2012年10月22日月曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(44) 「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 - 流血の反革命」(その2)

東京 江戸城(皇居)東御苑
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(44)
「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 
- 流血の反革命」(その2)

残酷な経済政策
クーデタ翌日には軍の将官にシカゴ・ボーイズが準備した経済プログラムが届く
 シカゴ・ボーイズにとって、九月一一日はめまいがするほどの期待感と、締め切りを前にした焦りに振り回された一日だった。
シカゴ大学留学第一期生でチリ・カトリック大学経済学部長のセルヒオ・デ・カストロはその直前まで海軍の担当者と、新経済政策をまとめた”レンガ”の最終部分を一ページごとに確認する作業に追われていた。
クーデター当日、街頭で発砲音が響くなか、シカゴ・ボーイズ数人が右派の新聞『エル・メルクリオ』の印刷機の前で、経済プログラムの印刷を軍事政権発足第一日目に間に合わせようと必死になっていた。
同紙編集委員の一人、アルトゥロ・フォンタイネはその日のことを、印刷機が「長大な資料を何部も印刷するためノンストップで動いていた」とふり返る。
そして作業はぎりぎりのところで間に合った。
「一九七三年九月一二日水曜日の正午前、政府の運営にあたる軍の将官たちの机の上には経済プログラムが置かれていた」

経済プログラムはフリードマン『資本主義と自由』の提案と酷似 
 経済プログラムの最終原稿に盛り込まれた提案は、ミルトン・フリードマンが『資本主義と自由』で行なった提案 - 民営化、規制緩和、社会支出の削減 - と驚くほど似ていた。
アメリカで教育を受けたチリの経済学者はかつて、これらの考え方を民主的な議論の枠内で平和的に導入しようと試み、大多数の反対により却下されていた。
だが、彼らの極端な考え方にきわめて親和的な環境が到来した今、シカゴ・ボーイズとそのプログラムは息を吹き返したのだ。
この新たな時代においては、賛意を示すのは軍服を着た数人の男たちだけで十分だった。
もっとも強硬な政敵はすでにこの世を去るか、拘束されるか、はたまた国外に逃亡していたし、戦闘機や「死のキャラバン」の光景がそれ以外の人々をおとなしくさせていた。

アジェンデ政権の暴力的終焉はシカゴ学派のキャンペーンの最初の具体的勝利の始まり
 「われわれにとって、あれは革命だった」とピノチェトの経済顧問の一人だったクリスティアン・ラロウレットは言う。これは何も大げさな表現ではない。
一九七三年九月一一日は、アジェンデによる平和的な社会主義革命の暴力的終焉であるだけでなく、『エコノミスト』紙がのちに「反革命」と呼ぶもの ー すなわち開発主義とケインズ主義のもとで勝ち取られたものを取り返すシカゴ学派のキャンペーンの、最初の具体的勝利の始まりだったのだ。
アジェンデの革命は民主主義の力によって緩和され、譲歩を強いられた結果、部分的なものだったのに対し、暴力によって強行されたこの反乱を妨げるものは何もなかった。
これ以降、〝レンガ″に提示されたのと同じ政策が他の何十もの国々で、さまざまな危機を隠れ蓑にして実施されることになる。
チリはそうした反革命の起源、恐怖の起源だったのである。

ホセ・ピニェーラ(ハーバード大学大学院の学生)、ピノチェトの労働相および工業相
 チリ・カトリック大学経済学部の卒業生で自称シカゴ・ボーイのホセ・ピニェーラは、クーデター当時、ハーバード大学大学院の学生だった。
祖国で起きた喜ばしいニュースを聞くと、ピニェーラは「古い国の廃墟のなかから自由に捧げられた新しい国を創るのに力を貸すために」帰国した。
やがてピノチェトの労働相および工業相に就任するピニェーラによれば、それは「真の革命(中略)自由市場に向けての徹底的かつ包括的、持続的な動きだった」。

陸軍大将アウグスト・ピノチェト、クーデター内クーデターにより大統領・国家最高元首となる
 クーデターの前、陸軍大将だったアウグスト・ピノチェトは文官の上司にお世辞を言い、けっして逆らわないなど、へつらいとも思えるほどの従順さで知られる人間だった。
だがいったん独裁者となると、ピノチェトは今まで見せていなかった性格をあらわにする。
権力の座に就いたことを手放しで喜んでまるで絶対君主のように振る舞い、こうなったのは「運命」のなせるわざだと言ってはばからなかった。
ほどなくクーデター内クーデターを起こして、権力を分け合うことに同意していた三人の軍指導者を解任、自らを大統領であるとともに国家最高元首と称した。
支配者であることの証としての壮麗なセレモニーを好み、儀式に出るときは必ずプルシアンブルーの軍服の上にマントといういでたちだった。
サンティアゴ市内の移動には、特注の黄金色の防弾ベンツを何台も連ねるのが常だった。

経済危機に際し、シカゴ大学留学組を上級経済顧問(「テクノ」)に任命
 ピノチェトには独裁者としての才覚が備わっていたものの、スハルト同様、経済に関しては無知同然だった。
これは大きな問題だった。というのも、アジェンデ政権の国有化政策に反対して国際電話電信会社(ITT)の主導により行なわれたサボタージュ・キャンペーンのおかげで経済は急激に悪化し、ピノチェトは本格的な危機を抱えていたのだ。
発足当初から軍事政権内部には権力争いがあった。
アジェンデ以前の状況に戻り、一日も早く民主主義を回復するべきだと主張する人々と、ある程度の年月をかけて徹底的な自由市場経済体制を敷くべきだとするシカゴ・ボーイズとの対立である。
新たな権力の座に嬉々としていたピノチェトにとって、自らの運命が単なる「浄化」に終わること、言い換えれば秩序を回復してすみやかに退陣することなど、とうてい受け入れられなかった。
「われわれは政治家の先生たちに権力を返すためにマルクス主義を一掃する掃除機ではない」というのがピノチェトの口癖だった。
国家の全面的な改造を目論むシカゴ・ボーイズのビジョンこそ、新たな野心に燃えるピノチェトの心をつかんだのだ。
そしてスハルトがバークレー・マフィアを登用したように、ピノチェトも即刻、国家改造ビジョンの事実上のリーダーで、”レンガ”の主著者であるセルヒオ・デ・カストロをはじめ数人のシカゴ大学留学組を上級経済顧問に任命した。
そして、経済改革は主観的な人間の選択ではなく科学的問題であるというシカゴ学派の主張にふさわしく、彼らを「テクノ(技術者)」と呼んだのである。

ピノチェトとシカゴ学派の一致
 ピノチェトはインフレや金利についてほとんど理解していなかったが、テクノたちは彼の理解できる言葉で話した。
彼らにとって経済とは、敬意を払い従うべき自然の力を意味した。なぜなら自然に反して行動することは非生産的であり自己欺瞞的」だからだと、ピニェーラは述べている。
ピノチェトもこれに同意した。
彼はかつて人間はシステムに服従すべきであると書き、その理由を「自然はわれわれに基本的秩序と階層が必要であることを教えてくれる」からだと説明している。
この自然法則に服従すべきという考え方が、ピノチェトとシカゴ学派との結びつきの基礎をなしていた。

シカゴ学派の指示を忠実に守ったピノチェト
 最初の一年半、ピノチェトはシカゴ学派の指示を忠実に守った。
いくつかの銀行を含む国営企業の一部(全部ではなく)を民営化し、最先端の新しい形の投機的金融を許可し、長年チリの製造業者を保護してきた障壁を取り除いて外国からの輸入を自由化し、財政支出を一〇%縮小した(ただし軍事費だけは大幅に増大した)。
さらに価格統制も撤廃したが、これはパンや食用油など生活必需品の価格を過去何十年間も統制してきたチリにとって、急進的な措置だった。

世界最高のインフレ:シカゴ学派の実験は大失敗
 シカゴ・ボーイズはピノチェトに対し、こうした領域での政府の介入を一気にやめれば経済の「自然」法則が平衡を取り戻し、インフレは(シカゴ・ボーイズによれば、インフレとは市境に病原体が存在することを示す一種の経済的発熱だという)魔法のように消えると確信を持って説明した。
だが彼らは間違っていた。
一九七四年、チリのインフレ率は三七五%にも達したが、これは世界最高の数字で、アジェンデ政権下での最高時の二倍にあたる。
パンのような基本食品の価格は天井知らずに高騰し、他方、失業者は増える一方だった。
「自由貿易」実験によって、国内には安い輸入品があふれていたからだ。
国内企業は競争に負けて閉鎖を余儀なくされ、失業率は記録的に上昇、飢えが蔓延した。
シカゴ学派の最初の実験は大失敗に終わったのである。

やり方が不徹底だから失敗する。削減・民営化をもっと迅速に進めねばならない
 セルヒオ・デ・カストロをはじめとするシカゴ・ボーイズたちは、悪いのは自分たちの理論ではなく、適用のしかたが不徹底であるせいだと、まさにシカゴ流のやり方で主張した。
経済が自己修正して自然の均衡を取り戻さないのは、半世紀近くも続いてきた政府介入による「歪み」がまだ残っているせいにほかならない
実験を成功させるためには、ピノチェトはこうした歪みを除去する必要がある ー すなわち削減と民営化をもっと迅速に進めなければならないというのだ。
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