2012年9月19日水曜日

元亀2年(1571)11月~12月 「予は伴天連らの教えと予の心はなんら異ならぬことを白山権現(の名において)汝らに誓う」(信長) [信長38歳]

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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元亀2年(1571)
11月
この月
・太田城(茨城県常陸太田市)城主佐竹義重、武田信玄に通じ、小田原城主北条氏政や小田城主小田氏治らを攻める。
氏治、上杉謙信(42)に救援を要請。謙信は再び関東に出陣、上野総社(群馬県前橋市)に布陣し、武田軍と対峙。
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11月初旬
・織田勢3千、品野城入り。武田に備える。
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11月3日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)長男イヴァン(17)、結婚。
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11月1日
・信長、伊勢三郎(幕府政所執事)へ「政所役」(政所執事)を安堵。
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11月6日
・国友鉄砲鍛冶、信長へ大砲献上(国友鉄砲記)。
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11月8日
・山科言継、慈専(泉涌寺役者)の来訪受ける。
木下秀吉が泉涌寺「寺領」を横領したので、義昭・秀吉らへ女房奉書発給を依頼。
9日、正親町天皇、勧修寺晴右・山科言継へ、秀吉へ押領禁止を義昭に通達するよう命令。
山科言継、幕府御所を訪問し下達された泉涌寺領返還の件を申し入れ。
押領については「堅可被仰付」という義昭の返事(「言継卿記」4)。
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11月20日
・武田信玄、水軍編成を担当する土屋貞綱に伊勢の海賊衆召致を指示。
翌元亀3年5月、これに応じて小浜景隆・向井伊兵衛らの伊勢水軍が武田水軍に加わる。
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11月21日
・信長、京都賀茂惣中へ、松永久秀の大和国多聞山城攻撃のために近日中に上洛予定と告げ、上洛以前に筒井順慶と談合し付城構築・攻略を通達(「沢房吉氏所蔵文書」)。
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11月24日
・本願寺顕如光佐、朝倉義景・景鏡・景健、浅井長政・久政に書状を送り、江北の安全について全面的に越前に依頼して両国が力を合わせて策をめぐらすよう申し入れ。

江北10ヶ寺などに結集した一向一揆の要請により顕如が動く。
一揆勢は近江各地で信長に反抗を続けているが、残された道は浅井・朝倉両氏および越前一向宗との団結以外にはなく、朝倉氏や越前門徒は江北への物資支援を続ける(「誓願寺文書」)。
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12月
・上杉謙信(42)、武田信玄の属城石倉城(群馬県前橋市)を攻撃しようとしたが止め、沼田城に入る.関東で越年。
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・信長、佐久間信盛所領を加増(「吉田文書」)。
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布教長フランシスコ・カブラル、岐阜に信長訪問
カプラルは、信長の比叡山討伐を賞賛、神仏に対する日本人の信心が失墜したことへの満足感を表明。
信長は「予は伴天連らの教えと予の心はなんら異ならぬことを白山権現(の名において)汝らに誓う」と述べる(「日本史4」)。
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・朝倉氏、若狭の武田信方から、信長方の熊谷氏が三方郡倉見荘を押領している事で訴えを受け、裁決を義昭に委ねる。

信長も、幕府料所の若狭遠敷郡安賀荘代官職に関する粟屋孫八郎の訴えを義昭へ取り次ぎ(「信長公記」巻6)、朝倉氏・信長共に若狭が形の上は将軍支配であることを踏まえ、そのもとで旧武田家臣掌握に努める。
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・朝倉氏、大商人の橘屋に諸商売と諸役免除の免許状を発行。

橘屋:
紀州田辺城主田辺飛騨守が大治年間(1126~31)に越前へ下向し、木田に居住したのを初代とする。本家居屋敷は初代以来「居地を易えず、櫓を挙げ構の塀を築」き、16代龍鳧(慶長16年没)の代まで構の堀の外で市が立った。
また、本家居屋敷の西方一帯の松尾には、14世紀、金融業を営む僧侶たちも居住し、木田近辺は早くから北陸道沿いの要地として賑わう。
橘屋は早くから薬種の調合・販売を本業とする。
朝倉氏は橘屋惣領1人に限る特権を保証し、また酒売買座の特権も新たに与える。
この年の免許状は、勝手に調合薬を売る者が出た為、訴えにより改めて発行されたもの。

朝倉氏滅亡後、橘屋は慶松家と同様に信長に従い、軽物座の長を認められ、以後、織田政権から軽物座と唐人座(薬種調合)の統轄を命じられる。
軽物座役の取り沙汰は、天正6年柴田勝家判物によれば、慶松太郎三郎と橘屋三郎左衛門があたることとされている。
三か荘の有力商人の系譜を引く慶松・橘両家は、織豊政権に順応して栄える。
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12月2日
・瑞泉寺からの懇望により、神保長城・宗昌(長職)連署で聞名寺への不入等申付状を発給。
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12月7日
・佐久間信盛、山城狭山郷の件で田中長清(石清水八幡宮祠官)との交渉を無視した御牧摂津守被官片岡俊秀へ、信長上洛以前に押領地返還を指示(「前田家所蔵文書」)。
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12月10日
・正親町天皇、信長へ綸旨を下す。
山門の件で諸門跡領を明智光秀が押領したので、その返還を命令。また、山科言継へ女房奉書を下す。内容は近江国舟木の御料所を永田景弘・九里三郎左衛門・丹羽長秀・中川重政が押領、これの回復を信長へ通達するよう命令。
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12月11日
・山科言継、京都発、守山で泊。
12日、守山~高宮。
13日、高宮~柏原。
14日、垂井経由赤坂着。
15日、岐阜の坂井利貞宿所着。
16日、坂井利貞は尾張下向は「無用」との意見。
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12月14日
・信長、岐阜より尾張へ鷹狩。坂井利貞同伴(「言継卿記」4)。
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12月15日
・後陽成天皇、誕生。誠仁親王の第1皇子。
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12月19日
・筒井順慶、大和十市郷へ総攻撃(「多聞院日記」2)。
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12月22日
・木下秀吉、山城賀茂神社役者中へ、去年(元亀元年)賀茂神社境内に義昭下知・信長朱印により徳政免除が出されたが未だに実行されず言語道断(「賀茂別雷神社文書」)。
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12月27日
武田信玄、北条和睦、誓書交換。
関東は西上野を除いて北条家が領する、上杉家との絶縁状を武田家に提出、北条家から人質を提出、今川氏真の分国追放(氏真は家康の保護下に)。

「関八州古戦録」では、信玄が小宰相局を小田原に派遣して交渉を始めたとある。12月3日付けの鉢形城主北条氏邦の感状では信玄との戦いが示されているが、17日付の跡部勝資の厩橋城主北条高広父子に宛てた書状では「当時甲相入魂」とある。

当知行の原則確認。
駿豆国境付近は黄瀬川が境界、興国寺城は武田方に引き渡される。
武蔵・上野国境付近は神流川を境とし、略取したばかりの武蔵御嶽城は北条方に返還される。
駿東郡域は武田領となる。

この同盟により北関東の情勢は大きく変化
北条氏は、上野厩橋・武蔵羽入・下総関宿の城を巡り上杉氏と再び対立、甲相両陣営は相互に援軍を出しあい軍事同盟として機能する。
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12月27日
・ドイツ、天文学者ケプラー誕生。
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12月27日
・毛利氏による安芸厳島神社本社本殿が造替され、遷宮の儀が行われる。
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12月28日
・信長、清洲より岐阜へ帰還。
午時、山科言継、岐阜城門外で信長と対面、勅使の由を伝え、後刻案内を受けてから来訪するように指示受ける。
29日黄昏、松井友閑来訪。信長より小袖・袷・肩衣袴などを贈呈される。(「言継卿記」4)。
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