2012年10月31日水曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(44) 「二十六 「見る人」の写真道楽」(その2)

江戸城(皇居)汐見坂
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(44)
 「二十六 「見る人」の写真道楽」(その2)

「荷風がカメラに凝ったのもこうした一九二〇年代から三〇年代にかけてのモダン都市における写真熱の流れのなかでのことである。荷風もまた当時のアマチュア写真家、「写真道楽」の主だったといっていいだろう。」(川本)。

「日乗」にはっきりと「写眞機」のことが書かれるのは、昭和11年10月26日(「濹東綺譚」草稿なった翌日)。
「夜久邊留(*キウベル)に往く。安藤氏に詫(ママ)して写眞機を購ふ金壱百四圓也」。
知人安藤英男を通じて、百四円で中古のドイツ製二眼レフ、ローライコードを買う。

佐々木桔梗『私家版「濹東綺譚」の写眞機』(プレス・ビブリオマーヌ、昭和48年)によれば、このカメラは「ローライコードⅠ型」という。
「通称『金ピカ』というⅠ型前期に属するもので、中古程度A・B級(Aは一、二年使用。Bは三年使用)で平均百二、三〇円」
「まず見苦しくない程度の中古がやっと百四円で買えたのである。ただこの4.5付は仲々立派な金属板を張った美しいデザインであり、革張りのように同じ年月使っても汚れが目立たないという特徴があった。それに中古と雖も発売後二、三年の天下のローライコードであり、その価格からも誰にでも買えるものではなく、得々と仲間に話す荷風の姿が目に浮ぶようだ」

カメラを手にした翌日から早速濹東散歩を試みる。
10月27日
「晴れて風あり。落葉蔌々(ソクソク)たり。夜十三夜の月よし。濹東を漫歩して夜半に帰る」

昭和11年の10月から12月、翌12年の1月にかけて、写真機を持って濹東の町に頻繁に写真撮影に出かけていく。木母寺にも、小石川の生家あたりに出かけたのもこのローライコード持参の散策である。玉の井をはじめ、浅草、亀戸、吉原、小名木川と荷風は実にこまめに写真撮影に歩いている。旺盛な「見るエネルギー」に圧倒される。

昭和11年11月24日
「快晴。午後浅草千束町大音寺に往き墓地を撮影す」

同年11月30日
「快晴。風なし。午後玉の井に往きて路地の光景を撮影す」

同年12月2日
「二時過家を出で写眞機を携へて中洲より亀戸に至り更に白髯橋に出づ」

同年12月5日
「夜銀座より吉原に往き仲之町を撮影してかへる」

同年12月7日
「快晴。午後土州橋の病院に往き、それより葛西橋に至る。写眞撮影二三葉なり」

同年12月10日
「午前讀書春水人情本午後写眞機を携へ浅草公園に行く」

同年12月30日
「晴。東北の風親し。午後土州橋の病院に往き注射をなし、乗合バスにて小名木川に抵る。漫歩中川大橋をわたり、其あたりの風景を写真にうつす」

昭和12年1月15日
「晴れて曖なれば写眞機を提げ午後小塚原より京水バスに乗りて西新井橋に到る」

もともと好きだった下町歩きが、カメラという同行者を得て勢いを持った。
カメラが新しい喜びになっている。

さらに荷風は、このころ私家版「濹東綺譚」の印刷を依頼した京屋印刷所主人名盬富の世話で、新しいカメラを買った。
昭和12年2月1日
「陰。午後丸ノ内に用事あり。又空庵子を築地に訪ふ。名盬君周旋のカメラを購ふ参百拾圓也晡下玉の井に往き一部伊藤方を訪ふ。帰途雨雪こもこも至る」
「ローライコード」の百四円よりも三倍も高い。

高橋邦太郎の回想文「荷風先生とぼくたち」によれば、「荷風先生は夏でもキチンとネクタイをし、編上靴をはき、金の鼻眼鏡をかけ、時にはローライ・フレックスを持って来られた」とあるから、この新しいカメラは、口ーライコードよりも性能が良く室内での撮影にも適したローライフレックスであることがわかる。

昭和12年2月2日
「陰。晏起(アンキ)午に近し。晩間空晴る。銀座に飯して後玉の井伊藤方を訪ふ。昨夜購ひたるカメラの撮影を試む」

荷風は表通りのきらびやかなモダン建築にはカメラを向けない。逆に、墓地、路地、放水路、そこに架かる橋といったふつうはカメラが向かわないものにこだわっていく。
とくに墓地の撮影は早くから試みている。
大正4年10月6日親友井上唖々宛手紙には「此頃墓地の写眞とりて楽しみ居候」とある。近いうちに白山本念寺にある大田蜀山人の墓を写しに行きたいのでその折りはご一緒したいと誘っている。カメラを持って散歩に出かけ、墓地で江戸文人の墓を撮影する。
「写真道楽」と展墓趣味が結びついている。

昭和16年3月10日
「空晴れわたり春風のそよそよと吹通ふ暖かさ、四月も花盛りのころの如し。正午カメラを提げ向嶋木母寺に往き先年見残せし石碑及石垣寄進者人名を撮影す」

同年3月15日
「春風駘蕩たり。午後カメラ提げて伊皿子台町に至り長應寺を尋ねたり」

同年11月12日
「晴。午後カメラを提げ再び少林院の後丘に南郭先生の墓を展し其養子仲英の墓誌を写す」

カメラという新しい視覚メディアを手にして荷風は古い寺や墓、石碑や墓碑を撮影する。荷風の陋巷趣味はここにもみごとに発揮されている。
この時期に撮影した写真が、昭和12年刊私家版『濹東綺譚』や昭和13年刊岩波書店版『おもかげ』に挿入されることになる。

浅草通いが頻繁になってからは、踊子や女優を写すことも多い。

昭和13年3月5日、
「晴。暖気四月の如し。午後光生社主人渡邊氏と共に浅草オペラ館に赴き楽屋及舞台を撮影す」

同年3月16日
「薄暮オペラ館薬屋を訪ふ。写眞撮影」

同年3月20日
「夜浅草オペラ館楽屋を訪ひ写眞をうつす」

同年3月30日
「晴。午後浅草公園中西喫茶店に至りオペラ館踊子二三人の来るを待つ。幕間に隅田公園に至り写眞をうつす約束をなしたればなり」

同年4月16日
「快晴。一重桜既に散る。午後よりオペラ館楽屋踊子の大部屋に至りて遊ぶ。写真撮影。フイルム三本を費して猶足らぬはどなり」

昭和16年2月15日
前夜、オペラ館の楽屋で二、三人の踊子に、休憩時間に伝法院の庭で「写真をとって下さいね」と言われたので、その約束を果すために朝から浅草に出かけ、伝法院の庭で踊子たちの写真を撮影している。秋庭太郎によれば、当初、嫡子たちは、荷風の何者たるかを知らず「写真屋の小父さん」と呼んでいたという(『考讃永井荷風』岩波書店、昭和41年)。

オペラ館に出入りする丼飯屋の老人を描いた短篇「動章」(昭和17年)はこのころのオペラ館通いから生まれている。
昭和13年10月24日の「日乗」にこの老人の詳しい記述がある。
その文章そのものがすでに短篇の味わいがある。

「晴。夕方ちかく電話の鳴ひゞく音、何ともなくやがて訪問記者の来るが如き心地せられしかば、夕飯もそこそこにカメラを提げて家を出で、オペラ館に往く。この芝居の楽屋に出入りする弁當屋年六十ばかりなる老爺あり。岡持に堪忍屋とかきたるを人々カニヤとよぶなり。毎日綱島より浅草へ通ひ来る由。家は京濱線綱島駅のほとりなりと云ふ。如何なる人の成れの果なるや知らねど其面立様子より考るに小商人にはあらず、若き時より屋台店でも出して居たるものか、然らずは人力車夫なりしかと思はるゝ身体付なり。三四日前の夜なりき岡持と共に日露戦争の時下賜せられし勲八等瑞寶章と従軍紀念章とを持ち来り役者踊子供に之を示し、其場に居合せし余に向ひて、役者の軍服を借り此勲章を下げて見ますから、とうぞ一枚写真をとって下さいと言ふ。眞情面に顕はれて哀れに思はれたれば、余この夜カメラと写眞用の電球とを携へ踊子の大部屋に至るに、老爺は腹掛の中に入れたる勲章を取出し、衣裳の軍服へこれを縫付け、姿勢正してカメラの前に直立したり。写眞撮影の後老爺はしばらく茫然として其場に立ちすくみ何やら物思ひに沈みし様子なりしが、突然淋しき微笑を浮べ三十年前にやわたしも元気でしたがもう駄目ですよと言ひ終りてぬぎたる軍服を丁寧にたゝみ、又暫く無言にてこれを眺めゐたり。何事も知らぬ踊子供は三々伍々舞台より帰来り衣裳をぬぎかへつゝ弁當の注文をなす。親爺はよしよしとうなづき岡持さげて階段を降り行きぬ。芝居はねて後森永に飯して外に出るに小雨いつの間にか降り出でたれば、松竹座前にて圓タクに乗る。浅草橋を渡るころ運転手の言ふやう、先生をお迭りするのは今夜で四度目です。葛飾情話は二度見ました。帰宅後フイルム現像。午前三時寝に就く」

ここにも荷風の随巷趣味がうかがえる。

「荷風がカメラを愛したのは、荷風が徹底した「見る人」だったからだろう。彼はついに人間を愛し得なかったが、しかし、人間の生活を距離を持って見るのは好きだった。遠くから町と人間を見るのは好きだった。そうした孤独癖の強い「見る人」にとっては、カメラは絶好の同行者だった。」(川本)。

池澤龍彦『思考の紋章学』(河出書房新社、昭和52年)のなかで荷風のカメラ好きに触れ、荷風を「スコプトフィリア」(のぞく人)と呼んだ。
「そうした荷風にとってレンズを通して風景を見ることの出来るカメラは、現実との絶好の遮蔽物になったに違いない。ラジオをあれほど嫌った荷風が、カメラを愛したのは、ラジオが現実そのものだったのに対し、カメラは現実をレンズ越しに見る内密的な道具だったからである。」(川本)

荷風は、現像も自分でやった。
昭和12年2月1日、「写眞を現像して暁一時に至る」とある。

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