2012年10月30日火曜日

寛弘4年(1007)8月 藤原道長、金峯山に参詣(御嶽詣)し、経筒を埋納( 金峯山理経)

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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寛弘4年(1007)
この年
・源信は横川に戻り、この年には「霊山院式(りようぜんいんしき)」を作成して、華台院南の霊山院で釈迦講を始めた。
その結縁者500余名の中には、僧侶以外にも、資子内親王、中宮定子、藤原公季、藤原道長室源倫子などの上級貴族、また中下級官人、近江の名主層までもが含まれており、寛仁元(1017)年の末法到来に向けての浄土教の広がりがわかる。
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・この頃、「拾遺和歌集」「和泉式部日記」が成立。
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2月
・この月、道長、前年12月に供養した法性寺五大堂で五壇法を修す。
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4月20日
・この日、賀茂祭で道長に「上達部十余人同道」(『御堂関白記』4月20日条)。
道長は公卿たちを従え賀茂祭(かもまつり)見物などを見物。このようなことは道長以前の摂関には見られなかった。
道長も一条朝前半までは妻子や親しい公卿などと小規模で見物を行っていたが、一条朝後半以降、道長の見物所に公卿等が参集して見物するようになる。
『権記』寛弘6年4月24日条では、賀茂祭の道長の「棚」(桟敷)に藤原道綱以下九人の公卿が集まっている。
このような公卿以下が道長の見物所に参集する見物方法は、院政期の院へと継承され、さらに大規模化・儀式化していく
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4月25日
・4月25、26日、内裏で大規模な密宴と作文が行なわれた。
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8月
道長が金峯山に参詣(御嶽詣=みたけもうで)し、経筒を埋納する。
金峯山理経。

御嶽詣(金峯山を金の御岳と呼ぶためこう称された)のためには、まず精進潔斎が必要であり、この年閏5月17日に中宮亮源高雅宅を精進所として3月弱の長斎(本来は百日)を始めている。
蔵王権現には子を授かるという効験が信じられていて、『栄花物語』「はつはな」は、翌年彰子の懐妊がわかった時に「みたけのしるし」と喜んだと書き、皇子誕生を祈っての御嶽詣であったと述べている。

『御堂関白記』による行程。
8月2日に京を出発。
3日~6日、大安寺や壷坂寺など大和の諸寺に宿し、7日、野極(のぎわ、今日の吉野蔵王堂の下方)に宿す。
以降尾根つたいに修験の道を登り、数多くの難所をへて、10日に山上御在所の金照房に到着。
翌11日は早朝沐浴の後、子守三所、三十八所(日本中の神が集まる)、御在所に参詣し、ここで法華経百部と仁王経を三十八所のために、理趣分(大般若経の一部)を一条天皇・冷泉院・東宮のために、般若心経を八大龍王のために供養。
そして道長が、長徳4年、書写した金泥法華経一部および今度書写した弥勒経三巻・阿弥陀経・心経を供養して、金銅灯楼をたててその下に埋納した。

この時、頼光は随行者の一人として、頼親は大和守として、それぞれ道長にかいがいしく奉仕している。

経筒の銘文
自筆経巻は「妙法蓮華経一部八巻・無量義経・観普賢経各巻、阿弥陀経一巻、弥勒上生下生成仏経各一巻、般若心経一巻」の15巻であると記す。
法華経は「釈尊の恩に報ひ、弥勒に値遇(ちぐう)し、蔵王に親近せんがため」「弟子の無上の菩提のため」、
阿弥陀経は「臨終の時身心散乱せず、弥陀尊を念じ、極楽世界に往生せんがため」、
弥勒経は「九十億劫の生死の罪を除き、無生忍を証し、慈尊の出世に遇はんがため」、
とそれぞれの願意を記し、
最後に、慈尊成仏の時に当りて、極楽界より仏所に往詣し、法華会聴聞のため成仏記を受け、その庭にこの奉埋する所の経巻、自然に湧出し、会衆をして随喜を成さしめん、
と記す。

弥勒菩薩が兜率天(とそつてん)から五十六億七千万年後に下生し、法会を開き、衆生を救うという、弥勒下生信仰にもとづいている。その時に道長は極楽界から参会し、またこの経巻が湧き出ることを願っているが、これは法華経見宝塔品の構想によって経筒を「法身之舎利」として埋めるとのべ、この経筒は一種の舎利塔として湧き出るカをもっていると考えている。

法華経・阿弥陀経・弥動経の各信仰が併存し、金峯山は弥勤下生の地と信じられていたらしいので弥勒浄土信仰が大きな役割をしめ、また末法思想もあった。
ただ経筒の緑に梵字で「南無妙法蓮華経」と記し、納めた経典も第一に法華経であったように、道長の中心にあったのは法華経信仰であったらしい

金峯山理経
金峯山は、吉野の奥、大峰連峰の総称で、山岳修行の第一の霊場。
吉野の金峯山寺は山下と呼ばれ、中心となる山上とは標高1,719mの山上(さんじょう)ケ岳である。その山頂には湧出岩と呼ばれる巨岩があり、蔵王権現が湧現したところと伝えられ、現在も女人禁制。
蔵王権現は、金剛蔵王菩薩ともいい、修験道の開祖役行者(えんのぎようじや)が金峯山の頂上で衆生済度のため祈請して感得したと伝える魔障降伏の菩薩であり、釈迦の化身とも弥勒の化身ともいわれる。修験道とともに発展した神格である。

この山頂付近から、元禄4年(1691)山上の本堂改修の際に、経塚が発見され、寛弘4年(1007)7月の約500字に及ぶ銘が刻まれた円筒形の金鋼製経筒(国宝)とその中に遺っていた道長書写の経典残巻が発掘された。
日本で最古の経塚遺物であるだけでなく、この時の道長の御嶽詣の状況が『御堂関白記』に道長自身が自筆で記して全容が伝わる点でも画期的な事例である。
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11月
・教通(道長五男)、この月、右少将に任ぜられる。
12歳で春日祭使を勤める。以降摂関家嫡流のデビューの場となっていく。
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