2012年11月1日木曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(48) 「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 - 流血の反革命」(その6)

東京 北の丸公園
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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(48) 
「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 - 流血の反革命」(その6)

広がる軍事クーデター、消える民衆
ブラジル、ウルグアイ
その後しばらくの間、「次のヤク」はシカゴ学派の反革命主義が急速に広まった他の南米南部地域諸国で見つかった。
ブラジルはすでにアメリカの支援を受けた軍事政権の支配したにあり、かつてフリードマンのもとで学んだ数人のブラジル人が主要なポストに就いていた。
フリードマンは一九七三年、残酷な強権政治まっただなかのブラジルに赴き、同国の経済的実験を「奇跡」だと称揚した。
同年、ウルグアイでは軍部がクーデターを起こし、翌年シカゴ学派路線に舵を切る。
シカゴ入学を卒業したウルグアイ人が不足していたため、将軍たちは「シカゴ大学からアーノルド・ハーバーガーとラリー・スジャースタッド(経済学教授)、およびアルゼンチン、チリ、ブラジルの元シカゴ大学留学生などで構成されるチームを招き、ウルグアイの税制と商業政策の改革にあたらせた」。
それまで貧富の差の小さかったウルグアイ社会への影響はすぐに現れた。
実質賃金は二八%も下落し、首都モンテビデオの街頭には、かってはなかった、ゴミをあさって食べる人の姿が見られるようになった。

そしてアルゼンチン
 次に実験に加わったのはアルゼンチンだった。
一九七六年、同国ではイサベル・ペロンに代わって軍事政権が権力を握った。
これによってアルゼンチン、チリ、ウルグアイ、ブラジルという、かつて開発主義のモデルケースと言われた国々すべてにアメリカの支援を受けた軍事政権が成立し、シカゴ学派の経済理論の生きた実験室となったのである

 二〇〇七年に機密解除となり発表されたばかりのブラジルの資料によれば、アルゼンチンの軍事クーデターの数週間前、アルゼンチン軍部はピノチェトとブラジルの軍事政権に接触し、「将来の政権が取るべき主要な段階の概略を作成した」という。

 こうした緊密な協力態勢を取ったにもかかわらず、アルゼンチンの軍事政権はピノチェトほど徹底した新自由主義の実験には踏み込まなかった。
たとえば、石油資源や社会保障まで民営化することはなかった(後年、そうなるのだが)。
だがアルゼンチンの貧困層を中流階級にまで引き上げた政策や制度への批判という点では、同国の軍事政権はまさにピノチェトと同じやり方を収った。その一因は、シカゴ大学に留学したアルゼンチン経済学者の数の多さにある。

経済大臣ホセ・アルフレド・マルティネス・デ・オス
 シカゴ大学で教育を受けたアルゼンチンのシカゴ・ボーイズは、財務財務省国庫課の調査部長、その他の経済関連職など、軍事政権の経済分野の要職に就いた。
だが、アルゼンチンのシカゴ・ボーイズが軍事政権に参加することに熱心だったにもかかわらず、経済大臣という最高の職に就いたのは彼らのうちの一人ではなく、ホセ・アルフレド・マルティネス・デ・オスだった。
彼は長年同国の輸出経済を支配してきた牧場経営者協会ソシエダー・ルラルに所属する地主階級の一員で、アルゼンチンの貴族階級とも言うべきこれらの地主たちにとって、小作人に土地を再分配したり、誰もが肉を食べられるように食肉価格が引き下げられたりする心配のない封建的な経済秩序は、きわめて好都合だった。

 マルティネス・デ・オスは祖父の代から父、本人とソシエダー・ルラルの会長を勤め、パンアメリカン航空やITTをはじめ、いくつかの多国籍企業の取締役でもあった。
彼が軍事政権の閣僚入りを果たしたことで、このクーデターが四〇年間にわたる労働運動の成果に対するエリート階級の反逆であることが明らかとなった。

キッシンジャー国務次官「マルティネス・デ・オスはいい人間だ。」
 経済相に就任したマルティネス・デ・オスがまず行なったのは、ストライキの禁止と雇用主に労働者を自由に解雇する権利を与えることだった。
価格統制も廃止したため、食料価格は急騰した。
さらに、外国の多国籍企業をふたたび歓迎するべく外国資本の出資制限も撤廃し、就任後数年間は何百社もの国営企業を売却した。
こうした措置を取ったことで、彼はワシントンに強力な支持者を獲得した。
機密解除された資料によると、ラテンアメリカ担当国務次官補ウィリアム・ロジャーズはクーデターの直後、ヘンリー・キッシンジャー国務次官に「マルティネス・デ・オスはいい人間だ。われわれはこの間ずっと彼と緊密に協議してきた」と話し、これに感銘したキッシンジャーはマルティネス・デ・オスがワシントンを訪問した際に「象徴的なジェスチャーとして」鳴り物入りの会談を行なうよう手配した。
さらにキッシンジャーは、アルゼンチンの経済的取り組みを支援するために何本かの電話をかけることを申し出た。
「デイヴィツド・ロックフェラー(チェース・マンハッタン銀行頭取)に電話をしておこう」と彼はアルゼンチン軍事政権の外相に申し出、さらにこう言った。
「それから彼の弟(ネルソン・ロックフェラー米副大統領)にも電話しよう」

「過去の歴史を見ても、これほど民間投資に熱心な政府はほとんどありません」
 投資を呼び込むため、アルゼンチンは『ビジネスウィーク』誌に三一ページにわたる広告を打つ。
世界最大手の広告会社パーソン・マーステラの制作したこの広告はこう語りかけた。
過去の歴史を見ても、これほど民間投資に熱心な政府はほとんどありませんでした。(中略)私たちは真の社会革命の担い手であり、パートナーを求めています。国家主権主義を脱却し、民間部門の持つきわめて重要な役割にゆるぎない信念を持っているのです」
*軍事政権は国を競売にかけたいあまり、「六〇日以内に着工する場合、土地価格を一〇%割り引く」と宣伝した。

貧困は悪循環に陥った
 これにもまた、社会への明らかな影響があった。一年以内に賃金は四〇%目減りし、工場は閉鎖され、貧困は悪循環に陥った。
軍事政権が成立する以前、アルゼンチンの貧囚人口は九%とフランスやアメリカより少なく、失業率も四・二%にすぎなかった。
ところが今やこの国は、すでに過去のものになったと思われていた低開発の兆候を呈し始めたのだ。
貧困地域では水も満足に出ず、予防可能な疫病が猛威を振るった。

 チリでは、国民に恐怖と衝撃を与えるやり方で権力の座に就いたピノチェトが、経済政策によって中流階級を骨抜きにする自由裁量を手にしていた。
だが彼の駆使した戦闘機や銃殺隊は、恐怖の拡散にはとてつもない効果を発揮したのとは裏腹に、宣伝という点では悲惨な結果をもたらした。
ピノチェトの指令による虐殺のニュースは世界中に激しい抗議を呼び起こし、ヨーロッパや北米の活動家は自国政府に対し、チリとの貿易を停止するよう強力なロビー活動を行なった。
国際ビジネスに門いを開くことを存在理由とするピノチェト政権にとって、これは明らかに好ましくない結果だった。

 ブラジルで新たに機密解除された資料によれば、アルゼンチンの軍将校たちは一九七六年のクーデターを準備するにあたって、「チリに対して向けられたような国際的な抗議運動が起きることを回避」したいと考えた。・・・(つづく)
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