2012年10月29日月曜日

寛弘3年(1006)12月26日 藤原道長、法性寺五大堂の供養を行う

東京 北の丸公園
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寛弘3年(1006)
6月
・この月、興福寺と大和国で相論(紛争)。
7月、興福寺僧徒が入京、八省院・道長第に至り愁訴する。

発端は、左馬允(さまのじよう)当麻為頼(たいまのためより)が興福寺領池辺園の領預である人物に乱暴を働いたので、怒った興福寺大衆が為頼の私宅を焼き討ちし、田畑二百余町を損なった。

これに対して大和国は大衆を扇動したとして興福寺の巳講蓮聖(いこうれんじよう)を朝廷へ訴えたところ、朝廷は蓮聖の公請(くじよう、朝廷の法会に召されること)を停止した。
それに怒った興福寺大衆が大挙して上洛し、強訴しようとしたが、道長の説得で引き上げたという。
この時の大和守が源頼親で、事件の発端となった当麻為頼は、前美濃守頼光と大和国司頼親の威を借る郎等・従者である。

事件の背後には、武力を恃んだ頼光・頼親の大和国支配を巡る意向があったと考えられる。
「件の頼親は殺人の上手也」(『御堂関白記』寛仁元年3月11日条)と、道長は頼親の武士的側面を見ている。
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9月
・一条天皇、道長の土御門第へ競馬行幸
道長は、公卿や殿上人を呼んで私的に競馬を行なっただけでなく、天皇の行幸を仰いで行なったこともある。
この月の一条天皇行幸が史上初例。
「汝の家に馬場有り、幸有りて御馬を馳せ、覧ずるは如何」との天皇の申し出を受けたと道長は記す。
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12月26日
藤原道長は、法性寺に五大堂を建立し、この日、供養を行なう

法性寺は、藤原忠平の建立で摂関家の氏寺
毘盧舎那仏を安置した本堂と礼堂、五大堂、南堂、尊勝堂などがあり、天台系寺院で密教色が強かったらしい。
天徳2年(958)に火災にあい、大きな被害がでて、この時道長が五大堂を再建した。

五大堂と五壇法
五大堂とは、不動、降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉の五大明王を安置する堂である。
この五大明王を本尊として修する五壇法は、摂関期以降、調服や出産の安産祈願のための私的修法としてさんかんに行なわれた。
五壇法の始まりは、天慶3年(940)2月に東西兵乱(承平・大慶の乱)の降伏を祈って法性寺五大堂において修したことをあげる説がある。
本来は、不動明王のみを本尊として一壇で修した不動法があったが、そこから天台密教において五大壇を用いる形式に発展したもの。

良源が五壇法を広めた。
康保4年(967)、冷泉天皇の狂気が強まり、山門一流の僧を集めて五壇法を修した時に良源が中壇(不動明王)をつとめた。
その後も、良源は、五壇法で円融天皇の病いを回復させたこともあり、名声を博した。
法性寺五大堂や天台密教の五壇法との密接な関係の歴史をうけて、道長の時代において五壇法は完成に到った。

道長は、寛弘元年、木幡に寺地を選定した日の帰りに法性寺に赴き、所々の修理の状況を検閲し、翌2年12月、五大堂建立を決める。
翌寛弘3年7月27日に上棟。10月25日に新仏像の開眼供養、12月26日に五大堂供養を行なう。
1人を除いて全公卿が参会し、勅使や院宮からの使も立てられ、大規模な晴儀であった。
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