2012年9月24日月曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(40) 「二十四 「銀座食堂に飯す」-東京の復興は飲食物より」(その3)

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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(40)
 「二十四 「銀座食堂に飯す」-東京の復興は飲食物より」(その3)

白木正光編『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版、昭和8年)。
現在の、文藝春秋から定期的に出版されている『東京いい店うまい店』の先駆となるグルメ・ガイド。
「大東京」は昭和7年の市区改正を踏まえたもの。
昭和8年版を手はじめに今後「毎年新しく改版して行く考え」と「序」にある。

「グルメ・ガイドが出版されたことは、モダン都市東京で「外食」が、都市生活者の楽しみごととして急速に普及していることをうかがわせる。」(川本)

家族連れのデパートへのお出かけ、地方からの単身者の流入、女性の社会進出などの生活形態の変化によって、「外食」が広く楽しまれるようになり、食堂やレストランのガイドブックが必要になった。
冒頭。
「デパートの食堂が大入満員、押すな押すなの繁昌に、都会人の食意地を見すかされたか、この頃の食堂の増えたこと。一度銀座や新宿を歩いた人なら、軒並の食べもの店にすぐ気付かれるでありませう」
「そして更に店の銀座や新宿のあの華やかなネオンサインのあるところ、エロサービスを売りもののバーやカフェーならざるなしの盛観を見ては、全く食べもの店洪水、カフェー洪水の誇張でないことが判りませう」
「しかも、これは一人り銀座や新宿に止まらず、浅草でも上野でも神田でも、多少でも人の出盛る、昔の所謂盛り場的中心地の随所に見かける現象です」

この本に紹介されている「大東京」の15ヶ所の盛り場
丸の内と日比谷界隈、新橋駅界隈、銀座、日本橋通り、人形町界隈、神田、上野界隈、浅草公園界隈、神楽坂、新宿、渋谷道玄坂、本郷通り、三円慶應大学付近、品川宿通り、大塚。

大塚が入っているのは「三業地」だったからだろう。
三田慶應大学付近が入っているのは、慶應ボーイを相手にする「近代風の明るい店」が多いため。
「本郷通り」は紹介されてはいるが、かつてのにぎわいを失ないつつあるとされている。
学生の集まる場所も次第に西(新宿、渋谷)に移りつつある。

この本の案内に従って、荷風がよく行った銀座の店を紹介。
○モナミ(7丁目)、資生堂の銀座通りにあり、外観は商船の横腹といった感じ。一階に喫茶店、二階が食堂で本格的な洋食。
○松喜(7)、モナミの反対にある古い高級牛肉店。二階はお座敷。一階は腰掛け式で簡単に牛鍋を食べさせる。
○花月(7丁目)、もと新橋一の大割烹。時勢に合わせ大衆店として再出発。画家の平岡権八郎が主人。
○コロンバン(6丁目)、洋菓子に定評。フランスのキャフェーにならって夏は舗道にテーブルを並べる。
○銀座食堂(6丁目)、震災直後に出来た日本食堂。一階は食料品店、二階が食堂。昼の定食(1円50銭)がうまい。
○銀座風月堂(6丁目)、日本菓子の風月が経営する洋食レストラン。明治時代から洋食屋として知られる。
○オリムビック(2丁目)、銀座通り東にある米国風洋食堂。最近内部を改造して広くなり、二階も使用するようになったが、それでもちょっと空席が見つからぬほどの繁昌。

オリムピックのエピソード。
昭和7年9月7日
「オリンピク洋食店に入りて夕飯を食す。此店の番頭らしさ老人と語るに、恰余の米国タコマに滞在せしころ此老人は沙市に在り商店にはたらき居たる由。倶に往時を追想して悵然たり」

もっとも好んだのは、和食堂の銀座食堂
昭和6年から7年、「日乗」には「銀座食堂」の名前が頻出。
「銀座食堂に飯して家に帰る」(昭和6年2月27日)
「銀座食堂に至りて飯す」(同年5月5日)
「日暮銀座に往き銀座食堂に飯す」(同年8月24日)。
「晩間銀座食堂に飯す。章魚の甘煮味佳なり」(同年11月12日)

荷風は、ある店が気に入ると、ずっと通い続けるという凝り性のところがある。昭和6年秋から冬にかけては、連日のように銀座食堂に通う。
宇野浩二「永井荷風の印象」(「文藝」臨時増刊「永井荷風讀本」昭和31年10)で、宇野浩二は、昭和六、七年頃、銀座食堂で荷風を見かけた思い出を書いている。

銀座食堂は、資生堂とコロンバンのちょうど真ん中あたり(現在の松坂屋前あたり)にあった。
「銀食」と呼ばれ、簡単な日本料理を食べさせる大衆的な店だった。

松崎天民『銀座』には、「銀座食堂は珍味屋であって、階上では鮎料理とか、松茸料理とかを調達して、手軽に美味い和食を供するのが特色である」とある。

宇野浩二は、たまに銀座に出かけると、この「銀食」に入って、金1円の定食を食べることにしていた。二階の窓に近い席に坐ると、ときどき荷風の姿を見た。
荷風は、いつもきまって正面の料理場に近いところにひとりで座り、「たぶん、私などと同じ金一円の定食を、たべてゐるように思はれた」
作家宇野浩二によれば、文壇に感動を与えた作品はこれまで四つある。藤村「破戒」、花袋「蒲団」、谷崎「少年」、そして、明治42年、帰朝したばかりの荷風が矢継ぎ早やに小説を発表した時。

その敬すべき荷風が、自分と同じように、大衆的な店でひとり食事をしている。
それを見て宇野浩二は感動を隠さない。
彼は、以前にも一度、夜の銀座で荷風を見かけたことがある。友人の田畑修一郎、中山省三郎とカフェー・タイガーに行き、その帰り、銀座の裏通りをひとり歩く荷風を見かけた。「この時の荷風の後姿は、その頃から二十年も後の今でも、私の目に、ありあり、残ってゐる」

そのときは後姿だった。銀座食堂では正面から荷風を見ることが出来た。感動はいっそう深い。
「この『銀食』の二階の片隈で、一人、質素な食事をしてゐた荷風の姿は、やはり、その頃から二十年ちかい後の今でも私の目に残ってゐる」
「そうして、さきに述べた、銀座の裏通りの、薄暗い町の真中を、歩いてゐた荷風の後姿とこの『銀食』で見た荷風の姿を、おもひだすと、私は、何ともいへぬ感動をおぼえるものである」

荷風は、銀座食堂で食事をするだけでなく惣菜を買うこともあった。
昭和9年1月20日、
「燈刻銀座に往き銀座食堂に飯し、栗きんとんを購ふ折詰八十銭」
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「東京紅團」(コチラ)という尊敬に値する博学サイトに昭和5年~10年頃の銀座の地図が掲載されている。
失礼ながら無断拝借させて戴く。

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