジェンデへの不満を増大させることによって、その追放を必然的なものにすること…‥・」

「ナンバーワン企業を大事にすることの、どこが悪いのですか?」
自社の経済的利益を増進するために米政府の力を利用してチリの合憲的プロセスを転覆しようという、なんとも恥知らずな策動について上院委員会から追及されると、ITTの副社長ネッド・ゲリティはきょとんとした表情で、こう問うた。
「ナンバーワン企業を大事にすることの、どこが悪いのですか?」。
同委員会は報告書に、これに対する答えを記している。「たとえ「ナンバーワン」であっても、アメリカの外交政策の決定に関して必要以上に関与することは許されない」

アジェンデ政権は磐石:より過激な計画が必要だ
 しかし、何年にもわたるアメリカによる執拗なまでの不正工作(ITTはそのなかで、もっとも詳しく調べられた一例にすぎない)にもかかわらず、一九七三年、アジェンデは依然として政権の座にあった。
八〇〇万ドルの秘密資金をもってしても、彼の権力基盤を揺るがすことはできなかった。
それどころかこの年行なわれた中間選挙では、アジェンデの党は一九七〇年の大統領就任時よりも得票数を増やした。資本主義とは異なる経済モデルへの願望がチリに深く根を下ろし、社会主義に対する支持が増大しているのは明らかだった。
これは一九七〇年の大統領選以来、アジェンデ政権の転覆を策謀してきた反対派にとって、ただ単にアジェンデを追放しただけでは問題は解決しないことを意味していた。
誰か別の人物が彼に取って代わることが必要だった。
より過激な計画が必要とされていたのだ。


アメリカのクリントン国務長官、尖閣問題に関して日本に対し、慎重な行動を要求


日経新聞
米国務長官「日本は尖閣で慎重に」 対中外交で注文
2012/9/29 11:34

 【ニューヨーク=中山真】玄葉光一郎外相は28日午前(日本時間同日深夜)、ニューヨーク市内のホテルでクリントン米国務長官と会談した。長官は沖縄県の尖閣諸島を巡る最近の日中関係に関し「より注意深く、慎重かつ効果的に」行動するよう求めた。日中関係の悪化が東アジア全体の安全保障に影響を与えかねないとの強い懸念から日本の対中外交に注文をつけた格好だ。

 日本政府は尖閣諸島の国有化など日中関係に影響を与える対応について随時、米側に説明している。日中両国の対立を巡り、米政府内では中国への批判がある一方、日本に関しても尖閣国有化のタイミングなどについて批判的な声が根強い。クリントン長官の発言は悪化した日中関係の改善に向け日本側にも具体的な行動を求めたものだ。

 会談で玄葉外相は日中関係について「譲れないものは譲れないが、創意と工夫を持って日中関係の大局的な観点を見失うことなく冷静に対応していく」と日本の立場を説明した。島根県の竹島を巡る韓国との関係に関しても、27日の日韓外相会談で双方が緊密に意思疎通していくことで一致したと伝えた。

 玄葉外相とクリントン長官はその後、韓国の金星煥(キム・ソンファン)外交通商相を交えた日米韓3カ国の外相会談に臨んだ。クリントン長官は冒頭、北朝鮮の核開発問題での連携に加え、竹島を念頭に「紛争の平和的解決を図るため、どう各国が責任を果たすか議論したい」と強調。そのうえで米国の同盟国である日韓両国の積極的な対話を促した。

 北朝鮮問題を巡っては中国やロシアとも協力しながら、日米韓として北朝鮮に非核化に向けた具体的な行動を求めていく方針を確認。玄葉外相は日本と北朝鮮による政府間協議の現状を説明し、米韓両国と緊密に連絡を取りながら進めていく方針を示した。

*
*

火をつけたのは石原で、アメリカのヘリテージ財団(ロムニー支持)で。
拡大した火事に対して、民主党政権に注文をつけたのはクリントンさん。
ちょっとだけのネジレがある。
イシハラ、何しとる。

放射能汚染 福島県郡山市の牛肉 基準値超セシウム150ベクレル検出

MSN産経
福島の牛肉で150ベクレル 3例目、出荷を自粛
2012.9.29 19:24
 福島県は29日、郡山市の農家が出荷した牛肉から、食品の新基準値(1キログラム当たり100ベクレル)を超える150ベクレルの放射性セシウムが検出され、出荷自粛を要請したと発表した。
 福島県の牛肉の100ベクレル超えは4月以降で3例目。牛肉の新基準値は10月1日から適用だが、県は新基準値を基に全頭検査を続けている。
 昨年7月まで与えていた汚染された稲わらが原因とみている。

中国紙が米有力2紙に、「尖閣、日本が強奪」と全面広告

時事ドットコム
「尖閣、日本が強奪」と全面広告=中国紙が米有力紙に掲載

 【ワシントン時事】28日付の米紙ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストに、「釣魚島(沖縄県・尖閣諸島の中国名)は中国領」と題する広告が掲載された。広告主は中国の英字紙チャイナ・デーリー。同諸島は「いにしえより中国固有の領土であり、争いの余地なく主権を有する」と主張し、「日本が強奪した」と非難している。
 広告は、タイムズ紙は見開きの2ページを全て、ポスト紙は大部分を使い、尖閣諸島のカラー写真を掲載。1403年の文書に島の存在が記録され、明の時代(1368~1644年)には施政権下にあったと断定している。
 また、「日清戦争の結果、日本に強奪されたが、第2次世界大戦後に中国に返還された」と主張。日本政府の国有化は「中国の主権を激しく侵し、反ファシスト戦争(第2次大戦)の勝利を踏みにじるものだ」と訴えている。
 これを受け、在米日本大使館と在ニューヨーク総領事館はポスト、タイムズ両社にそれぞれ「事実に反する一方の主張を載せるのは不適当だ」と申し入れた。ポスト社は「広告の内容は社の立場を反映していない」と回答したという。
 藤崎一郎駐米大使はこの日の記者会見で、「日中間で大きな問題になっている時に誤解を与える。看過できない」と語った。 (2012/09/29-09:12)


28日付の米ニューヨーク・タイムズ紙(右)などに掲載された、
中国が沖縄県・尖閣諸島の領有権を主張する新聞広告

「福島県の子どもたちは幸せですね。・・・数学に科学に放射線に強くなれる。世界一の教育が受けられるようになります」(山下俊一)


先に
「DAYS JAPAN」10月号は見所満載 おススメです
と「DAYS JAPAN」10月号の宣伝(?)をした。

中でも、「告発された医師 山下俊一教授 その発言記録」という特集は、
資料的価値も大きい。

今日は、この許せない医師の発言の中でも、特に許せない発言(の一部)を
この特集の中の
佐藤幸子「子どもの命は預けられない」から
ほんの一部だけ紹介したい。

<転載>
(段落、改行を施した)
(略)
 あちこちで何度も山下氏の講演を聞いていた男性が質問したときには「二本松の会場にいた人です。この人は喜多方の人ではない」と質問に答えませんでした。
 その後、司会者から「喜多方以外の人は質問しないように」と質問者の制限がされました。

 そして、最後の質問は教員。
 「この会場に来ている方が、もし山下氏の教え子だとして何かメッセージを」。

 答えは、
「福島県の子どもたちは幸せですね。これから皆さんには線量計が配られるでしょう。自分で測って、計算して、数学に科学に放射線に強くなれる。世界一の教育が受けられるようになります」
と言ったのです。

 この答えに私は頭に血が上りました。
「被曝したことが、幸せ。これから被曝し続けることが幸せ」だと断言したのです。
山下氏をアドバイザーとして福島県に置いておくわけにはいかないと思いました。

 この質問をしたのは、私の後ろの席に座っていた3人のうちの1人です。
講演会終了後、この教員に「私の子どもを安全な会津に転校させたいから、学校名を教えて欲しい」と詰め寄ったのですが、それには答えず、そそくさと会場から立ち去りました。

 3人のこの態度で確信しました。
質問も答えもあらかじめ用意されていたのだということを。
こんなことをしてまで、行政は何を守ろうとしているのか
山下氏の言いなりになっているのか。
全く理解できませんでした。
(略)
<転載おわり>

2012年9月28日金曜日

中国の反発の大きな要因の一つ 胡国家主席が面目を潰されたこと

NHKニュース
中国元外相“主席 面目潰された”
9月28日 6時45分

中国の唐元外相は、沖縄県の尖閣諸島を巡って中国が激しく反発している大きな要因の1つは、胡国家主席が直接、野田総理大臣に反対すると伝えた直後に、日本政府が尖閣諸島を国有化し、面目を潰されたことだと明らかにしました。

これは、唐元外相が27日夜、日本側の友好団体の代表らと夕食を共にする前に明らかにしたものです。
その席にいた自民党の加藤紘一元幹事長によりますと、唐元外相は今月9日、APEC=アジア太平洋経済協力会議の首脳会議が開かれたロシア極東のウラジオストクで、胡国家主席が直接、野田総理大臣に尖閣諸島の国有化に反対すると伝えたにも関わらず、その直後の11日に日本政府が尖閣諸島を国有化したと指摘しました。
そのうえで、唐元外相は「中国側は面目を潰された」と述べて怒ったということで、尖閣諸島を巡って中国が激しく反発している大きな要因の1つは、胡国家主席が面目を潰されたことだと明らかにしました。
唐元外相は、このあと開かれた夕食会では、比較的和やかな雰囲気だったということですが、参加した関係者の間では、中国側の反発の厳しさは予想以上で、関係の改善は容易ではないという見方が広がっています

*
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これは遠藤誉さんの説(↓)に該当する。
反日デモの背景 発火点は野田総理と胡錦濤国家主席の「立ち話」(遠藤誉 日経ビジネスオンライン)
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東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林 ヤマホトトギス


ヤマホトトギス 江戸城(皇居)二の丸雑木林

「暮らしの手帖」に麻里ちゃんがエッセイを書いていて、・・・「雨音だけが聞えるサイト」について言及・・・これがよいのです。」(内田樹)

■内田樹さんのツイター

内田樹 ‏@levinassien
「暮らしの手帖」に麻里ちゃんがエッセイを書いていて、そこにrainy mood という「雨音だけが聞えるサイト」について言及がありました。開いてみたら、これがよいのです。ときどき雷も鳴るの。気持ちが鎮まります。http://www.rainymood.com/ 
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ホント、これ(↓)いい。おススメ。
rainy mood という「雨音だけが聞えるサイト」
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「安全性について原子力規制委員会からゴーサインが出て、地元の了解を得られれば、原発を重要電源として活用するのは政府方針だ」(枝野経済産業相)

読売オンライン
原発再稼働、政府は関与せず…枝野経産相

 枝野経済産業相は28日の閣議後記者会見で、原子力発電所の再稼働について、「安全性について原子力規制委員会からゴーサインが出て、地元の了解を得られれば、原発を重要電源として活用するのは政府方針だ」と述べた。
 その上で、地元から了解を得るのは「(電力)事業者だ」と指摘し、政府が再稼働に関する判断を行わない考えを示した。
 枝野氏は、再稼働に対する政府の役割が「原発活用の必要性を自治体に説明する」という側面的なものにとどまるとの見解を示した。ただ、立地自治体からは、政府が原発の安全性に責任を持つことを求められる可能性もある。
(2012年9月28日18時53分  読売新聞)

「国は人間の心があるのかと思うことを平気でやる。・・・今なお沖縄を切り捨て、本土の安全を守ろうとしている」(名護市 稲嶺進市長)

沖縄タイムス
オスプレイ反対集会3日目 第3ゲート300人
2012年9月28日 10時27分
(10時間2分前に更新)
 【宜野湾】オスプレイ配備に反対する9・9県民大会実行委員会は28日午前、宜野湾市野嵩の米軍普天間飛行場第3ゲート(野嵩ゲート)前で3日目の抗議集会を開いた。市民や共同代表、国会議員、県議、市町村長や議員ら約300人が参加。同飛行場の辺野古移設に反対する名護市の稲嶺進市長や比嘉祐一市議会議長ら13人が駆け付け、オスプレイ配備やさらなる基地負担に反対を表明した。

 稲嶺市長「国は人間の心があるのかと思うことを平気でやる。行政マンではなく、行政マシンだ。心も血も通っていない。今なお沖縄を切り捨て、本土の安全を守ろうとしている」と国の姿勢を痛烈に批判した。

 ホワイトビーチなどを抱えるうるま市の島袋俊夫市長は「基地が街づくりの大きな障害になっている。これ以上の負担は容認できない」と断言。「沖縄から基地の負担を排除し、固定化を許すな」と訴えた。

 儀間光男浦添市長は「政府が安全を宣言しようが、オスプレイはいらない。普天間飛行場を機能させてはならない。日米両政府が断念するまで、わたしたちは断念するわけにはいかない」と決意した。

 共同代表の喜納昌春県議会議長は「日米両政府のぶざまな矛盾が日ごとに出ている。普天間の閉鎖・返還を勝ち取り、辺野古にも基地を造らせない。最後まで一糸乱れず頑張ろう」と呼び掛けた。

1757年(宝暦7) 諸国大水害 奥羽飢饉 7年戦争(プラハの戦い・コリンの戦い) インド・プラッシーの戦い【モーツアルト1歳】

東京 北の丸公園
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1757年(宝暦7)
3月
・郡上一揆。入用金の徴収。
3月7日~、帳元から郡中の立ち百姓に入用金の割当がなされる。明方筋では、何百人もの立百姓が何日も泊りがけで割当金を徴収する。
9日、立百姓3千余人が城下町の名主の家などで入用金の取立てを図る。
20日、上之保筋の百姓が、未納者の家を回り、入用金を取り立てる。
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・春、7年戦争、プロイセン軍のプラハ侵攻
オーストリア軍総司令官カール・アレクサンダー公子(皇帝フランツ1世弟)は、後見役マクシミリアン・ユリシーズ・フォン・ブラウンの進言(フリードリヒ大王が攻勢をかける前に攻め込んで主導権を握り、ベーメンではなくザクセンを戦場とすべき)を採用せず。
一方、前年の先制攻撃に成功しているフリードリヒ大王はオーストリア軍が広く分散宿営している点に着目し、冬営を畳み、4個軍団が東西2方向から同時にプラハに前進。
大王直率軍団とアンハルト=デッサウ軍団がザクセンから、シュヴェリーン軍団とベーヴェルン軍団がシュレージェンからプラハへ侵攻。
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3月28日
・土佐藩、家臣からの借用米についての規則を定める
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4月
・諸国大水害。
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・4月~5月、江戸霖雨。
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4月21日
・7年戦争。ライヘンベルクの戦い。
前年に引き続き先手を取られたオーストリア軍は、分散されたまま部隊退却させ、この日にはライヘンベルクで戦う。オーストリアの敗北。
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5月
・大雨で尾張等で洪水。322,300余石が被害。
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5月1日
・第2次ヴェルサイユ協定締結。
オーストリア・フランス防御同盟を(対プロイセン)軍事同盟に変える新同盟締結。プロイセンを包囲。プロイセン側はイギリス・ハノーファーのみ。
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5月4日
・常陸で洪水。
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5月6日
7年戦争、プラハの戦い
プロイセン軍、プラハ包囲。プロイセンのシュヴェリーンが戦死。

プロイセン軍がプラハに侵攻しオーストリア軍と対峙。
オーストリア軍は、プラハ城内に兵1万5千を入れ、残り6万でその東に布陣。
プロイセン軍、ヤーコブ・フォン・カイトを分派してヴルタヴァ川左岸からプラハを抑え、主力6万4千をオーストリア軍に向ける。

プロイセンのフリードリヒ大王は敵片翼へ集中攻撃を行うことが多く、今回もシュヴェリーンにオーストリア軍右翼攻撃を命じる。シュヴェリーンが主攻を担い、その左翼をハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテンの騎兵隊が援護。
オーストリア軍はプロイセン軍による右翼攻撃に対応し、急ぎ部隊を移動させ相対し、L字型陣形をとる。
プロイセン軍はオーストリア軍の砲撃・猛射をうけ、ウィンターフェルトは被弾し後送され、シュヴェリーンもまた被弾し戦死。
オーストリア軍もブラウンは被弾しプラハに送られる。
オーストリア軍右翼はプロイセン軍の攻撃を防ぎ、反撃しプロイセン軍を圧迫。しかしその間、右翼・中央間に間隙が生じる。
フリードリヒ大王は左翼部隊を立て直し、第2戦列を投入。ベーヴェルン、ブラウンシュヴァイク、ハインリヒ王子らが、オーストリア軍左翼を攻撃しつつ、中央の間隙に向かって攻勢に出てオーストリア軍を分断。
ツィーテンの騎兵部隊はオーストリア軍最右翼を突破し、後方に傾れ込み、オーストリア軍の混乱を助長させる。結果、オーストリア軍は崩れ、大半はプラハ城内に逃げ込む。

プロイセン軍は、オーストリア軍カールと兵4万をプラハに包囲し、大王はカールに対して降伏を勧告。カールはメーレンのダウン軍の救援を期待してこれを拒否。
オーストリア軍損害1万7千、プロイセン軍損害1万4千で、戦術的にはプロイセン軍の小勝利であるが、オーストリア軍主将カールと主力4万を包囲下に置くことができ戦略的には大勝利。
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5月29日
・加賀で大雨により金沢城下で被害。
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6月
・イギリス、ピット・ニューカースルの連立政権成立。
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6月3日
・郡上一揆。
駕籠訴人の切立村喜四郎と前谷村定次郎の連名で村々へ回状。
一揆不参加者(寝者)排斥。「寝者たち本人とその子供や家来とは、たとえ路地で出会っても決して挨拶もしてはならない。この回状を村々で写しておき、仲間のひとりひとりに読み聞かせるように。」という厳しいものであり、寝者やその家族は疎外されてしまうことになる。
この月、庄屋をはじめ立者への仲間入りが急増
下旬には、一揆費用のための徴収金が1,100両を超える。
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6月12日
・江戸雷雨。

奥羽飢饉
米沢藩、「宝五の飢饉」と呼ばれる大飢饉に、宝暦7年(1756年)の水害が原因とされる飢饉が続く。宝暦7年において前年比で米沢藩政史上最大減の3762人減、宝暦3年(1753年)から宝暦10年(1760年)までの7年間に9699人の人口減少
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6月15日
・江戸大雷雨、江戸城中など所々落雷。
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6月18日
・7年戦争、コリンの戦い。
プロイセン・フリードリッヒ大王、プラハ東方コリンでプラハ救援に来たレオポルト・ダウン将軍指揮オーストリア軍と戦い最初の大敗北。
プロイセン軍はプラハの包囲を解いてザクセンへ敗走。シュレジエンを失い、東プロイセンにはロシア軍、ボメルンにはスウェーデン軍、ハノーファーにはフランス軍が侵攻。

オーストリアはプロイセンに対して初めて勝利、以降プロイセンは守勢にまわる。
プロイセン軍は、プラハの戦いでオーストリア軍を破り、プラハを包囲していたが、ダウン率いる援軍が着陣した為、大王は軍の一部によりこれを牽制。
ダウンは一度後退するが、増援を得て兵5万で再びプラハに接近。
大王はこれを阻止すべく兵3万2千で決戦。
6月18日、大王は、プラハ東方コリン郊外の丘に布陣するオーストリア軍の側面を攻撃。ダウンは反撃し、プロイセン軍は大きな損害を出して敗退。
大王はプラハ攻略を諦め、ボヘミアから撤退、逆にオーストリアが攻勢に出る。
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6月19日
・幕府、氾濫河川の普請のための検分に人を派遣する。
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6月23日
インド、プラッシーの戦い(イギリス・フランス植民地戦争)。
クライヴ率いるイギリス軍、フランスの軍事支援を受けたムガル帝国ベンガル太守の大軍を撃破。

プラッシー(ベンガルのナディヤ地方バンギラティ川畔、カルカッタ北)。
ベンガル進出を狙うイギリス東インド会社は、フランスの攻撃に備える為、前年、太守スィーラジュ・アッダウラの許可なくカルカッタ城塞を強化しようとする。
太守は工事中止を要請するが、拒否され、カルカッタを占領。
東インド会社はマドラスのクライヴに援軍を要請、この年カルカッタを奪回。太守はシャンデルナゴールに拠点を置くフランスに接近。
6月23日未明、両軍はプラッシーで対峙。
太守軍7万(フランス兵40と重砲含む砲53門)に対し、イギリス軍は約3千(欧州人兵士950・セポイ2,100と砲9門・砲兵100)と劣勢であるが、クライヴは太守軍参謀長(前太守)ミール・ジャーファル(歩兵3万5千・騎兵1万5千)に対し反乱を工作、夕方には一方的にイギリス軍が勝利。
太守シラージュは処刑され、ミール・ジャーファルが傀儡としての太守に就任。
イギリスは多額の賠償金、カルカッタ周辺24郡のザミンダーリー(地租徴収権)を獲得し、ベンガル支配権を確立。

ガンジス川下流域のベンガル地方は、絹・木綿の産地で、藍・アヘンなどの集散地でもある。
ムガル帝国はこの地に太守を置いているが、ヒンドゥー諸勢力の抵抗で分裂状態となり、各地の太守は実質的に独立勢力化している。
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6月26日
・安芸で洪水と高潮。27,118戸が被害。
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6月26日
・イギリス軍、ハノーファーでフランス軍を破る。
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2012年9月27日木曜日

サラリーマンの平均年収、平成元年の水準にまで下がる。

NHKニュース
サラリーマン 平均年収下がる
9月27日 18時17分

去年のサラリーマンなどの平均年収は、前の年を下回る409万円となり、平成元年と同じ水準にまで下がったことが国税庁の調査で分かりました。

国税庁が、去年1年間を通して民間企業で働いた会社員やパート従業員ら4566万人を調べたところ、平均年収は、前の年より3万円少ないおよそ409万円でした。
これは、ピークだった平成9年の467万円に比べると、およそ58万円少なく、平成元年と同じ水準にまで下がっています。
業種別では、電気、ガスなどが713万円と最も高く、次いで金融、保険が577万円、情報通信が570万円となっています。

最も低かったのは、アルバイトの比率が高い宿泊、飲食サービスの230万円でした。

また、年収が200万円以下だった人は1069万人に上り、全体に占める割合は23.4%と前の年より0.4ポイント増えました。一方、1000万円を超える人は、全体の3.9%に当たる178万人余りと4年ぶりに増えていて、前の年に比べて格差が開いた格好です。

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林 ツリガネニンジン

ツリガネニンジン 江戸城(皇居)二の丸雑木林

「古い船をいま 動かせるのは 古い水夫じゃないだろう」(吉田拓郎「イメージの詩」)



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*
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「古い水夫」たちが跋扈している。

古い船には新しい水夫が
乗り込んで行くだろう
古い船をいま 動かせるのは
古い水夫じゃないだろう


「イメージの詩」 吉田拓郎

これこそはと 信じれるものが
この世にあるだろうか
信じるものがあったとしても
信じないそぶり
悲しい涙を流している人は
きれいなものでしょうネ
涙をこらえて笑っている人は
きれいなものでしょうネ

男はどうして女を求めて
さまよっているんだろう
女はどうして男を求めて
着飾っているんだろう
いいかげんな奴らと口をあわせて
おれは歩いていたい
いいかげんな奴らも口をあわせて
おれと歩くだろう

たたかい続ける人の心を
誰もがわかってるなら
たたかい続ける人の心は
あんなには 燃えないだろう
傷つけあうのがこわかった昔は
遠い過去のこと
人には人を傷つける力があったんだろう

吹きぬける風のような
俺の住む世界へ
一度はおいでヨ
荒れはてた大地にチッポケな花を一つ
咲かせておこう
俺もきっと君のいる太陽のあるところへ
行ってみるヨ
そして きっと言うだろう
来てみて良かった 君がいるから

長い長い坂を登って
後を見てごらん 誰もいないだろう
長い長い坂を下りて
後をみてごらん
皆が上で 手をふるサ
きどったしぐさがしたかったアンタ
鏡を見てごらん
きどったアンタが映ってるじゃないか
アンタは立派な人サ

空を飛ぶのは鳥に羽があるから
ただそれだけのこと
足があるのに歩かないおれには
羽も生えやしない

激しい激しい恋をしているおれは
いったい誰のもの
自分じゃ 言いたいのサ
君だけのおれだと 君だけのものだと
裏切りの恋の中で
俺は一人もがいている 
はじめから だますつもりでいたのかい
僕の恋人よ

人の命が絶える時が来て
人は何を思う
人の命が生まれる時には
人はただ笑うだけ

古い船には新しい水夫が
乗り込んで行くだろう
古い船をいま 動かせるのは
古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も 新しい船のように
新しい海へ出る
古い水夫は知っているのサ
新しい海のこわさを

いったい
俺たちの魂のふるさとってのは
どこにあるんだろうか
自然に帰れっていうことは
どういうことなんだろうか
誰かが言ってたぜ
俺は人間として 自然に生きているんだと
自然に生きるって
わかるなんて
なんて不自然なんだろう

孤独をいつの間にか
さびしがりやと かんちがいして
キザなセリフをならべたてる
そんな自分を見た
悲しい男と悲しい女の
いつもひとりごと
それでも いつかは
いつものように 慰めあっている

*
*

ワタシ的には、この(↓)フレーズが好きだけど。
長い長い坂を登って
後を見てごらん 誰もいないだろう
長い長い坂を下りて
後をみてごらん
皆が上で 手をふるサ


「朝日新聞」論壇時評2012-09-27 高橋源一郎 変化を求めて 「暴論」じゃない、まともだよ。

「朝日新聞」論壇時評2012-09-27 高橋源一郎

変化を求めて
「暴論」じゃない、まともだよ。

読んだ人の多くは「なんて暴論を吐くやつだ、けしからん」というかもしれない。
でも、ぼくは、逆に、これはほんとうに考え抜かれた発言だと思った。

①東浩紀「僕は福島第一原発観光地化計画を提案します」

(週プレNEWS http://wpb.shueisha.co.jp/2012/09/04/13790/)
週刊プレイボーイのインタビューに答えて東浩紀は「福島第一原発観光地化計画」(!)を提案している。
それは、例えば「フクイチの近くからiPhoneをかざすと」、特別な技術で「爆発の様子が再現されて、モクモクと煙が上が」り、「体験施設の地面が揺れて、ガイガーカウンターの数値がぐんぐん上がって」いくような、そしてそこに来た若者たちが「ヤバイよ!」というような観光施設だ。
これが、奇矯に聞こえ、批判を呼ぶことを承知した上で、東さんはあえて発言している。
それは、「原発事故」(を含む東日本大震災)に関して、いちばん避けたい事態は「忘れる」ことであると、よく知っているからだ。

日本人は「忘れる」ことの名人だ。
戦争や悲惨な公害の惨禍も、ぼくたちは喉元を過ぎると、日常の暮らしの中で、いつしか忘れてしまう。
このままでは、きっと「フクシマ」も「津波の被害」も忘れてしまうにちがいない。
だから、東さんは、日々の消費の欲望のただなかに「フクシマ」を据え、忘れられないものにしようとした。
繰り返していうけれど、それは考え抜かれたものなんだ。

今月はなんといっても「尖閣」「竹島」を中心にした領土問題が論壇誌だけではなく、メディアの報道の中心となった。
そして、その多くは「我が国の領土」を守るために、どのように中国や韓国に対するか、というものだった。
中には、「日中もし戦わば」といさましいものまである。

②孫崎享「米国は尖閣諸島を守ってくれない」(週刊ポスト9月7日号)
③孫崎享『日本の国境問題』(ちくま新書、昨年5月刊)
その中で、異彩を放っているのが、元外務省国際情報局長・孫崎享の発言だ。
孫崎さんは、いざとなってもアメリカは尖閣を守ってくれない、という。
あるいは、豊富な資料をもとに「尖閣諸島は日本古来の領土である」という前提には根拠がない、ともいう。
まことにもって、ギョッとするような「暴論」ではありませんか。
しかし、孫崎さんは、「領土」問題に関しては専門家中の専門家なのである。

たとえば、同じ敗戦国のドイツは、「領土」に対してどんな態度をとることにしたか。
敗戦後、ドイツは、膨大な国土を失った。
人の住まぬ岩礁ではない。
ドイツ語を話す人々の住む土地を、である。
だが「ドイツは歴史の中で新しい生き方を見いだした」、「失ったもの(領土)は求めない、その代わり欧州の一員となりその指導的立場を勝ち取る」ことにした、と孫崎さんは指摘する。
そのドイツの戦後の「国家目標」が、ぼくたちの国では「暴論」に聞こえてしまうのが、なんだか哀しい。

*****      *****    *****

④杉田敦「『決められない政治』とポピュリズム」(世界10月号)
いまの政治システムがおかしいことは、みんなわかっている。
杉田敦は、いわゆる「決められない政治」が跋扈する理由は、「多数派」に負担を回すことができないので(そんなことをすると選挙で落ちるから)、政治家たちは、「後世」という「外部」へ、そのつけを回そうとするからだ、という。

⑤大竹文雄「選挙は民意を正しく反映するか」(中央公論10月号)
あるいは、大竹文雄は、「選挙は民意を正しく反映するか」という問いに、やはり多数派が、心地よい、「つい信じてしまいそうな主張」に動かされやすいことが、とりわけ「瀬戸際に立たされた政治家」に影響を与える、と指摘する。

どちらの意見もその通りだと思う。
では、なにも変わらないのは、なぜなのか。
(政治家たちに)変える気がないからじゃないだろうか。
選挙区の定数を一つ二つ削減することさえできない人たちに、それ以上の変化を求めるのは、そもそも無理なんだろうか

⑥片山杜秀『片山杜秀の本5線量計と機関銃』(アルテスパブリッシング、7月刊)
片山杜秀は、「議会の任期は一年」「比例代表選拳のみ」という、あっと驚く改革案を紹介している。任期が1年ぐらいじゃないと複雑な現代社会に対応できないし、比例代表(当然、任期中は公約を変えられないという前提で)じゃないと、せっかく投票したのに勝手に政策を変えられてしまうから、というのだ。
この(ぼくの考えでは)まともすぎる「暴論」を提案したのは、日本政治史上最大の「暴論」、「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉だそうです。
いまから、七、八十年前に、ここまでいっていたんだ。
ちなみに、片山さんは、いちど「内閣などをぜんぶ、女性に変えてしまう」ことを提唱していて、それは、「子供を産むとか、育てるということを本気で考えていない男の社会」がかくも悲惨な結果を招いたからだというのだが、これも、ぼくには「暴論」ではなく、ものすごくまともな意見に聞こえるんですけれどね。

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⑦内藤朝雄「法の介入、学級制度廃止でいじめの蔓延を食い止めろ」(中央公論10月号)
最後に、教育のことを。
内藤朝雄は「いじめの蔓延」を食い止めるために、「法の介入」と「学級制度の廃止」を提案し、同時にその実現は困難をきわめるだろうと書いている。
これを読んで、「学級制度の廃止」だけではなく、さらに進んで、学年も、試験も、宿題も、通知簿も廃止して、その結果、いじめを実質的に根絶している、「きのくに子どもの村学園」の学園長、堀真一郎さんと話した時のことをぼくは思い出した。
そのあまりにラディカルな(つまり「暴論」といっていい)教育理念を、文部科学省は支持してくれて驚いた、と堀さんは言った。
「抵抗があるのは、実は、現場の自治体や教師や親の方なのです」
ぼくたち自身の中に、「変化」を拒むなにかが存在しているのだ、と。

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論壇委員が選ぶ今月の3点

小熊英二=思想・歴史
・鈴木尭博「高尾山天狗裁判 『行政裁量』の壁との闘い」(世界10月号)
・赤石千衣子「民主党政権は母子家庭の貧困を救えたのか」(現代思想9月号)
・森川すいめい「障がいをもったホームレス者がいる町で」(同)

酒井啓子=外交
・孫崎享『戦後史の正体』(創元社)
・河野洋平 インタビュー「日本外交に理性と誠実さを」(世界10月号)
・塚田晋一郎「戦後日本初の海外軍事基地」(同)

菅原琢=政治
・杉田敦「『決められない政治』とポピュリズム」(同)
・「原発事故から1年半で見えてきた放射能汚染の”正体”」(週刊ダイヤモンド9月15日号)
・NHKスペシャル「シリーズ東日本大震災 追跡 復興予算19兆円」(9月9日放送)

清野智史=メディア
・竹内洋「『国民のみなさま』とは誰か」(中央公論10月号)
・辻村みよ子「カウンター・デモクラシーと選挙の効果的協同へ」(世界10月号)
・大竹弘二「公開性の根源(連載第3回)」(atプラス13号)

平川秀幸=科学
・辻内琢也「原発事故避難者の深い精神的苦痛」(世界10月号)
・除本理史「原発避難者に迫る補償打ち切り」(同)
・難波美帆「民主主義が問われる夏」(シノドス・ジャーナル、http://synodos.livedoor/biz/archives1973868.html)

森達也=社会
・田岡俊次「中国海軍『強大』の幻想」(AERA9月10日号)
・デビッド・T・ジョンソン「アサハラを殺すということ」(世界10月号)
・孫崎享『戦後史の正体』(創元社)
※敬称略、委員50音順

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担当記者が選ぶ今週の論点
領土問題における外交の欠如

尖閣諸島や竹島という「領土」についての議論が集中するなか、「外交」の意味を問う論考が目を引いた。

東郷和彦「日本の国益のために戦略的な対応を」(週刊金曜日8月24日号)は、実力行使を主張する風潮を「保守の『平和ボケ』と言われてもしかたがない」と批判する。
領土問題の存否や従軍慰安婦問題の解決で長期的な戦略の必要性を説く。
外相などを務めた河野洋平は「防衛問題が前面に出て、外交が後ろに退がって傍観しているような状況」と外交の欠如に苦言を呈した(世界10月号)。

お笑い芸人の母親の受給を巡る報道で、注目が集まった「生活保護」。
岩田正美「生活保護を縮小すれば、本当にそれで済むのか?」(現代思想9月号)は、バッシング対象のこの制度が貧困問題を一手に引き受けている現状に言及。
今の社会保障制度のいびつさを浮き彫りにする。
POSSE編集部「15分でわかる生活保護」(16号)は非難や中傷に陥りやすい議論を回避すべく、データや論点を整理して改めて提示した。

辻内琢也「原発事故避難者の深い精神的苦痛」(世界10月号)は、独自の調査結果を踏まえ、被災者に今、必要なのは心のケアに止まらない「社会的なケア」だと説く。
これまでの震災と比べても、被災者の心的外傷後ストレス(PTS)の症状が強い背景には、仕事の喪失や生活費の問題、コミュニティーの断裂など、社会的次元での要因があるからだ。

塚田晋一郎「戦後日本初の海外軍事基地」(同)はアフリカ・ジブチにある自衛隊の「海外基地」の存在を問題にしている。
ジブチとの「地位協定」は問題含みで検証が必要とする。
米国議会の報告書では、日本の戦後初の海外基地だが「(国内で)論争にはなっていない」と指摘されているという。

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イラク派遣の自衛隊員25人自殺 防衛省「因果関係は不明」

47ニュース
イラク派遣の自衛隊員25人自殺 防衛省「因果関係は不明」
 イラク派遣を経験した自衛隊員のうち、陸自19人、空自6人の計25人が2005年度から11年度の間に自殺していたことが27日、防衛省への取材で分かった。
 防衛省は「個別の原因は答えられないが、借金や家族関係の場合もあり、派遣との因果関係は分からない」としている。
 防衛省によると、陸自からは04~06年に約5500人、空自からは04~08年に約3600人が派遣された。陸自はイラク南部サマワを州都とするムサンナ州で主に医療支援や道路の補修に携わり、空自は隣国のクウェートを拠点にイラクへの米兵や物資の輸送活動を展開した。
2012/09/27 11:54   【共同通信】

中日新聞
イラク派遣後、自衛官25人自殺 
2012年9月27日 11時27分
 2003年に米国主導で始まったイラク戦争に関連して、中東へ部隊派遣された自衛官のうち、先月までに25人が帰国後に自殺していたことが防衛省への取材で分かった。陸上自衛隊は19人、航空自衛隊は6人に上る。防衛省は「イラク派遣との因果関係は不明」としている。
 陸自は04~06年、イラク南部のサマワに計5500人を、空自は04~08年、計3600人をクウェートに派遣した。海上自衛隊は現地駐留せず自殺者もいなかった
 自衛隊全体の11年度の自殺者は78人で、自殺率を示す10万人あたり換算で34・2人。イラク特措法で派遣され、帰国後に自殺した隊員を10万人あたりに置き換えると陸自は345・5人で自衛隊全体の10倍、空自は166・7人で5倍になる。
 一般公務員の1・5倍とただでさえ自殺者が多い自衛隊にあっても極めて高率。防衛省の担当者は「帰国後、何年も経過した派遣隊員と1年ごとに調べる隊員の自殺者数を比べても意味がない」と反論。派遣隊員が自殺した時期は明らかになっていないが、陸自のイラク派遣期間中の3年間は毎年90人以上が自殺しており、自衛隊全体の自殺者数を押し上げている
(中日新聞)

東京新聞
イラク帰還隊員 25人自殺 
2012年9月27日 07時00分
 二〇〇三年に米国主導で始まったイラク戦争に関連して、中東へ部隊派遣された自衛官のうち、先月までに二十五人が帰国後に自殺していたことが防衛省への取材で分かった。陸上自衛隊は十九人、航空自衛隊は六人に上る。防衛省は「イラク派遣との因果関係は不明」としている。
 陸自は〇四~〇六年、イラク南部のサマワに合計五千五百人を派遣し、空自は〇四~〇八年、合計三千六百人をクウェートに派遣した。海上自衛隊は現地駐留せず、自殺者もいなかった。
 自衛隊全体の一一年度の自殺者は七十八人で、自殺率を示す十万人あたり換算で三四・二人。イラク特措法で派遣され、帰国後に自殺した隊員を十万人あたりに置き換えると陸自は三四五・五人で自衛隊全体の十倍、空自は一六六・七人で五倍になる。
 一般公務員の一・五倍とただでさえ自殺者が多い自衛隊にあっても極めて高率だ。防衛省の担当者は「帰国後、何年も経過した派遣隊員と一年ごとに調べる隊員の自殺者数を比べても意味がない」と反論。派遣隊員が自殺した時期は明らかになっていないが、陸自のイラク派遣期間中の三年間は毎年九十人以上が自殺しており、自衛隊全体の自殺者数を押し上げている。
 イラク派遣された陸自は宿営地で十三回、計二十二発のロケット弾攻撃を受け、うち四発が宿営地に落下した。車両で移動中、仕掛け爆弾による攻撃も受けた。
 空自は武装した米兵をバグダッドへ空輸する際、たびたび携帯ミサイルに狙われたことを示す警報が鳴り、着弾を避けるため、急旋回などの飛行を余儀なくされた。
 過酷な環境下で任務遂行したことになるが、前出の担当者は「心的外傷後ストレス障害(PTSD)で自殺した例は確認できていない」としている。 (編集委員・半田滋)
(東京新聞)
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「因果関係は不明」?
亡くなった人たちが(無意識であれ)残していったメッセージを読めない(読まない)とは,
ムゴスギル。
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大分県中津市の民主党中津支部(約100人)解散、離党。新党「国民の生活が第一に入党。

毎日JP
民主党:大分・中津支部解散 党員100人離党届、「国民の生活」入党へ
毎日新聞 2012年09月26日 西部朝刊
 大分県中津市の民主党中津支部(元支部長=吉冨幸吉・大分県議)は25日、民主党の横光克彦・副環境相(衆院大分3区)の事務所(同県宇佐市)に支部解散届と支部の党員全約100人の離党届を出した。約100人は新党「国民の生活が第一」(小沢一郎代表)に入党し、吉冨氏は同党の九州ブロック大分県支部を創設、次期衆院選で大分1、3区での候補擁立を検討するという。民主離れが地方支部にも波及した形だ。
 吉冨氏は長年、小沢氏を支持しており、既に民主を離党している。今回の解散届について「民主党はマニフェストを守らない。党内融和もせず、他党の力を借り、党の体をなしていない」と理由を説明した。衆院大分2区への擁立は現職がいる社民と調整するという。
 横光副環境相は「残念。組織を立て直す」と話し、民主県連と相談して早急に新たな支部の設立を急ぐ方針。民主県連の小嶋秀行幹事長は解散届について「考え方が違うので仕方がない」としたうえで、大分1、3区への影響は「離党者の数が少なく影響は特段ないのでは」と述べた。【大漉実知朗、土本匡孝】

4月のスマトラ沖地震により、インド洋海底に新たなプレート境界が生まれつつある

47ニュース
スマトラ沖地震で新プレート境界 米国のチームが分析
 インドネシア・スマトラ島沖でことし4月に起きた巨大な地震により、インドやオーストラリアの下にあるプレート(岩板)が割れ、インド洋の海底下に新たなプレート境界が生まれつつあるとの分析結果を、米国のチームが27日付英科学誌ネイチャーの電子版に発表した。
 地球全体は十数枚のプレートで覆われ、その下にあるマントルの対流などに合わせて移動しているとされる。チームの米カリフォルニア大サンタクルーズ校ソーン・レイ教授は「新たなプレート境界ができる過程を検知するのは非常に珍しいことだ」と話した。
2012/09/27 02:00   【共同通信】

2012年9月26日水曜日

東京 桜田濠の彼岸花(曼珠沙華) 今年は、まだまだ。

9月24日(月)、
桜田濠の彼岸花(曼珠沙華)の状況を見に行った。

結果、半蔵門~桜田門の間に、下(↓)の写真にあるものしか確認できなかった。
今年はかなり遅いと思われる。

江戸城(皇居)東御苑や代官町通りなどには、花は咲かないにしても、真っ直ぐに伸びた茎が、もうすぐの開花を期待させるが、桜田濠の畔にはそんな茎さえも確認できなかった。

・・・という訳で、写真の主題は、桜田濠の秋景色となった。



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▼三宅坂の群生ポイントだが、群生を思わせる茎が見えない。


好条件が揃えば、京都から富士山が見えるらしい

京都新聞
京都から富士山見える? 研究者解析、好条件そろえば

 京滋府県境そばの白倉(しろくら)岳(高島市朽木、標高950メートル)や京都府域も含めた周辺の尾根から富士山の頂上が理論上わずかに見えることが研究者の解析で24日までに分かった。空気が澄み切り、遮る木がないなど好条件がそろえば超望遠レンズで見える可能性がある。研究者は「京都から写真を撮影できれば富士山展望史に残る快挙」と情報を求めている。

 著書に「『富士見』の謎」などを持ち、富士山の展望を追い続けている筑波大付属高社会科(地理)教諭の田代博さん(62)がコンピューター解析した。

 地球の丸さや山々の稜線、大気差(光の屈折)などを考慮した「カシミール3D」というソフトで解析し、超望遠レンズ(約1000ミリ)での見え方予想をCG化した。

 解析によると、白倉岳や同岳の一部で南西側の中岳、南岳に連なる尾根の東側から富士山が見える計算になる。伊吹山や南アルプスの山々に視界をさえぎられない奇跡的な地点という。大半は滋賀県域だが、わずかに京都府域も含まれ、田代さんは「京都から富士山が撮れれば史上初」と話す。

 これまで富士山を遠望した写真が撮影された最西端は、和歌山県の色川富士見峠(東経135度50分55秒)。富士山が見える可能性がある白倉岳尾根西端(東経135度51分30秒)は経度でわずかに東だが、「富士山のほぼ真西にあたる意味で意義深い」という。

 滋賀県内からは、三重県境の鈴鹿山脈から富士山の姿が確認されているほか、比良山系北端の蛇谷ケ峰(高島市)からも理論上見える可能性があるという。見え方などの詳細や情報提供は「田代博のホームページ」へ。
【 2012年09月25日 09時23分 】
白倉岳から超望遠レンズで富士山(東)方向を見た予想CG。
好条件がそろえば富士山頂がわずかに見えるという。

1757年(宝暦7) ポルトガルのポルトの民衆暴動 ロシアの7年戦争参戦 【モーツアルト1歳】

東京 北の丸公園
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1757年(宝暦7)
この年
ポルトガル、ポルトの民衆、ワイン売買の自由を求めて暴動
大規模生産者と輸出業者が糾合した「アルト・ドーロ葡萄栽培会社」が、ポンバル侯から様々な特許を得て、ワイン生産・販売に規制・干渉を行う。ポンバル侯は死刑17・流刑130の弾圧。

18世紀前半、ポルトガルのワインの対英輸出は飛躍的に増大するが、その結果、栽培不適切な地域にまで作付け面積が広がり、1750年代初め、ワイン価格は暴落。
また、それに付け込んでイギリス商人はポルトガル人生産者からブドウを買いたたく。
ボンパル侯は、18世紀前半に急増した中小ブドウ生産者からドーロ川上流の大規模生産者を保護する為、「アルト・ドーロ葡萄栽培会社」を設立、ポートワインの銘柄・品質の維持を目的にヨーロッパ最初の生産地指定銘柄制を実施し、指定地域以外のワインをポートワインとして輸出することを禁止。
更に、他地域では小麦耕作が向いているとの口実でブドウ樹を引き抜かせてワイン価格下落を防ごうとする。

[ボンパル侯独裁]
1750年、ジョアン5世に代ってドン・ジョゼ(1750~77)が国王となり、外務・国防大臣にロンドン・ウィーンに勤務経験をもつ小貴族セバスティアン・ジョゼ・カルヴァーリョ・イ・メロ(後のボンパル侯爵)が登用される。
カルヴァーリョ・イ・メロは、1755年のリスボン大震災の後始末を見事に処理して、国王の絶対的信頼を勝ち取る。王は狩猟・馬術に興じ、国政に無関心で、以後77年ドン・ジョゼ没までボンパル侯が絶対的な権力を振い国政全般を取り仕切る。

①反王権派(大貴族、イエズス会)弾圧。ボンパル侯が失脚時に釈放された政治犯800、独裁期間中の獄死者2,400。イエズス会は追放、財産没収(1759)。異端審問所を国王裁判所に再編、弟パウロ・カルヴァーリョを長官に任命。
②経済的対英従属脱却。「商業評議会」の設立(1755)。商人にも貴族特権である限嗣相続財産設定を認める。新旧キリスト教徒の差別廃止。植民地貿易特権会社設立(ブラジル貿易の為のグランパラ・イ・マラニャン会社(1755)、ベルナンブ・コ・イ・パライーバ会社(1759)、ブラジル捕鯨会社(1756)など)。
③工業化推進。原料輸入・税制上の優遇措置、製品の一定期間の販売独占権付与、外国人技術者招聘、中小マニュファクチュア優遇、ギルドの一部廃止など。
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1月
・沢田東江「異素六帖」刊行、江戸洒落本の初め。
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・医学寮再春館が発足
肥後の領主細川重賢は、すでに私塾(復陽堂)を持ち、細川重賢を治療し、信頼がある村井見朴(けんぼく)に対して、重賢は宝暦6年12月、医学寮を作ることを命令し、現在の熊本市二本木に宝暦7年1月19日、再春館が発足した。見朴は筆頭教授。
当時の校舎の図面が残されているが、多くの寮をもち、また講堂、植物園を備えている。
宝暦6年12月21日付細川家文書が残っている。
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1月5日
・フランス、ロベール・フランソワ・ダミアン、ルイ15世暗殺を企図、失敗。
3月28日(27日とも?)、八つ裂き刑。死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンは処刑の様子について手記を残す。
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1月7日
・郡上一揆。
駕籠訴人が郡上へ送り返される。駕籠訴人を迎える百姓の数知れず、直ちにそれぞれ村の庄屋宅に作られた座敷牢に監禁される(村預け)。
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1月17日
ロシア・ポーランド・スウェーデン、プロイセンに宣戦布告。7年戦争参戦。
7年戦争は、ヨーロッパでは、イギリス・プロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン(1762年参戦)・ドイツ諸侯との間で戦われ、北アメリカ、インドなどでは、イギリス・フランス間で陸海に渡って戦われる。
プロイセン・オーストリア戦争を第3次シュレージエン戦争、北米でのイギリス・フランス間戦争をフレンチ・インディアン戦争(1755年9月~)、インドでの戦争を第2次カーナティック戦争とも呼ぶ。

[これまでの経緯]
プロイセンのフリードリヒ大王は農業生産力の高いザクセンの兵站基地化を狙い、1756年8月29日、先制攻撃をかけ、全ザクセンを占領、これを兵站基地化する。
10月1日、オーストリアはザクセンを救援しようとするが、プロイセン軍はロボジッツの戦いでザクセン・オーストリア軍を撃破。プロイセンはオーストリアの同盟国ザクセン公国救出の企図を阻止。
その後、オーストリアは自国での防備を固める。プロイセンはシュレージェンとザクセンで、オーストリア軍はベーメンとメーレンで夫々冬営に入る。
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1月21日
フレンチ・インディアン戦争。かんじきの戦い。
ロジャーズ・レンジャーズとフランス、インディアン同盟軍の小規模戦闘。
ロバート・ロジャーズと兵たちは、1月21日に、シャンプラン湖に面したカリヨン砦で偵察遠征を行い、フランスの正規軍とヌーベルフランスの民兵、そしてインディアンによる混成軍を待ち伏せしていた。
日没頃、戦闘は終わり、両軍でそこそこの死傷者。

フランス側は、イギリス軍(ロジャーズ・レンジャーズ)はかんじきを履いていたため、雪の上の戦いにかなり有利であったと主張。
イギリスは、インディアンとの同盟関係は弱く、レンジャー(猟兵)の偵察力と情報収集能力に援助を仰ぐ。これによりレンジャー組織が作られ、ロバート・ロジャーズが指揮官となり、最終的にはロジャーズ・レンジャーズとして知られるようになった。
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「近々、(橋下徹と)論戦をしにうかがいたいと思います。・・・スチュワーデスっぽい格好をして行ったらいいですか?」 → 記者が謝罪して終戦


ハシモトなどという男のことは、
考えるとムカつく、気分が悪い。
考えたり、書いたりするだけ、時間も無駄というものだ。

まあ所詮、数年で自壊するだろう、と見ている。

しかし、今日、
朝日記者「人間としての怒りが抑えられません。ふざけんな。出て来い!」
というフレーズには反応した。
こいつ、どこまで下品なんやと。

ところが、驚いたことに、
例によって、ハシモトがキレたんではなくて、
ハシモトが女性記者にこう言われたという。

経緯は下(↓)をご覧戴きたい。
もちろん、蔭ながら女性記者を応援する。

しかし、
コイツは、「勝ち」「負け」しか頭にないので重々ご注意を。

J-CASTニュース
橋下大阪市長ウォッチ 
元慰安婦に面会の意向「心情、苦労は承知している」
2012/9/25 17:49

   大阪市の橋下徹市長が、いわゆる従軍慰安婦問題をめぐる1993年の「河野談話」の見直しを求めていることに関連して、市長は2012年9月25日朝の囲み取材で、元慰安婦の要請に対し「しっかり耳を傾けないといけないと思っている」とし、面会する意向を示した
   元従軍慰安婦の女性は9月24日に大阪市役所を訪れていたが、橋下市長が登庁しない日だったため、面会できなかった。

   橋下市長は、
「僕自身が重要な発言もしているし、慰安婦の方が、『どうしても僕に言いたい』ということであれば、直接うかがおうと思っている」
「慰安婦になられた方の心情、ご苦労は当然、認識・承知しているつもり」
などと元慰安婦の女性にも理解を示しながら、
「日本国家が暴行、脅迫、拉致という形で国際社会から非難を受けるような強制連行をやったという証拠はないというところは、しっかりお伝えしながらも、慰安婦の方の意見には、しっかり耳を傾けないと思っている」
と、従来の主張を繰り返した。

朝日記者「人間としての怒りが抑えられません。ふざけんな。出て来い!」

   なお、橋下市長が休日を理由に元慰安婦の女性と面会しなかったことについては、批判的な見方もある。例えば、朝日新聞の阿久沢悦子記者は、
「金福童ハルモニが大阪市役所を訪問。市長に生き証人として、伝えたい事があると。86歳がわざわざ韓国から来たのに、橋下市長は同時刻に自宅でツイッター三昧。記者を外れるけど、人間としての怒りが抑えられません。ふざけんな。出て来い!」
とツイート。同記者は、橋下市長が面会しなかった経緯について、
「1週間前からアポいれしようとしていたのに、公務多忙で時間がないと秘書課が断っていた。なのに、同じ時間にツイッターとはねえ。秘書課もかわいそう。トンデモ上司で」
と明かしている。

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橋下大阪市長ウォッチ 
「記者ってそんなに偉いんですか」 「ふざけんな。出て来い!」朝日女性記者に猛反撃
2012/9/25 20:35

   大阪市の橋下徹市長が休日を理由に元従軍慰安婦の女性と面会しなかったことを、朝日新聞の記者が「ふざけんな。出て来い!」などとツイッターで批判した。
   これに対して、橋下市長も2012年9月25日夜、「それは偉そうすぎるだろ」などと猛反撃した。記者は、記者会見で論戦を挑む構えだ。

「僕がこれまで接した朝日新聞の記者の中では最悪に質が悪い」

橋下市長は「偉そうすぎるだろ」などとツイートで朝日新聞記者を批判した
   橋下市長が批判しているのは、朝日新聞大阪本社の阿久沢悦子記者。阿久沢記者は、橋下市長が元慰安婦の女性と面会しなかったことについて、ツイッターで、
「86歳がわざわざ韓国から来たのに、橋下市長は同時刻に自宅でツイッター三昧。記者を外れるけど、人間としての怒りが抑えられません。ふざけんな。出て来い!」
と批判していた。この発言をJ-CASTニュースが報じたところ、橋下氏がツイッターで記事を紹介した上で、同記者について、
「僕がこれまで接した朝日新聞の記者の中では最悪に質が悪い」
と批判。「出て来い!」発言についても、
「記者ってそんなに偉いんですか?以前、読売新聞の記者が、記者会見で常識はずれの態度をとって叩かれた。阿久沢記者は、完全にその路線です」
「阿久沢記者にとっては、元慰安婦の金さんは僕が絶対に会うべき人物なのだろうが、この人に会うべきだという提案は、たくさん頂いている。阿久沢記者が会えという人に僕が絶対に会わないといけないということか。それは偉そうすぎるだろ」
と噛みついた。また、
「朝日にしてはほんと質が悪い。例のMBSの記者と同じ感じ」
とも書いており、総じて朝日新聞の記者は質が高いと評価しているようだ

女性スキャンダル皮肉って記者会見に「参戦宣言」

   阿久沢記者も、ツイートに返信。「出て来い!」には
「この部分は口が過ぎました」
と陳謝しながらも、

「近々、論戦をしにうかがいたいと思います。聞きたいことは山のようにありますので。スチュワーデスっぽい格好をして行ったらいいですか?

と「週刊文春」が報じた女性スキャンダルを皮肉りながら、記者会見で論戦を挑むことを宣言した。

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橋下市長への「失礼発言」 朝日新聞女性記者が謝罪、ツイッター休止
2012/9/26 18:48

   朝日新聞大阪本社の女性記者のツイッター上の発言に、大阪市の橋下徹市長が「偉そうすぎるだろ」などと反発、市長は朝日新聞記者については「僕のツイッターを基にした議論はしない」と通告した。
   その結果、記者は発言について謝罪したうえ「しばらく頭を冷やし、つぶやきは控えます」と、ツイッターの一時休止宣言に追い込まれた。

「あんたのスチュワーデス姿なんて場末のラウンジのお化け祭り以下だぜ」

橋下市長は、記者が「きっちりと謝罪をした」としてツイッター関連の取材を引き続き受ける意向だ
   橋下市長が「休日」だとしていた2012年9月24日に、元従軍慰安婦の女性が大阪市役所を訪れ、面会ができなかったことが今回の問題の発端だ。その際、朝日新聞大阪本社の阿久沢悦子記者がツイッターで、
「ふざけんな。出て来い!」
などと批判したことに、橋下市長が
「阿久沢記者が会えという人に僕が絶対に会わないといけないということか。それは偉そうすぎるだろ」
などと応戦。阿久沢記者は「出て来い!」の表現については陳謝したものの、記者会見で論戦することを宣言。橋下市長の女性スキャンダルに絡んで、
「スチュワーデスっぽい格好をして行ったらいいですか?」
と皮肉った。
   「売り言葉に買い言葉」の様相で、橋下市長は9月26日、
「おー、来い来い。あのなー、どれだけあんたは自信過剰なんだ。あんたのスチュワーデス姿なんて場末のラウンジのお化け祭り以下だぜ。絶対に着て来いよ!」
と書き込んだ。

朝日新聞からツイッターに関連した質問は受けないことを宣言

   また、橋下市長は
「いずれにしても朝日新聞の阿久沢記者が、僕のツイッターを暇つぶしと言い切ったので、この態度を改めない限り、朝日の記者に対しては、僕のツイッターを基にした議論はしない」
と、朝日新聞からツイッターに関連した質問は受けないことを宣言した。なお、阿久沢記者のツイートでは、少なくとも今回の問題については「暇つぶし」という単語は登場しないが、
「86歳がわざわざ韓国から来たのに、橋下市長は同時刻に自宅でツイッター三昧」
「同じ時間にツイッターとはねえ」
といった批判を展開しており、署名入り記事でも同様の記述がある。
   これ以降、阿久沢記者は防戦に転じた。朝日新聞社のツイッター・ガイドライン(暫定版)では、
「市民としての常識や品位、節度を大切にするのはもちろんのこと、朝日新聞記者として高い倫理をもち、やりとりが建設的なものになるよう努める」
「事実と意見を分けて書くよう努める。発言の裏付けとなる客観的事実、科学的根拠、論理性に気を配り、『知らない』ことについて謙虚さを忘れず、つねに学ぶ姿勢を保つ」
といったことがうたわれており、阿久沢記者のツイートがガイドラインに違反しているとの声が続出。この点については、
「ご指摘を重く受け止めます。以後、ガイドラインに沿った運用を心がけます」
と陳謝した上で、元々の発言についても、
「一連のツイッターの中で橋下市長に失礼な発言をしたことをおわびします。市長ご指摘のとおり、橋下市長のツイッターは重要な取材対象と認識しています。やりとりの中で冷静さを失い、市長をはじめ皆様に不快な思いをさせてしまいました。反省しています。しばらく頭を冷やし、つぶやきは控えます」
と反省の弁を述べた。これを受け、橋下市長は
「朝日新聞の阿久沢記者が自身のツイッターできっちりと謝罪をしたので、以後、朝日新聞の記者からこれまでどおり僕のツイッターを基にした取材を受けます」
と矛を収めた。
*
ハシシタって人は下品だ。
今回のこの返答だけでも、朝日の女性記者への立派なセクハラだ。

そして、
自分は何人もの人たちを抑圧し泣かせてきた権力主義者のくせして、
「大新聞の横暴」の犠牲者ヅラして世間の琴線を共鳴させる、
その手腕やオソロシ。
*
*

中国・反日デモ 「理性愛国」をアピールした中国青年にペットボトルの嵐

山谷剛史 ‏@YamayaT
ロイターによる反日デモの動画。英語動画だと一番よく見られてる動画のようで。注目は40秒から「理性愛国」をアピールした中国青年にペットボトルの嵐。不覚にも見たこと無かった。日本語で検索しても出てこなかったので一応。 http://www.youtube.com/watch?v=kgqUyhG0Zfk&feature=related …


*
でも、彼は投げられたペットボトルを投げ返している。

2012年9月25日火曜日

東京 千鳥ヶ淵戦没者墓苑の彼岸花(曼珠沙華) 2012

昨日(9月24日)昼
千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行った。

10日前の9月14日にも行った(↓)が、
東京 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 彼岸花(曼珠沙華)が咲き始めた 一方でサルスベリ(百日紅)も
この頃と比べると、群生の数は減っていた。
もう終わりに近づいているのかもしれない。

但し、江戸城(皇居)東御苑、北の丸公園、桜田濠などの彼岸花(曼珠沙華)は、まだまだである。
今年はかなり遅いようだ。



いかがなものか 「原発」争点にならない自民党総裁選

毎日JP
特集ワイド:いかがなものか 「原発」争点にならない自民党総裁選
毎日新聞 2012年09月24日 東京夕刊

 何だろう、この違和感は。自民党総裁選。領土問題などで勇ましき言葉が飛び交う一方、原発となると「ゼロは無責任」「時間をかけて議論を」などと口をそろえ、盛り上がらない。安全性も除染問題も何一つ解決していない今、「次の首相」候補に口角泡を飛ばす論戦を期待して、なぜいけないのか。【大槻英二、小国綾子、江畑佳明】

(以下見出しのみ)

 ◇福島からあまりに遠い−−作家・僧侶、玄侑宗久さん

 ◇「ゼロ」の民意、見ていない−−科学史家・吉岡斉さん

 ◇過去の反省ない証拠だ−−衆院議員・亀井静香さん

「・・・現在の自民党は3年前の政権交代で野党になって以降、国民の信を失ったままだという点だ。ボロボロの状態のままだといってもいい。自民党は結局、経済至上主義から抜け出せておらず、それは野党になっても何も変わっていない。そのことに全く気付いていないように見える。
・・・」

放射能汚染 阿見町や竜ケ崎市などの原発事故直後の放出値推定 管理区域の基準値を超過


毎日JP
東日本大震災:福島第1原発事故 茨城・千葉の土壌、10市町で4万ベクレル超 事故直後、管理区域基準超す /茨城
毎日新聞 2012年09月25日 地方版

 茨城、千葉両県の市民団体と常総生活協同組合(本部・守谷市)は、茨城県南部と千葉県北西部の土壌に沈着した放射性物質濃度を調べた結果を発表した。15市町約1000カ所のデータを集約。東京電力福島第1原子力発電所事故直後の放出時の数値を推定し、阿見町や竜ケ崎市など10市町で、平均値が放射線管理区域の基準値(1平方センチ当たり4ベクレル=1平方メートル換算で4万ベクレル)を超す濃度だったとしている。

 土壌の調査は両県の約20団体でつくる「千葉県北西部・茨城県南部の土壌汚染調査プロジェクト」が主体。昨年から今月にかけて、15市町を1キロ四方に区切り、1枠の中から住宅地の空き地や公園など(非除染地点)を選び、1キロを採取。実測値から半減期を逆算し、福島第1原発事故直後の放出時の数値を推定した。

 プロジェクトの脇ゆうりかさん(千葉県松戸市)は「空間線量だけでなく土壌沈着も合わせて、生活圏で最初にどれだけ汚染されたのかを意識し、今後の子供たちの健康調査を見守っていきたい」と話している。

 一方、常総生協は両県の組合員の子供30人を対象に、来月下旬から3カ月ごとに3回の尿検査を独自に始める計画だ。

 原発事故直後の土壌沈着の推計濃度は阿見町(65カ所平均=1平方メートル当たり8万559ベクレル)▽竜ケ崎市(98カ所平均=同5万5558ベクレル)。同生協はデータをホームページで公表した(一部作業中)。【安味伸一】

佐賀県県民世論調査、玄海原発再稼動 反対44%、賛成30%

佐賀新聞
玄海原発再稼働、「反対」44% 「賛成」上回る 
 原子力行政を取り巻く情勢が揺れ動く中、佐賀新聞社の県民世論調査では、玄海原発再稼働について「賛成」30・3%、「反対」44・2%で、反対が13・9ポイント上回った。将来的な原発の比率では「減らして維持」といった“維持派”は45・2%、「即座にゼロ」などの“廃炉派”は47・3%で拮抗(きっこう)。福島第1原発事故を踏まえ、地元の原発再稼働には反対が多い一方、電力供給などの問題もあり、将来的な原発利用については意見が分かれた。
 性別で見ると、玄海原発の再稼働について、女性は賛成23・3%、反対46・3%に対し、男性はそれぞれ38・5%、41・7%だった。年齢別では30~70代以上の各年代で反対が賛成を8・3~24・3ポイント上回ったが、20代は賛成46・8%、反対31・9%で唯一、賛成が多かった。
 将来的な原発比率では、50~70代以上は「今より増やす」「現状維持」「減らして維持」の維持派より、「即座にゼロ」「30年代より早くゼロ」「30年代までにゼロ」「もっと時間をかけてゼロ」の廃炉派が多かった一方で、20~40代は維持派が過半数を占め、若い世代ほど原発が必要と考えている傾向が表れた。
 玄海原発が立地・隣接する唐津市と東松浦郡では再稼働に賛成が36・1%、反対が45・4%で、県全体に比べて賛成がやや多かった。原子力防災対策重点地域が原発の半径8~10キロ圏から30キロ圏に拡大するのに伴い、市全域が30キロ圏内に入る伊万里市は賛成30・0%、反対57・5%。将来的な原発の比率については唐津市、東松浦郡は廃炉派が59・8%で、県全体より12・5ポイント高かった。
2012年09月23日更新

「ホームレス脱原発署名かきくれぬ住所のなきは無効といえり」(神戸市 北野中)  「朝日歌壇」9月24日より       

東京 桜田濠 2012-09-24
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「朝日俳壇」9月24日

日本の山河荒るるや獺祭忌    (静岡市)松村 史基

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獺祭忌(だっさいき):正岡子規の命日

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「朝日歌壇」9月24日

ホームレス脱原発署名かきくれぬ住所のなきは無効といえり  (神戸市)北野 中

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慎太郎 原発へファミリー旅行!?(ゲンダイネット)

ゲンダイネット
慎太郎 原発へファミリー旅行!?
2012年9月21日 掲載

もんじゅ視察に息子を同行
<東京都は「我々は確認していない」>

「まだ公私混同をやっているのか。もう、うんざり」
 東京都庁内を怨嗟(えんさ)の声が渦巻いている。
 石原慎太郎知事は今月6日、福井県敦賀市にある日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」を視察した。会見で「(もんじゅの)廃炉はとんでもない。絶対にしてはいけない」と核燃料サイクルの見直しに反対論をブッていたのだが、ナント、2時間に及んだ視察に、三男・宏高氏と四男・延啓氏が同行していたというのである。
「知事と全く同じスケジュールで動いたわけではないようですが、息子2人が同じ日に『もんじゅ』を視察したのは間違いない。原発関連施設ですから、視察には事前登録など手続きが必要です。元衆院議員の三男と画家の四男は知事の視察に合わせて、セットで施設に入ったのでしょう。家族旅行じゃあるまいし、なぜ一緒に行く必要があるのか」(都庁関係者)
 果たして、旅費などの金は自分で払ったのか。
 かつて石原は、四男を都の美術館の役員にしたり公費で海外出張させ、大バッシングを受けた。ほかにも夫人同伴の海外視察が豪華すぎるなどと、何度も公私混同を批判された男だ。
 
都庁の知事本局政策課に問い合わせると、3時間後にこう回答した。
「もんじゅの視察は、東京都の今後のエネルギー政策を考える目的でした。三男と四男の同行については、都庁の職員ではないので我々は確認していません」
 一緒に行っていないのなら、単純に「同行していない」の一言で済む。長時間、回答を待たせた揚げ句、ずいぶんと回りくどい説明だ。同行職員の人数を尋ねても、「人数については記者クラブにも発表していないので言えません」とウヤムヤなのだ。
 宏高事務所にも、「今月6日にもんじゅを視察したのかどうか」と尋ねたが、電話に出たスタッフは「私はアルバイトなのでわからない。スケジュール担当の責任者の携帯電話番号もわからない」と一方的に受話器を置いてしまった。次の選挙で返り咲きを狙う政治家の事務所とは思えない乱暴な対応だ。
 何か隠したい事情でもあるのだろうか、この“親バカ”ファミリーは。
*
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親バカというけど、
でも、今回ばかりは、親が息子の足を引っ張った。

今回の尖閣問題の口火を切った男の息子が、ひょっとして次期首相!
ケイダンレンその他が、多分、それを許さないだろう。

あるいは、オヤジが、
ヘリテージ財団~ロムニー経由で圧力をかけて貰うか?
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自民党新総裁本命・石破茂が党内で嫌われている理由とは?

YAHOOニュース
自民党新総裁本命・石破茂が党内で嫌われている理由とは?
週プレNEWS 9月24日(月)10時10分配信
自民党総裁選がいよいよ9月26日に投開票される。事実上の次期総理大臣を決する戦いとあって注目を集めているが、一般的な報道で“本命”とされているのは石破茂氏だ。

本命視の根拠は、地方人気が圧倒的だということ。そしてその党内民意を無視できないとする国会議員が増え、決選投票ではこの地方票が一気に石破氏へと流れ込むだろうという読みである。しかし、自民党の某県連幹部、T氏は内情をこう証言する。

「事はそう簡単じゃないんです。地方の自民党員って、国会議員よりも保守色が強いんですよ。つまり右寄りってこと。石破さんは軍事マニアだし、防衛力を強化するだとか外交でも毅然とした態度をとるべきなんて言ってるから、表面的にはよさそうですよね」

だが意外なことに、党員には石破氏を支持しない人も多いのだという。

あの人は首相が靖国神社に公式参拝することに反対の立場をとっているんですよ。さらに教育問題でも、愛国心を明文化することに反対している。口だけなんですよ。それじゃ民主党と同じじゃないですか。こういうことって一般ではあまり知られていないことだけど、自民党員になる人は政治意識が高いから知っている。特に高齢者層は石破さんの政治姿勢を評価しないと思いますよ」(T氏)

地方票における石破氏の不安材料は、まだある。自民党本部関係者、M氏が解説する。

自民党員数の推移に注目してほしい。過去にさかのぼると、例えば平成10年には実に336万人以上もいたんです。でも2年前には約105万人にまで激減し、現在はたったの約78万人です。これが何を意味するか? 党内の浮動票が圧倒的に少なくなったということですよ。もちろん、地方における石破さんの人気は相対的には高い。でも現在残っている自民党員は確固たる意思を持った方が多いだろうから、そのときの気分で動く人は少ないと思います。地元選出の国会議員や地方議員の意向にも強く影響されるはずですよ」

しかも、石破氏は国会議員からの人気が高いワケでもない。

「派閥に属さず、長老たちの言うことを聞かない石破氏は、国会議員票が期待できない。というか、かなり嫌われている。新進党、改革の会など、いろんな党を渡り歩いていることもマイナス要因です。1回目の投票で1位はあり得ても、決選投票で勝つことは考えにくいというのが、内部にいる私の率直な感触ですね」(M氏)

本命とされる石破氏だが、総裁への道は決してたやすくはなさそうだ。

■週刊プレイボーイ41号「自民党総裁選は『好き嫌いのみ』で決着する!!」より

2012年9月24日月曜日

昭和17年(1942)9月 「横浜事件」の発端 ガダルカナル島川口支隊第1次総攻撃失敗。 迫り来る飢餓。

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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昭和17年(1942)
9月9日
・イ25号潜水艦搭載機1機がオレゴン州の山間部を空襲、(9/29に第2回)
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9月9日
・海軍依託学生生徒令
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9月9日
・大政翼賛会、国民錬成要綱を決定
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9月10日
・山西産業株式会社新社長に河本大作予備役大佐就任
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9月10日
・鳥取地震、市内各所で出火、死者1,083人
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9月10日
・イギリス軍、マダガスカル攻略再開
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9月11日
「横浜事件」の発端。
世界経済調査会主事川田寿・定子夫妻、神奈川県特高に検挙

昭和16年1月、アメリカに留学(労働問題研究)から帰国。当局は帰国者の中にアメリカのスパイ或いはアメリカ共産党を通じて国際共産党の指令を受けている者があるのではないかと疑惑を持ち、船会社の人たちに、乗船者中にアメリカで左翼運動をしでいた者を指名させる。川田夫妻の名前が挙げられ、検挙となる。
令状には「日本共産党再建運動を主謀したかどにより逮捕する」との語句がある(川田夫人証言)。
取調べは、スパイ建議・国際共産党関係に終始し、関係者として川田の実兄、アメリカ時代の友人たち、世界経済調査会の関口、諸井、満鉄東京支社調査部員高橋善雄などが召喚されたり検挙される。

川田夫妻に対する取調べは峻烈を極めるが、当局の狙うスパイ嫌疑・国際共産党関係の事実は出ず、川田が慶応大学在学中、学生運動に関係し、昭和5年アメリカに留学、以来15年迄の10年間、労働問題研究に専心し、「米国に於ける労働運動に参画し、亦邦人労働者の組織啓慶に従事したる外、平和・戦争反対運動を支援し、日本の主戦政策を批判し、海軍水兵に対する反戦活動、日本勤労者に対する反戦宣伝をなした」(川田寿口述書)との嫌疑で起訴、昭和20年7月25日、川田は懲役3年執行猶予4年、定子夫人は懲役1年執行猶予3年の判決。

川田夫妻の場合、10年間の日本での空白あり、アメリカでの活動だけが問題とされるが、関係者として召喚された高橋善雄が、関口・諸井はすぐ放免されたにも拘らず、かつて一高在学中に学生運動の経験があったことから検挙され、ここから横浜事件は拡大してゆく。
*
9月11日
・午後10時30、第2師団歩兵第4連隊(青葉支隊)第3大隊(佐々木少佐)、ガダルカナル西北角カミンボ上陸。第17軍松本参謀も上陸。舟艇機動部隊の遅れた残部もこの時、上陸。

この増援は川口支隊の攻撃開始には間に合わないが、万一川田支隊の攻撃が失敗した場合、タイポ岬付近を米軍が占拠している推定から、爾後の連絡拠点としてガダルカナル西北地域を確保しておく必要があると判断されカミンボ上陸となる。

またこの増援追送と前後して、8日夜、連合艦隊司令部は、ガダルカナル方面作戦予備兵カとして、第2師団の一部兵員をバタビアから軽巡3隻でラバウルに急送すると第17軍に連絡。
第17軍司令部はこれを受けて、歩兵連隊を基幹とする可及的多数の兵員、なし得れば師団司令部を含む輸送を要望し、その結果、第16戦隊(「五十鈴」「鬼怒」「名取」3艦)によって、歩兵2個大隊基幹の兵員約1500が急送される事になる。

第17軍司令部は兵力増援と並んで、10日、松本参謀を作戦指導に派遣する事を決める。
この頃、既に、田中航空主任参謀、家村船舶主任参謀が着任しており、大本営派遣の井本・林両参謀、山内情報参謀の援助があり、山本後方主任参謀も近々に派遣されることになっており、首席参謀松本中佐のガダルカナル派遣が決まる。
*
9月11日
・アイルランド、アメリカ進駐軍撤退を要求して暴動。
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9月12日
・ニューギニア、南海支隊、イオリバイワ占領。
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9月12日
・基地航空隊がガダルカナル飛行場に侵攻。
3水戦司令官橋本少将指揮の外南洋方面奇襲隊、巡洋艦「川内」1・駆逐艦3をもってルンガ湾に突入、飛行場を攻撃。駆逐艦1が兵器弾薬をカミンボに揚陸。
ガダルカナル内の川口支隊の攻撃に呼応する陸海軍協同作戦であるが、川口支隊の攻撃失敗で齟齬をきたす。
*
9月12日
・イギリス『ブッチャーアンドボルト(殺しと逃走)』作戦(ポルタン・ブサン港(仏)へのコマンド作戦) 
*
9月13日
・ソ連領内、中国特別旅党大会、金日成副書記長選任。
*
9月13日
午前9時5分、ガダルカナル島川口支隊第1次総攻撃失敗
半数失う。国生大隊長、第2線陣地前で戦死。田村大隊黒木中隊、飛行場南東第一海兵団司令部付近まで進出。戦死478・戦傷396。

8日薄暮より各隊行動開始を予定。
この日午前11時、川口支隊長がテテレ出発する前に、前夜敵が背後に上陸したのを知る。
しかし、これを放置したまま行動開始する。
午後1時頃レンゴ(テテレ西8km)着。ここで磁針偏差のある事を知る。
従って、度々針路修正を行いながらの前進で予想外の時間を費やす。

12日午前10時半頃、右翼隊(熊大隊)から「本夜夜襲決行」の報告。
同じ頃、左翼隊(岡部隊)から「所命ノ如ク歩兵二中隊ヲ以テ夜襲ヲ決行ス」と報告。
砲兵隊から「正午頃攻撃準備を完了スル筈」と報告。
午後3時半、左翼隊から再び計画通りの攻撃を行うとの報告。
支隊長は予定通りの夜襲実施を命令し、各隊は攻撃準備位置へ分進。

○各隊別の動き
熊大隊(一木支隊第1梯団生残りと第2梯団で歩兵2中隊・連隊砲1中隊(4門)・速射砲2中隊(各4門)と工兵小隊から成る混成大隊、大隊長は一木支隊本部附水野少佐)。
コリ岬付近まで最も海岸に近い進路を西進し、支隊主力の前進と迂回を掩護。
9日夜8時半頃、コリ岬付近から南下迂回。
10日昼頃、進路を誤って北西進して来た青葉大隊と支隊司令部に遭遇。
大隊は西進を続け、11日午前3時頃、テナル川(東川)上流約55kmと思われるあたりで大休止。
この日午後2時頃、大隊の歩暗線前方に敵の斥候が出没(大隊の所在は偵知される)。
夕方4時、前進再開、12日天明の頃から北進に転じる。
午前10時頃、攻撃準備位置の中川上流約8km付近と思われる地点に到達(実際には、西進距離が足りず、予定地点から東方へ偏っている)。
12日正午、攻撃決行支隊命令受領。斥候を出すが、敵陣の位置を確認出来ず(位置が東に偏っている為)。
大隊は、携行した糧食を全部炊いて食事をとり、午後6時、密林の中を攻撃前進に移る。
しかし、夜闇と密林に阻まれて歩度が伸びず、突入予定時刻の午後8時になっても敵前進出を果せず。主力中央隊の方向にも攻撃開始の気配が感じられなかったという。
暗中模索の前進を続けているうちに、13日天明となる。敵と接触出来ずに終る。

中央隊の右第1線攻撃部隊である第3大隊(渡辺中佐)は、予定を変更してパレスマ川河口から南下、草原とジャングル地帯に潜入し、8日夜9時半過ぎ、パレスマ河口南西約10kmに達する。
10日午前5時、ジャングル内の困難な前進を開始、午後4時頃、飛行場南東約13kmと推定される地点に達す。
11日午前4時過ぎ、前進開始。
真夜中にテナル川(東川)上流に達し、12日午後8時、どうにか攻撃準備位置に到達(第3大隊は中央隊の中では行軍距離が短い)。
重火器部隊の進出はかなり遅れているが、これを待たずに攻撃前進に移る。地形は錯雑し、暗夜の前進と部隊掌握に難渋。
午後11時頃、敵の警戒陣地らしい鉄条網に衝突し、それを突破した頃には夜明けとなる。
敵の熾烈な砲撃が始り、第9、11中隊長が戦死。
攻撃準備位置にまで後退。

中央隊左第1線攻撃部隊である第1大隊(国生少佐)、8日夜、コリ岬東方約1kmにあり、午後9時、岬南西方の幅約1500mの発見を通過し、9日午前3時、コリ岬南方約1kmに達す。
9日午後6時、ジャングル内を前進。
12日午前8時頃、攻撃準備位置の前方約4km付近とおぼしき地点に達す。
8時過ぎ、高地のジャングルを啓開中、敵監視兵から射撃を受け、応戦・撃退するが、日本軍接近を敵に知られる。
この高地は飛行場南方にある、日本軍があとで「ムカデ高地」と名づけた高地。国生大隊長は1中隊でこの高地を占領させ、大隊主力は高地を迂回西進。
12日午後3時半、ルンガ川東方約500mの攻撃準備位置に達し、午後4時攻撃準備を完了。
日没後、前方の草原を通過、ルンガ川沿いに前進。
機を逸することを恐れ、重火器部隊を待たずルンガ川沿いに北進し、深い急流を徒渉し前進していると、右第1線部隊(第3大隊)の一部が混入。混乱を避ける為、部隊をルンガ川左岸に集結させる。
時刻は既に13日午前2時、突入予定時刻はとっくに過ぎ、夜襲を中止し、午前3時頃、攻撃準備位置に復帰

第2線攻撃部隊である青葉大隊(田村少佐)は、9日未明レンゴ付近から南下、ナリムビュー川沿いにジャングル迂回を開始。
ジャングル内の難行軍が続き、10日昼頃、左第1線の第1大隊と会合、その後方を進み、12日午後9時頃、攻撃準備位置に到達。
第1線との連絡と敵情把握に努めるが、それが叶わず、虚しく天明を迎える

砲兵隊はテナル(東川)右岸にあり、12日午後8時に予定通り砲撃開始するも、それを合図に突入開始し得る部隊はない

左翼隊(岡部隊、舟艇機動により支離滅裂状況で上陸)は、7日夜迄に掌握した兵力は約650。
8日正午、マルポポ(西北海岸)発、敵機の攻撃と地形の嶮しさに苦しみながら、午後2時カミンポ着、そこに上陸していた連隊通信隊を吸収し、午後4時ピサレ着、10日朝まで同地で前進準備。
10日午後6時ポネギ川(コカンボナから北西約7km)に達し大休止、同夜半出発、海軍守備隊の位置(コカンボナのやや東)へ向い、11日朝5時40分頃到着、岡連隊長は門前大佐(元11設営隊長)と会い情報交換。
12日午前2時(予定では11日日没時)、東へ向って出発。
12日午前10時半頃、総攻撃に間に合わないが2個中隊をもって夜襲決行と支隊長に報告。
午後8時、砲兵隊の砲撃開始を迄か東方に聞くが、目的地に到達しないうちに、天明を迎える。

12日夜の時点で、支隊司令部は各隊とは連絡がとれていなく、司令部自身もルンガ川に入り前進するも、下流になるにしたがい水深・流速が増し前進できず、右岸の密林を模索するうちに13日天明を向かえる。

川口支隊長は、13日午前3時50分、13日夜の夜襲再興を決意、各隊に命令。
しかし、食糧が尽きかけているなど攻撃準備は困難な状況。
岡大佐は、13日夕方には舟艇機動部隊残部と青葉支隊第3大隊が到着するので、これを待つよう意見具申するが容れられず。
支隊主力の食糧が13~14日には尽きるため、夜襲を急ぐ必要がある。

○13日夜襲(再度の夜襲)の各隊別の動き
右翼隊(旧一木支隊)は敵情と自隊進路をほぼ把握して、13日午後5時、中川上流約8kmを縦隊で出発。
午後8時頃、中川左岸の草原地帯に出ようとしたとき、右前方約100mから軽機の射撃を受ける。その時草原に進出している大隊本部と第1中隊指揮班だけで突入し敵火線を撃退。
水野大隊長は進出の遅れている重火器部隊に追及を命じ、自ら第1、2中隊を率い海岸線へ進出しようとした時、左方森林内から射撃を受け、間もなく鉄条網で防護された陣地に衝突、攻撃は頓挫し、大隊長水野少佐は戦死。指揮官を失い、右翼隊は攻撃続行の気力を失う。

第1大隊(中央隊左第1線攻撃部隊、国生少佐)、13日午後3時、攻撃準備位置を出発。
予定の午後8時より早く夜襲開始。目標の飛行場北西の三五帯地の前に、ムカデ高地西側に鉄条網を施した2条の陣地があり、これを突破しなければならない。
国生工大隊長は自刃を振るって陣頭に立ち、敵陣地第1線を抜くが、第2線は突破出来ず。
日本軍得意の夜襲白兵も濃密な火網には通用できず、大隊長以下多数の戦死者が出て戦力激減。砲爆撃は激しさを加え、せっかく抜いた陣地も保持できず撤退。
米側資料によると、第1大隊の攻撃により、米軍挺進大隊2個中隊が後退し、師団予備の1個大隊が午前2時頃投入されたという。

第2線攻撃部隊である青葉大隊(田村大隊)は、午後4時、第1線左右両大隊(第1、3大隊)の中央後方の攻撃準備位置につき、薄暮を利して更に間合を詰める。
午後8時、敵の砲火は第1線両大隊に集中し、次第に青葉大隊にまで着弾。
大隊長田村少佐は支隊長命令を待たず、独自判断で第1線中隊(第5、7中隊)に攻撃前進を命令。左第1線の第5中隊は第1線陣地を突破、更に突撃し第2線陣地(ムカデ高地陣地線)をも奪取するが、小隊長以下損害が多く突進が鈍る。
中隊長は第1線小隊残兵を集め、予備隊(1個小隊)を加え突進を続行させるが、中隊長が倒れ頓挫。右第1線の第7中隊も、敵陣に突入、ムカデ高地を越えて北東側地域に進出するが、天明を迎えるに及び前進困難となる。

予備の第6中隊は第5中隊を超越して敵陣に近迫。
戦線は全く混乱し、日本軍の後方で米軍が電話連絡をとる声が聞えるほどという。
第6中隊は、中隊長が負傷、兵力の半数が損害を受けるが、中隊長は残兵を掌握して突入を続行、ムカデ高地を越え、天明頃、飛行場南東附近に進出。
付近に敵の幕舎群(第1海兵師団司令部と工兵部隊の宿営地)があり、第6中隊はこれを蹂躙突破しようとするが、敵の防禦火力は激烈で、遂に阻止される。
この夜、米軍はこの戦脚で1夜に1992発の10糎砲弾を撃ち、1600ヤードの至近距離射撃を行なったという。
田村大隊長は天明となっても攻撃続行しようとするが、猛烈な砲火の下、部下中隊掌握は困難を極める。
支隊長の攻撃中止の命令は、14日昼過ぎに伝わり、分散した残兵が集結地に集まるのに2日を要す。

左翼隊では、岡大佐が歩兵2個中隊・機関銃中隊を率い、13日午後4時15分、マタニカウ川の線を出発、「トラ高地」(ルンガ川とマタニカウ川の中間、アクステン山の北東、海岸に近い)へ向って前進(この時刻の出発では発電所の南西約1kmの高地端に進出しての夜襲決行は無理)。
8時15分トラ高地南端の草原に進出する頃、東方から中央隊の攻撃の音を聞く。
8時40分、左翼隊長岡大佐は舞鶴大隊(歩兵124連隊第2大隊)に対し、西川(ルンガ川の西、グアムの東側を流れる川)南東の高射砲陣地の攻撃を命じ、青葉大隊(歩兵第4連隊第3大隊、11日夜カミンポ上陸)に対し、海岸道方向から西川付近を攻撃するよう命令。
舞鶴大隊の出発は午後9時30分といい、夜襲予定時刻は過ぎており、中央隊・右翼隊と呼応する気が全くないように見える。
明け方3時半頃、同大隊がトラ高地北端に達した時、前方から猛射を受ける。
大隊長は第1線中隊に攻撃を命じ、敵陣地の一角にとりつくが、次第に集中砲火を浴び、前進困難となり、天明を迎え、左翼隊命令により後退。青葉大隊は1個中隊で西川方向の敵情捜索にあたらせ、主力は海岸道を進む。マタニカウ川右岸に進出して前進すると、尖兵が敵と遭遇、交戦。
既に14日朝4時30分頃。米軍は正面の小川に沿って展開し、海上の舟艇と連繋して挟撃の形で猛射を加え、青葉大隊の前進を阻む。

中央隊右第1線攻撃部隊の第3大隊(渡辺)は、心臆して出てゆかず(足を痛めたとの理由で副官と共にジャングルに潜んだまま)。
この大隊は、前夜の夜襲では敵と接触した唯一の部隊であり、夜が明けると(13日)、猛烈な砲撃を受け、第9、11中隊長を失っている。

○アメリカ側から見れば。
飛行場の手前に丘(「ムカデ高地」)があり、その丘を越えればすぐ飛行場である。
丘を守備するのは、メリット・エドソン中佐の第1襲撃大隊とチャールス・ミラー少佐の第1降下大隊。
バンデグリフト少将は丘の後方に司令部のテントを張り、全般の指揮をとる。
この丘に対し、国生・田村・渡辺大佐の隊が突入。
田村少佐は、バンデグリフト少将の司令部近くまで進出。
14日朝、丘全前面には日本兵の死体が折り重なり「血染めの丘」と呼ばれる。エドソン大隊だけで戦死40・戦傷103。川口支隊の損害は、戦死487・戦傷396。

川口支隊長は、14日午前11日前には総攻撃失敗を認めざるを得なくなり、11時5分、一時離脱してルンガ左岸に兵力を集結整頓し、後図を策する決心をする。

しかし、川口支隊には飢餓の危険が迫り始める。
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9月13日
・イギリス『アグリーメント(一致)』作戦(トブルク(リビア)の枢軸国側の港湾施設および補給倉庫への海陸両面からの攻撃作戦) 
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・イギリス『ブルーボルト(矢車菊)』作戦(軍艦によるペルピニャン(仏)近くの海岸からの英人捕虜奪回作戦) 
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9月13日
・スターリングラードでドイツ軍「最終」攻勢
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(39) 「第2章 もう一人のショック博士 - ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その9)

東京 北の丸公園
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(39)
 「第2章 もう一人のショック博士 
- ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その9)

チリ・プロジェクト;知的帝国主義
このプロジェクトは、知的帝国主義の一形態であることを隠そうともしなかった。

チリ・プロジェクトのつまづき
しかしそこには問題があった - 思惑どおりにはいかなかったのである。一九五七年にシカゴ大学から米国務省の資金担当者に宛てられた報告書によれば、「このプロジェクトの主要な目的」は「チリの経済問題において知的指導者となる」学生を数多く教育することにあった。ところがシカゴ・ボーイズは指導者となるどころか、取り残されてしまったのである。

ブラジル、アルゼンチン、チリで左派路線が優勢となる
六〇年代初頭、南米南部地域における主要な経済論議は、自由放任型資本主義と開発主義のどちらを取るかではなく、開発主義の次の段階はどうあるべきかという点にあった。
マルクス主義者は国有化と徹底した土地改革の推進を主張したのに対し、中道派はラテンアメリカ各国間の経済協力を拡大して、ヨーロッパや北米に匹敵する強力な通商圏への転換を目指すべきだと主張した。
世論調査や一般市民の意見では、左寄りの路線が大きな支持を集めていた。

一九六二年、ブラジルは六一年に就任したジョアン・グラール大統領のもと、明確にこの方向に舵を切った。経済的ナショナリストであるグラールは、土地の再分配や労働者の賃上げを推進し、外国の多国籍企業が利益の一部を国外に持ち出してニューヨークやロンドンの株主に再分配するのではなく、ブラジル経済に再投資するよう熱心に主張していた。
一方、アルゼンチンの軍事政権は、亡命したフアン・ペロン元大統領の支援者ベロニストで構成されるペロン党の選挙への出馬を禁止することで、同様の主張を封じ込めようとしていた。だが、こうした動きは反対派をより急進的にし、政権奪回のためには武装闘争も辞さない若いベロニストの新世代を生む結果にしかならなかった。

こうした思想闘争の敗北がもっとも明確だったのは、シカゴ大学の実験の中心地、チリにおいてだった。
チリでは一九七〇年に行なわれた歴史的選挙で、三大政党がすべて同国最大の収入源である銅山(当時、アメリカの大手鉱山会社に支配されていた)の国有化に賛成し、大きく左寄りの政策を取った。

チリ・プロジェクトは高くつく失敗に終る
言い換えれば、(チリ・プロジェクト)は高くつく失敗に終わったのだ。
左翼の敵との関に平和な思想闘争を挑むイデオロギー戦士たるシカゴ・ボーイズは、その使命を果たせなかった。経済論議がどんどん左にシフトしていっただけでなく、シカゴ・ボーイズはあまりに弱小で、チリの選挙における勢力地図にまったく影響を及ぼすことができなかったのである。

ニクソン大統領の登場
(チリ・プロジェクト)はそのまま歴史上の小さな脚注に終わったかもしれない。
けれどもそこに、シカゴ・ボーイズを無名の存在から救い出す出来事が起きる。アメリカでリチャード・ニクソンが大統領に選出されたのだ。ニクソンは「創意に富み、全般的に効果的な外交政策を打ち出した」と、フリードマンは熱っぽく述べている。そしてもっとも創意に富む政策が実施されたのがチリだった。

独裁政権こそがこの国になじむもの
シカゴ・ボーイズと彼らを教育した教授たちに、彼らが長く夢見てきたものを与えたのがニクソンだった。ニクソンは、資本主義的ユートピアが単なる地下作業室での空論ではないことを実際に試す場 - ひとつの国をゼロから作り直す機会を提供したのだ。
チリの民主主義にさんざん冷過されたシカゴ・ボーイズにとって、独裁政権こそこの国になじむものだと考えられた。

(つづく)

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(40) 「二十四 「銀座食堂に飯す」-東京の復興は飲食物より」(その3)

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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(40)
 「二十四 「銀座食堂に飯す」-東京の復興は飲食物より」(その3)

白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版、昭和8年)。
現在の、文藝春秋から定期的に出版されている『東京いい店うまい店』の先駆となるグルメ・ガイド。
「大東京」は昭和7年の市区改正を踏まえたもの。
昭和8年版を手はじめに今後「毎年新しく改版して行く考え」と「序」にある。

「グルメ・ガイドが出版されたことは、モダン都市東京で「外食」が、都市生活者の楽しみごととして急速に普及していることをうかがわせる。」(川本)

家族連れのデパートへのお出かけ、地方からの単身者の流入、女性の社会進出などの生活形態の変化によって、「外食」が広く楽しまれるようになり、食堂やレストランのガイドブックが必要になった。
冒頭。
「デパートの食堂が大入満員、押すな押すなの繁昌に、都会人の食意地を見すかされたか、この頃の食堂の増えたこと。一度銀座や新宿を歩いた人なら、軒並の食べもの店にすぐ気付かれるでありませう」
「そして更に店の銀座や新宿のあの華やかなネオンサインのあるところ、エロサービスを売りもののバーやカフェーならざるなしの盛観を見ては、全く食べもの店洪水、カフェー洪水の誇張でないことが判りませう」
「しかも、これは一人り銀座や新宿に止まらず、浅草でも上野でも神田でも、多少でも人の出盛る、昔の所謂盛り場的中心地の随所に見かける現象です」

この本に紹介されている「大東京」の15ヶ所の盛り場
丸の内と日比谷界隈、新橋駅界隈、銀座、日本橋通り、人形町界隈、神田、上野界隈、浅草公園界隈、神楽坂、新宿、渋谷道玄坂、本郷通り、三円慶應大学付近、品川宿通り、大塚。

大塚が入っているのは「三業地」だったからだろう。
三田慶應大学付近が入っているのは、慶應ボーイを相手にする「近代風の明るい店」が多いため。
「本郷通り」は紹介されてはいるが、かつてのにぎわいを失ないつつあるとされている。
学生の集まる場所も次第に西(新宿、渋谷)に移りつつある。

この本の案内に従って、荷風がよく行った銀座の店を紹介。
○モナミ(7丁目)、資生堂の銀座通りにあり、外観は商船の横腹といった感じ。一階に喫茶店、二階が食堂で本格的な洋食。
○松喜(7)、モナミの反対にある古い高級牛肉店。二階はお座敷。一階は腰掛け式で簡単に牛鍋を食べさせる。
○花月(7丁目)、もと新橋一の大割烹。時勢に合わせ大衆店として再出発。画家の平岡権八郎が主人。
○コロンバン(6丁目)、洋菓子に定評。フランスのキャフェーにならって夏は舗道にテーブルを並べる。
○銀座食堂(6丁目)、震災直後に出来た日本食堂。一階は食料品店、二階が食堂。昼の定食(1円50銭)がうまい。
○銀座風月堂(6丁目)、日本菓子の風月が経営する洋食レストラン。明治時代から洋食屋として知られる。
○オリムビック(2丁目)、銀座通り東にある米国風洋食堂。最近内部を改造して広くなり、二階も使用するようになったが、それでもちょっと空席が見つからぬほどの繁昌。

オリムピックのエピソード。
昭和7年9月7日
「オリンピク洋食店に入りて夕飯を食す。此店の番頭らしさ老人と語るに、恰余の米国タコマに滞在せしころ此老人は沙市に在り商店にはたらき居たる由。倶に往時を追想して悵然たり」

もっとも好んだのは、和食堂の銀座食堂
昭和6年から7年、「日乗」には「銀座食堂」の名前が頻出。
「銀座食堂に飯して家に帰る」(昭和6年2月27日)
「銀座食堂に至りて飯す」(同年5月5日)
「日暮銀座に往き銀座食堂に飯す」(同年8月24日)。
「晩間銀座食堂に飯す。章魚の甘煮味佳なり」(同年11月12日)

荷風は、ある店が気に入ると、ずっと通い続けるという凝り性のところがある。昭和6年秋から冬にかけては、連日のように銀座食堂に通う。
宇野浩二「永井荷風の印象」(「文藝」臨時増刊「永井荷風讀本」昭和31年10)で、宇野浩二は、昭和六、七年頃、銀座食堂で荷風を見かけた思い出を書いている。

銀座食堂は、資生堂とコロンバンのちょうど真ん中あたり(現在の松坂屋前あたり)にあった。
「銀食」と呼ばれ、簡単な日本料理を食べさせる大衆的な店だった。

松崎天民『銀座』には、「銀座食堂は珍味屋であって、階上では鮎料理とか、松茸料理とかを調達して、手軽に美味い和食を供するのが特色である」とある。

宇野浩二は、たまに銀座に出かけると、この「銀食」に入って、金1円の定食を食べることにしていた。二階の窓に近い席に坐ると、ときどき荷風の姿を見た。
荷風は、いつもきまって正面の料理場に近いところにひとりで座り、「たぶん、私などと同じ金一円の定食を、たべてゐるように思はれた」
作家宇野浩二によれば、文壇に感動を与えた作品はこれまで四つある。藤村「破戒」、花袋「蒲団」、谷崎「少年」、そして、明治42年、帰朝したばかりの荷風が矢継ぎ早やに小説を発表した時。

その敬すべき荷風が、自分と同じように、大衆的な店でひとり食事をしている。
それを見て宇野浩二は感動を隠さない。
彼は、以前にも一度、夜の銀座で荷風を見かけたことがある。友人の田畑修一郎、中山省三郎とカフェー・タイガーに行き、その帰り、銀座の裏通りをひとり歩く荷風を見かけた。「この時の荷風の後姿は、その頃から二十年も後の今でも、私の目に、ありあり、残ってゐる」

そのときは後姿だった。銀座食堂では正面から荷風を見ることが出来た。感動はいっそう深い。
「この『銀食』の二階の片隈で、一人、質素な食事をしてゐた荷風の姿は、やはり、その頃から二十年ちかい後の今でも私の目に残ってゐる」
「そうして、さきに述べた、銀座の裏通りの、薄暗い町の真中を、歩いてゐた荷風の後姿とこの『銀食』で見た荷風の姿を、おもひだすと、私は、何ともいへぬ感動をおぼえるものである」

荷風は、銀座食堂で食事をするだけでなく惣菜を買うこともあった。
昭和9年1月20日、
「燈刻銀座に往き銀座食堂に飯し、栗きんとんを購ふ折詰八十銭」
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「東京紅團」(コチラ)という尊敬に値する博学サイトに昭和5年~10年頃の銀座の地図が掲載されている。
失礼ながら無断拝借させて戴く。

2012年9月23日日曜日

「次の世代に美しい故郷を残すことも経済人の使命」(豊田章男)

中日新聞
豊田自工会長「美しい故郷残すことも使命」 原発ゼロめぐり
2012年9月21日 00時01分
 政府が打ち出した2030年代の原発稼働ゼロ方針をめぐり、日本自動車工業会(自工会)の豊田章男会長(トヨタ自動車社長)は20日の記者会見で、「次の世代に美しい故郷を残すことも経済人の使命」と発言。今後3年ほどの短期的なエネルギー供給は「真剣な議論が必要」としながら、企業のコスト以外に、国民の暮らしの視点からも議論するべきだとの考えを示した。

 豊田会長は東日本大震災以降、日本人のエネルギーへの考え方に「大きな変化が起きた」と話し、「福島では原発事故で故郷に帰れない方々が多くいるのも現実」と指摘。ただ、原発ゼロへの賛否は「(原発発電比率を)何パーセントにするのか、自動車産業に十分な知見はない」と述べ、明言を避けた。
 原発ゼロ方針には、経団連など経済3団体が雇用への影響などを理由に、真っ向から反対。自動車業界は「安全、安価で安定的な電力供給を求める」との基本姿勢を繰り返してきた。
 (中日新聞)
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浜岡原発フクシマと置き換えて考えれば、当然出てくる発想だ。
もう少し踏み込んだ発言が欲しい。

日本維新の会、橋下代表に拒否権を付与し権限を強化する方針

読売新聞
維新、橋下代表に「拒否権」付与…権限強化へ
 地域政党・大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が近く結成する新党「日本維新の会」の規約案に、党の重要事項の議決に関し、「出席者のうち代表を含む過半数」を必要とする規定を盛り込むことが21日、明らかになった。
 代表に事実上の拒否権を与え、権限を強化する狙いがある。
(2012年9月22日18時40分  読売新聞)

毎日JP
日本維新の会:規約案、代表に強い権限 党員に投票権なし
毎日新聞 2012年09月20日 大阪朝刊
 橋下徹・大阪市長が代表に就く新党「日本維新の会」が策定中の党規約案で、国政選挙の候補者の公認・推薦を党代表に一任する方針であることが分かった。代表選出に関して一般党員の投票権に関する規定がないことも判明。代表に強い権限がある一方、党員の権利が限定的となる可能性がある。維新は内部調整を進め、規約の策定を急いでいる。
 維新は、比例代表の名簿登載順位についても、党代表に一任する方針。候補者の公認・推薦について民主は、代表や幹事長ら党幹部による常任幹事会で過半数の賛同を条件に認めると党規約で規定。自民は、総裁ら約30人による選挙対策本部で、全会一致を原則として決めている。維新の規定は、代表に大きな権限を与える仕組みとなっている。
 代表選については、所属国会議員や地方議員、首長らに投票権を与える方針を固めているが、党員に関しては「全く未定」(幹部)という。ただ、細かな規定は別途規則で定めるという。
 民主は、候補者が争奪する全1231ポイント中409ポイントを党員・サポーター(約33万人)に配分。自民も全499票のうち300票を党員・党友(約79万人)に割り振り、党員らの投票権を認めている。

MSN産経
日本維新の会、空中分解の兆し 大阪主導の規約に東京側は「暫定」
2012.9.15 21:29
 橋下徹大阪市長を代表とする新党「日本(にっぽん)維新の会」に参加する国会議員と「大阪維新の会」の府議、市議らが15日、同市内の大阪維新本部で初会合を開き、党運営を定める規約を固めた。これにより、今月中に総務相へ結党を届け出る。ただ、国会議員側は大阪側主導で作られた規約を「暫定」と強調するなど不満を示す。次期衆院選の「台風の目」と目されていた維新だが、水面下では深刻な路線対立が生じている。
 会合では、党代表の任期は3年で再選可能とし、代表選は国会議員、地方議員ともに1人1票の投票で決めるとする規約を固めた。
 ただ、国会議員の一人は、協議終了後「過渡期の規約だから」と、変更もありうることを示唆した。
 国会議員側の7人は13日夜、都内で党の政策の柱とする「維新八策」や規約について話し合った。
 「こなれていない」「これが最終形とはならない」-。7人は八策については修正が必要との認識で一致した。規約についても「国会議員の自立性を明文化させないと国会対応が取れない」「各地域ブロックの責任者は国会議員にすべきだ」との意見が出た。
 しかし、15日の協議は、数で勝る府議団らが押し通し、国会議員側も、届け出を最優先させるため反論を極力抑えた。
 府議団や市議団は、「外様」である国会議員側に主導権を奪われたくないという意識が強い。国会議員側は、所属政党への離党届を出した直後であり、新党をここでご破算にするわけにいかないが、松浪健太衆院議員は15日の会合後、記者団に「国会議員団の規則は国会議員団で決めるのは当然だ」と主張した。
 「大阪」と「東京」との確執。「日本維新の会」は空中分解の危険性をはらんでいる。(松本学)

■Togetter
維新の会政権誕生(橋下徹・維新八策)で日本はこうなる!?(<維新八策を検証してみた…> :出典は産経記事[ これが維新八策・改訂版の全容だ! ]と日経記事[ 維新八策・最終案の全文 ]より


がれき処理単価 「石巻は東松島の7倍」とNHK報道

河北新報
がれき処理単価 「石巻は東松島の7倍」NHK報道

 東日本大震災で発生したがれきの処理費用をめぐり、宮城県石巻市は21日、環境省の調査結果を公表した。NHKの番組で1トン当たりの処理単価が隣接の東松島市より約7倍高いと報道されたが、環境省は「7倍もの開きが出るとは考えられない」との見解を示した。
 調査結果によると、推定の事業費総額を3月末時点のがれき推計量で割ると、石巻市は1トン当たり4万8105円、東松島市は3万8976円。昨年度の事業で大半だった仮置き場への収集運搬では石巻市が1万4737円で、東松島市は1万4035円だった。
 環境省によると、9日に放送されたNHKの報道では、がれきと津波堆積物を合わせた1トン当たりの処理に石巻市が7万1000円、東松島市は9600円を要し、自治体間で差があるとした。
 東松島市は処理費の安い津波堆積物の量が石巻市より多く、環境省は「単純に全体の平均単価で比較することに無理がある」と結論付けた。
 石巻市の亀山紘市長は臨時記者会見を開き「報道を見てびっくりした。市としての見解をNHKに出したい」と述べた。
 NHK広報局は「番組では、がれき(津波堆積物を含む)の総量と処理費用について、できる限り新しい数字を県や各自治体に取材して処理単価を試算し、紹介した」とのコメントを出した。
2012年09月22日土曜日
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「おいしい」思いをしたゼネコン

元沖縄基地従業員、ベトナム戦争時に北ベトナムへの謀略ビラを作っていたと証言

沖縄タイムス
米軍ベトナム謀略ビラ「私たちが作った」
2012年9月23日 09時51分
(7時間49分前に更新)
 【中部】ベトナム戦争時、沖縄に常駐していた米陸軍第7心理作戦部隊の工場で働いていた元基地従業員3人が22日までに、北ベトナム社会を混乱させる目的で散布していた謀略ビラを「私たちが作っていた」と、沖縄タイムスに証言した。心理作戦部隊の存在は当時、謀略性が強いため米本国内でも極秘扱いされ、米連邦議会も実態を把握していなかった。3人は「作戦の歯車に組み込まれ、戦争に加担してしまった。若い人たちに事実を知ってほしい」と口をそろえる。同部隊の主要任務だった謀略ビラ作製で、元日本人従業員が関与を認めて証言するのは初めて。(磯野直)

 心理作戦部隊は、1958年2月から浦添市の牧港補給地区(キャンプ・キンザー)に駐留。米軍がベトナム戦争へ本格介入した65年10月、第7心理作戦部隊に昇格・強化された。74年6月に解体されるまで、北ベトナムや北朝鮮などの共産圏に対する謀略活動、沖縄統治での宣撫(せんぶ)工作を行っていた。

 今回、証言したのは宮里信善さん(64)、高江洲賢治さん(64)、大城良信さん(64)。3人は60年代後半から74年まで、心理作戦部隊の工場だった補給地区内の205号ビルで、北ベトナムに空中から散布するビラの印刷、箱詰めなどに従事していた。現地住民に拾わせるため、偽札仕様のビラも作った。

 宮里さんは、謀略ビラを印刷するための原版を作る写真製版部にいた。ベトナムの戦場で撮られた残虐な写真を数多く見たため、気持ちが晴れる日はなかったという。「混乱や動揺を引き起こすようなビラを作り、ベトナム戦争に加担してしまった。こんな部隊が沖縄にいたことを、若い人たちに知ってほしい」と話した。

 高江洲さんは、印刷部で輪転機の維持・管理と、刷り上がりの点検を行っていた。「仕事とはいえ、謀略ビラを作ってしまったのは消えない事実。もう隠すことではない」と語った。

 裁断・箱詰めに携わった大城さんは73年、偽札のビラを職場から持ち出し、匿名で告発した。「かつて沖縄が謀略の拠点に使われ、僕らも作戦に協力した。若いウチナーンチュが、沖縄の未来を考える一助になれば」と期待を込めた。

 沖縄の占領統治で、心理作戦部隊は雑誌「守礼の光」「今日の琉球」の編集や、極東放送へのニュース提供などを行っていたことで知られている。

原子力規制庁の森本次長、委員を補佐する「対策委員」は原発推進派でも問題ないと述べる。

時事ドットコム
委員補佐、原発推進派も可=規制庁次長が初の定例会見

 19日に発足した原子力規制庁の森本英香次長が21日、初めての定例記者会見を行った。原発で重大事故が起きた場合などに、原子力規制委員会の委員らを補佐する「対策委員」の人選について、専門家であれば原発推進派でも問題ないと述べた。
 森本次長は対策委員の選定について「委員に候補を選んでもらう」と説明。条件として、原子炉の専門知識や放射線障害に詳しいことを挙げたが、電力会社や原発推進の研究機関に属していても問題ないとし、「立場で選ぶものではない」と話した。(2012/09/21-17:32)
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反日デモ暴動に「あまりに愚かで悲しい」「義和団や文革のようだ」 中国のネット「理性愛国」の声

中国の反日デモを巡るさまざまな評論、意見、分析など

ITメディアニュース
反日デモ暴動に「あまりに愚かで悲しい」「義和団や文革のようだ」──中国のネット「理性愛国」の声
(見出しのみ)
検索から分かる前代未聞の関心の高さ
「あまりに愚か」「義和団、文化大革命のよう」
行動で反対を示す人も
当局も「いい愛国」への誘導を開始

▼「理性愛国」を訴える人びと


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■その他の評論、意見、分析など

MSN産経
対日強硬策、習近平氏が主導 韓国大統領の竹島上陸など機に一変

スポニチアネックス
中国当局が扇動か?1200円“雇われデモ”を参加者証言

AFP BB News
反日デモは「中国当局が仕組んだ」、美術家の艾氏発言

大紀元
「仕掛人」に操られる反日デモ 権力闘争の影が見え隠れ

大紀元
中国警察「反日はこっち!領事館までバスで送る」 外務省「自発的行為」と強調

ロイター


中国反日デモのなかの「蒼井そらは世界のもの」 『エコノミスト』誌にも登場

反日デモのなかの「蒼井そらは世界のもの」

遂に「The Economist」にも取り上げられた(コチラ、英文)

非常に、よくわからない、奇妙な現象である。
どこか抜けているような、
ウケを狙っているような、
頬のゆるむところでもある。

どんな現象なのかは、「中国住み」さんによる
NAVERまとめ
反日デモにおける 蒼井そら 人気が異常な件
が、一番うまく纏められていていいと思う。
(写真も豊富)

この中にも紹介されている、
日経ビジネスオンライン

中国でのデモ、彼らは何を求めているのか
意外と軽い“反日”、本音はどこに
でも、

「蒼井そらは世界のもの」という標語
という一節を設けて、

「 まず、約3000人が参加し最も過激だったと思われる深セン市のデモ。十数台の車がひっくり返されたり、日系メーカーの警察車両がぼこぼこにされたりした写真がツイッターなどで流れた。しかし、彼らは本当に日本が憎いのか。たとえば「日貨排斥」のTシャツを着た青年が首に下げているカメラは、ニコン。そのブランドを隠そうともしない無防備さ(あとでデモ仲間にカメラを取り上げられ壊されたそうだが)。

 また、デモに参加する中高生の背中に「釣魚島(尖閣諸島)は中国のもの、『蒼井そら』は世界のもの」といった標語が張りつけてある。『蒼井そら』とは、中国に異様に人気がありアイドル化している日本のAV女優の名だ。ある種の若い中国人ネットユーザーの間では、最も有名な日本人である。今回の各地のデモでは、反日でも蒼井そらは別、といったニュアンスで前述の標語が散見された。

 本当に反日の厳しい空気の中でなら、日本人女優に心うばわれているそぶりなど、冗談でもいえない。つまり、今回のデモの反日度はそのレベルなのだ中国人の微博に「日本よ、デモする機会を与えてくれて感謝する」というコメントが流れていたが、最初から「反日」を口実に、あわよくば警察車両を襲撃してみたい、というのがデモ隊の本音ではないか

 山東省済南市のデモのスローガンは「あくどい城管(都市管理委員会、都市の露天商などを取締り罰金をかせぐ)市政府に抗議する」だった。反日でデモの招集をかけてはいるが、デモの矛先は城管と市政府ということになる。自分の土地や私有財産ですら、城管や地元政府の横暴で奪われることもままある状況では、釣魚島は中国のものという前に、自分の持ち物や田畑の権利が自分のものであると、訴えたいところだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
と分析を加えている。

また、
9月20日付け「朝日新聞」も
蒼井そらのインタビュー記事を掲載している。
*
*
さて、そのデモではどんなスローガンが見られたのか。
(全て「中国住み」さんからのもの)
 ▲一番オーソドックス

▲遊び感覚 

▲毛沢東語録?

▲エッ おばさんが、「もう蒼井空を見ない」・・・・? 

現地からの反日デモ・レポート 前編・後編

現地からの反日デモ・レポート 前編
駐在員奥様「ヤクザ風の暴力組織が破壊活動を……」 


現地からの反日デモ・レポート 後編
反日デモ参加中国人「修学旅行のバス状態でした」 





国際社会も危惧する日本の右傾化(田中均 ダイヤモンドオンライン)

ダイヤモンドオンライン
国際社会も危惧する日本の右傾化と政治主導外交
深刻な日中関係を安定軌道に戻すための「4原則」
田中均

(見出しのみ)

ディッチレーの国際会議で懸念されていた日本の右傾化、政治主導外交

ついに暴徒化した中国の反日デモ 日中関係を建て直すための「4原則」

反日デモは反政府デモへ容易に変わる 対外強硬策を牽制する日米協力の重要性

中国の台頭を建設的な枠組みの中に 多国間パートナーシップを活用すべき

日中関係を安定的な軌道に戻すため 政治はポピュリズムから脱却せよ







ロンドン 日本大使館前での原発再稼動反対抗議活動


JapaneseAgainstNukes
‏@JAgainstNukesUK
8月から毎週金曜日にロンドンの日本大使館前で再稼働反対抗議活動をしています。これは日本の首相官邸前で起きている集会に連帯していて時差に合わせて現地時間朝の9時からスタート。今週もあります。 #官邸前 #反原発 #再稼働反対 #デモ #福島 pic.twitter.com/E0HnqBLY